THE FATES

8.驟雨(2)

 瞬は寝台に腰掛けて、夜明けの街を眺めていた。ほんのひと時の、世界中が光に溢れた時間を、惜しむように噛みしめて味わう。
 そこへ、ぽつりと雨が落ちた。心の奥か、頭の隅か。意識のずっと深いところに、ひとしずくの雨が染みた。
 すぐに、仁支の命が失われつつあることに気がついた。
 上着を掴んで、部屋を出た。居間には由稀と真小太がいた。
「出かけるのか」
「ああ、今日は戻らないかもしれない」
 瞬は黒い上着に袖を通し、由稀を見ないで答えた。由稀はしばらく黙っていたが、わかったと言って笑顔を見せた。
「なあ、瞬。それでもお前はここへ帰ってくるんだろ」
 聡い少年だ。問いかけながら、念押ししている。瞬はかすかに頷いて外に出た。
 見上げた空に、朝の輝きはもうなかった。灰色に閉ざされた空は、瞬の心を映しはしない。瞬は仰いだ空に自分の手がかりを探したが、やがて諦めて歩き出した。
 移動法で墓守の民の集落へ行くことを考えたが、絆景の視線がそれを許さない。もしここで瞬が何らかの術式を使えば、それがたとえ簡単な移動法であったとしても、大騒ぎになって絆景の微妙なバランスが崩れてしまう。それは瞬の本意ではない。瞬は焦りを見せないように、ゆったりとした足取りで集落へ向かった。
 一歩絆景から出ると、途端に視線はなくなった。瞬は一息ついて、足を速めた。あらためて術式を考え始めた矢先、脇道から小さな影が飛び出してきて、ぶつかった。
「いてっ」
 小さな影は少年だった。
「すまない、――あ、お前は」
 尻餅をついた少年に手を伸ばし、瞬はあっと呟いた。
耶守(やす)
「ああ、あんたか。ちょうど良かった。あんたを呼びに行こうと思ってたんだ」
 耶守は瞬の手を借りて立ち上がり、服についた埃を払った。
「俺を? 仁支か」
「なんだ、やっぱりわかってたんだ。さすが……」
 小さな手は、顔に浮かべた笑みのわりに、汗ばんで冷たくなっていた。耶守は瞬の手を握り返し、まっすぐに瞬を見上げた。
「はやく行ってやって。じいさん、あんたのこと待ってる」
 まだ幼い声が、瞬をいっそう急きたてた。
「わかった」
「俺は店に行ってくる。移動法使っても大丈夫なように、根回ししとくよ」
「ありがとう」
 瞬は耶守から手を離し、狭い脇道へ入る。背後にあった耶守の気配が遠ざかっていくのを感じながら、移動法に身を包んで街から消えた。

 それは、まだ天水が時を刻んでいたころのことだ。
 鬼使・瞬へ登城の命令が出されたのは、三日降り続いた雨がようやくやんだ夜のことだった。深夜になって瞬が店を訪れると、給仕姿の仁支が重い口をひらいた。
「お前に登城命令がおりた」
 差し出されたのは、天水王家の印が捺された一枚の紙切れだった。瞬はそこに目を通して、そうかと言ったきり黙りこんだ。いつか来ると覚悟をしていたが、いざその時が来ると心がわずかに波立った。
 死への怖れはすでになく、失うものも何もない。それでも心がざわつくのは、すでに刷り込まれた恐怖のせいだ。折り重なった記憶と経験の底に、輪郭を失った怖れが震えている。
 いつだって過去が今を支配してきた。未来など今の延長線でしかなく、それは過去に帰結し、明けない夜のようだった。
 静かで寒い夜は嫌いだった。だが暗闇は優しかった。瞬のまぶたにそっと手を翳して、目に映るものを瞬から隠してくれた。汚いものもきれいなものも、何もかもを呑みこんでくれた。
 いつもより多く灯された明かりが、仄かな熱を伴ってじんわりと肌に沁みこんでくる。
 ふと、澱のように溜まった怖れを払拭できるのは、それを上回る怖れのように思えた。絆景の支配者として在る瞬にとって、更なる怖れになりうるのは天水王家の他にもうなかった。
「どうする、瞬」
 一族の仇を討つ。
 そのためにこれまで恥を忍んで生きてきたのだ。向こうから招いてくれるなら好都合だ。龍羅飛が徹底的に滅ぼされたように、天水王家も女子供に関わらず根絶やしにする。それが瞬の背負った十字架だ。
 しかしいざその時を前にして、瞬には昂りの欠片すらなかった。本心はもう、疲れ果てていた。すべてを終わらせてしまいたかった。
 たとえば王家に殺されたとしても、瞬の心ひとつでそれは救いにもなる。救われたい。それは瞬の切なる願いだった。これはそのための最後の好機かもしれない。
 瞬は勅書を置いて、煙草に火をつけた。
「どうもしない。従うだけだ」
「握りつぶすことだってできるんだ。俺がそんなもの知らないと言えば、お前に責めはない!」
 仁支は勅書を拳で叩いて、珍しく声を荒げた。瞬は目を閉じて、ゆっくりと首を振った。
「そんなことをしたって、お前や墓守の民が断罪されて、もう一度勅命がくだるだけだ。無意味だよ」
 明けない夜は優しいかもしれないが、いつまでもどこへも行けないのでは、苦しみが漫然と続くばかりだ。どこかで断ち切らねばならない。
 もし、まっすぐ運命を受けとめたなら、この夜は明けるだろうか。
 じりじりと燃えて灰になっていく煙草を、ほとんど吸わずに灰皿に置く。火がついたままの煙草からは、細く青みがかった煙が立ちのぼった。
「お別れだ、仁支」
「瞬……」
「その煙草が燃え尽きたら、もう俺は死んだと思ってくれ」
「そんなこと――」
「さよなら。元気で」
 瞬は店を出て、濃灰と漆黒の入り混じった空を見上げた。雨雲の向こうに必ず晴天が待っていると、いつになったら信じられるのか。
 昼間のうちに降った雨が、屋根の端からぽつりと落ちた。