THE FATES

8.驟雨(1)

 寝台代わりの長椅子に体を沈めて、紅はずいぶん長いあいだ息を殺していた。耳を澄まして、じっと部屋の様子を窺っている。
 夜が更けてしばらくが経った。卓を挟んだ向こうの由稀も、中二階の羅依と真小太も、扉の向こうの瞬も、眠っているようだった。
 紅は長椅子を軋ませないように起き上がり、靴を履いた。紐を結ぶ音がいやに大きく聞こえて、そのたびに顔をあげる。誰かが起き出す気配はなかった。
 上着に袖を通し、鞄を腰にさげる。静かに、静かにと心の中で繰り返して、倍以上の時間をかけて用意を終えた。すでに疲労感が体全体に広がっていた。
 足音を忍ばせて、部屋を出る。扉をひらく直前、真小太が顔をあげたが、しぃっと目配せをすると何事もなかったようにまた伏せた。
 スウィッグにまたがり、走り出す。絆景の通りは昼間に比べて人も灯りも多く、無機質な華やかさに彩られていた。呼び込みをする女の手を振り払って、紅は街のさらに深部へと向かう。
 目指したのは、以前清路と再会した場所だった。そこは夜になっても、人通りはあまりない。建物の地下へ伸びる階段は、おそらく賭場へ繋がっている。階段を覗くと、洩れた灯りが濃灰の壁を濡らしていた。紅はスウィッグにまたがったまま、階段の先を見つめた。
『君の数少ない友達の中に、絆清会の総統がいるね』
 凍馬の言葉を思い出す。なぜ紅と清路の関係を知っていたのか、相手が凍馬では疑問に思わなかった。それより気になったのは、なぜわざわざ天水の言葉でそれを伝えたのか、ということだった。
 理由はひとつしか考えられない。そこに由稀がいたからだ。ではなぜ、凍馬は由稀に聞かれることを嫌ったのか。
『知りたいだろう、鬼使のこと』
「鬼使……」
 呟きが夜に落ちる。紅の前にはいつもその名が立ちはだかる。清路と再会したときもそうだった。
『鬼使の息子ってのは、どんな気分だ』
 そう言って笑った清路の目は、決して笑っていなかった。
 ――鬼使・瞬。
 何度も聞いてきた名だ。瞬のことをそう呼ぶ者は多い。だが紅が鬼使のことを尋ねると、みな一様に口を閉ざした。
 考えることは嫌いじゃない。むしろ得意なほうだった。どんなに難しい方程式も定理も、すぐに解くことができた。
 だがこれは、考えて辿り着くような問いではない。
 目の前には階段がある。おそらくこの先に、答えが待っている。いま必要なのは思考ではない。勇気だ。この穴に潜っていく勇気だ。
 ため息にもならない息がこぼれる。
 心が決まらない。怖気づいている自分に嫌気が差しながら、それでも一歩を踏み出すことができない。起動したままのスウィッグにまたがり、思考ばかりを走らせている。
「くそっ」
 乱暴に頭を掻き、うなだれる。
 鬼使の正体がまともでないことは、予想がついている。それはみなの口ぶりからだけではない。絆景に張り巡らされた視線のひとつひとつが、無言のまま紅に教えていた。危害を加えられることも、無視をされることもない。ただずっと見られている。天水で生まれ育った紅にとっては、そもそも絆景で暮らすことがすでに普通ではない。
 それでも知ることを怖れているのはなぜだろうか。
 紅はうなだれたまま、頬を引き攣らせた。
 自分の予想を超えられるのが、怖いのだ。
 学生時代、想定通りの実験結果では退屈で仕方なかったはずが、父親の過去を知るだけで足踏みしている。想像もつかないような話を持ち出され、それで瞬を許さざるをえなくなる、そんな未来を怖れていた。
 紅は服の上から腹に手を当てた。飲み込んだ菱乃の欠片は、もうないかもしれない。だがここにはまだ彼女がいる気がした。
『私は紅に漣の空を見せたい』
 彼女の願いと、それを受け入れた自分からは、どうしても逃げ出したくなかった。
 スウィッグを完全に停止させ、紅は降りた。階段の淵に立って、息を整える。そっと足を踏み出すと、沼に踏み入る心地がした。それを思い切って突き破る。心の膜は、弾けて霧散した。
 階段は外より気温が低く、吐く息が白く染まった。靴音が冷たく響いて、灰色の壁に吸い込まれていく。少しずつ、剥きだしの心が凍っていく。これがいいのか悪いのか、紅にはわからない。だがためらいを捨てた足取りは嫌いではなかった。
 階段を降りきった先に、見るからに重たげな鉄の扉があった。触れると、すでに手のほうが冷たかった。力を込めて引こうとすると、その前に扉が中からひらいた。
「お?」
 扉をひらいた男が紅を見おろして、つぎはぎだらけの頬をゆるませた。紅も、あっと声を洩らした。
「あんたは、清路んとこの」
「十和だ。この前は名乗る間もなかったか」
「ん、ああ……」
 紅は握ったままだった把手から手を離し、十和の隙間から扉の奥を覗き込んだ。
「もしかして、総統に会いに来たのか」
「それ以外に、こんな所に来る趣味ねえよ」
「これから帰るところだ。少し待ってろ」
 そう言い残して十和は再び扉の向こうへ消えた。紅はその場で待っているのが気まずくなり、階段を上がった。
 起動させたスウィッグにまたがり、冷えた体をじわじわ温めていると、やがて清路が階段から出てきた。後ろには配下の二人が控えている。
 清路は紅を見て、曲がった鼻筋に皺を寄せて笑った。
「子どもが出歩く時間じゃない」
「この街で俺に手出しする奴なんていねーよ」
「それもそうか」
 声に出して笑って、清路は煙草に火をつけた。冷たい花の香りが、路面に落ちた水滴のように一瞬で弾けて広がる。
「で、俺に用があるって?」
「ああ」
「ずいぶん怖い顔だな」
 清路は紅のすぐそばに立ち、曇った夜空へ紫煙を吐き出した。その横顔に笑みはない。紅はかけていた眼鏡を外した。
「清路、お前に訊きたいことがある」
 口がからからに渇いていた。紅はありったけの唾を飲み込んだ。
「天水に仕掛けられた時間操作のこと、それから、鬼使のこと……」
 空へ向けられていた清路の眼差しが、紅を捉える。
「やっと知る気になったか」
「ずっと知りたいと思ってた。でも、知りたくなかった」
 思いに素直になれば、どれもこれも矛盾と不安ばかりで、紅は耐えかねて顔を逸らした。清路の眼差しを感じる。それはまるで夜の光だ。静かで、冷たく、鋭い。
 清路は鼻で笑った。
「誰も教えてくれなかったから、なんて言えば、俺はお前を殴り倒していたかもしれない」
「え?」
 紅が顔をあげると、清路は煙草を口にくわえてにやりと笑い、是も非もなく紅のスウィッグに乗り込んできた。
「お、おい、清路」
「話が聞きたいんだろう。長い話になる。立ち話じゃなんだし、絆清会の本館で話そう」
「だからってスウィッグに乗らなくても」
「久しぶりにお前の愛機にも乗りたい」
「じゃなくて、ほら、あいつらは」
 紅は十和と愈良を見て、語尾を濁した。スウィッグには運転者を含めて二人しか乗れない。清路はそうだなと言いながら、降りる気配がない。
「せ、清路……」
「十和、愈良。お前たちはもう上がれ」
「は?」
 素っ頓狂な声をあげたのは小柄な愈良のほうだった。
「しかし総統、護衛が……」
「紅と一緒にいれば、襲われることはない。大丈夫だ」
「は、はあ」
「じゃあ、行こうか。紅」
 清路は紅の後ろから腕を伸ばし、スウィッグの操作部を勝手に握って強く捻った。
「やめ……!」
 紅の抵抗も空しく、赤い機体から白い煙が大量に噴き出して、スウィッグは一気に加速した。
 あたりに満ちた白煙が風に流された頃にはもう、スウィッグの姿も紅の悲鳴も道先へ消えていた。