THE FATES

8.驟雨(3)

 薄暗い室内へ足を踏み入れる。靴の下で小石がぎりりと軋んだ。
 石造りの狭い部屋には寝台があるだけで、以前あった机や椅子はなくなっていた。
 寝台の上には、なだらかな起伏がある。薄い毛布をたたんだような、たったそれほどの厚みしかない。小さくくり抜かれた窓から、弱々しい光がちらつき、陰影が揺らめく。
 瞬は枯れ枝のような老人を見おろした。浅黒い肌には水分がなく、額や頬に刻まれた皺がいっそう深く映った。閉じた瞼も、鼻孔も唇も、どこも時間がとまってしまったように動かない。
「仁支……」
 呼びかけるというより、確認に近かった。
 本当に、仁支なのか。まだ生きているのか。
 老人の渋皮のような瞼が震えて、胸元が小さく上下した。
「瞬、か」
 すっかりくすんでしまった黒い眼差しが、瞬を捉えようと宙をさまよう。もう、光を映していないのだ。
「ここにいる」
「そうか、どうやら耶守は間に合ったみたいだな。大した足だ」
 仁支は短く息を吐いた。どうやら笑ったようだった。呼吸は浅く不規則だった。大きく息を吸う体力すら残っていないのだろう。
 もう一度、仁支は息をこぼした。
「儂にもとうとうお迎えがきた。お前さんに付き合ってやんちゃをしたわりに、随分と長く生きた」
「俺を呼んだって?」
「最後に頼みがあってな」
 空気が洩れているような摩擦音の混じる声で、仁支は続けた。
「どうか儂に最後の雨を見せてくれんか」
「雨……」
「天水の冴えた空から降る雨を、最後に見たい」
 時間操作をした影響で、天水市街とその周辺には雨が降らない。かつての天水は雨が多く、今は砂地になってしまったところにも池や湖があった。だが天水を蝕んだ歪みが徐々に雨を減らし、瞬が時間をとめたせいで雨に関わるすべてが失われた。
「なぜ」
「好きだからじゃ、雨が」
「雨が好き? 意外だな」
「まあ、雨の日は客足が遠退くせいで、小言は多かったかもしれんが、若い頃から雨は好きだった」
 瞬を追っていた眼差しが穴のような窓へ向けられた。
「天水がどんなに雲に覆われていようとも、光というのはやはり強い。ぶ厚い雲を通り抜けて、これだけの明るさになる。夜の暗さと比べれば疑う余地はない」
 光のない部屋から見ると、薄日の世界も明るさに溢れていた。
「だが、雨はいい。雨音も雨粒も雨空も、優しくて冷たい。不意にやってきては気まぐれに降らせて、いつか必ず去っていく。それが好きだった」
 仁支は目を細めて、静かに泣いた。
「瞬、お前は俺の光だった」
「まさか」
 それはこちらの台詞だと、喉まで出かかるのを瞬はこらえた。
「俺は鬼使だ。墓守の民としての真っ当な生き方を、お前の居場所を奪った男だ」
「深すぎる闇には、強すぎる光がある。そういうものだ」
 たった一筋の涙のために生きてきたとでも言うように、仁支は目を伏せた。
「なあ、瞬。不思議なものだなあ。お前との思い出は雨ばかりだ」
「……そうだな」
「雨はいい。雨は俺に光を運んできて、そして静かに連れ去っていった」
 出会った夜も、別れた夜も、雨だった。最後もきっと、雨が似合う。
 瞬は仁支の閉じられた瞼の上に手を翳した。龍仰鏡がなくとも、幻術ならば使いこなせる。
「雨、か」
 仁支の求める雨を心に描こうとするが、どれも追いつかない気がした。幻術では、仁支の心に届かない。瞬は翳した手を下ろして、小さな窓から空を睨みつけた。その敵意はすべて自分へ跳ね返ってきた。
 もし仁支と出会わなければ、自分はどうなっていただろう。瞬はふと考えてみて、きっとずっと昔に死んでいただろうと思った。死ねないことを恨んだこともある。だが今は自然な心で、生きていて良かったと思える。
 多くのものを傷つけてきた。誰かを壊して、何かを壊して、世界はすでに壊れているのに、もっと壊して。そうしながら瞬は、自分の心を壊し続けた。人でなくなればいい。化け物になってしまえばいい。そうすれば、もう苦しまなくて済むはずと願った。鬼使だ。俺は鬼使だ、鬼の使いなのだと何度も何度も言い聞かせた。
 だが、人でなくなることを望みながら、どこまでも人でありたいとも願っていた。仁支はそれを見抜いていた。最後は人に帰ってこられたのは、仁支のおかげだった。
 いま、生きている。生きてさえいれば、罪を償うことができるかもしれない。それは何よりの希望だ。
 ありがとうでは足りない。仁支の心に寄り添いたかった。
 シャツの襟元を掴んで、瞬は胸のうちで紅に謝った。しばらく鏡を借りる、と。
 口の中で鏡へ呼びかけて、反応を待つ。鏡は紅の中に在りながら、瞬に応えた。その感覚に不足はない。
 天水の時間を動かすことを、瞬は決意した。
 強引に押しとどめている時間が動くことで、何らかの異常はあるだろう。結界の強度が弱まることも考えられた。だがそれらを補う覚悟も出来ていた。
「隔てられた世界、拒絶した時間、放棄した変化。すべての楔を解き放ち、大地に雨を」
 詠唱する声が、遠く聞こえた。自分の声ではないようだった。
「立ち止まった世界の再びの歩みを、神は愛す」
 石壁が震えて、表面がわずかに剥がれ落ちた。瞬の目にもその様子は映っていたが、もはや認識してはいなかった。
「鎖陣、解除」
 瞬が唱え終わると同時に、空に風が吹き荒れ、たらいをひっくり返したように雨が降り出した。最初は叩きつけるようだったが、すぐに激しさも失せ、糸のように細い雨は静かに天水を濡らした。
 ひとつひとつの雨粒が砂や石に砕けて、かすかな音を鳴らした。それがいくつも重なって、途切れないひとかたまりの雨音になった。
 埃っぽい室内に、雨の湿りがゆるゆると広がり、仁支が感嘆を洩らした。
「嗚呼。本当に、降っているのか」
 閉じられていた眼をひらいて、仁支が天上を見つめた。雨が室内に降り込むことはなかったが、仁支は全身で雨を浴びているようだった。
 喜びに打ち震えて、老人の細い喉がはちきれんばかりに叫んだ。
「生きろよ、瞬。お前の命をすべて振り絞って、儂のように老いぼれて死んでくれよ」
 どこにそんな力があったのか、仁支は瞬の手を強く握った。
「決して、兄さんのようにはならないでくれ」
 仁支の面差しに、若かった頃の眼差しがよみがえる。瞬は手を握り返して頷いた。
「わかった」
「ありがとう、ありがとう、瞬」
 涙はなかった。仁支はいつだって笑顔だった。それはとても仁支らしいあたたかな微笑みだった。
「いい、雨だ」
 雨と土の混じったにおいを吸い込んで、仁支は雨が大地に染み込むようにすっと眠った。眠ったきり、もう動かなかった。
 握っていた手を離して、毛布の下へ入れてやる。命が残した温もりは、まだ毛布よりあたたかい。だがこの雨がずっと早く、仁支の温度を奪っていくだろう。確かにある寂しさを、そっと抱きしめる。仁支はこの雨とともに、大地となって天へ逝くのだ。
 部屋の入り口で、砂利を踏む音がした。振り返ると、ずぶ濡れになった耶守が立っていた。耶守はそこから動こうとせず、じっと仁支の顔を見つめていた。
「あのさ、前に水路のこと頼まれてただろ」
 仁支から目を逸らさずに、耶守は話を切り出した。
「聞いたんだけど、絆清会の総統と直接話つけたんだって?」
「ああ」
「それなら言ってくれればいいのに、俺、無駄足じゃん」
「わるい」
「まあ、いいけど」
 濡れて額に張りついた髪を乱雑に払って、耶守はようやく瞬に視線を向けた。
「水路の番に、身内がいる。交易の日はそいつが入ってる。桟楽の詳しい話はそいつから聞いて。何かあった時にも、たぶん味方になってくれるはずだから」
「すまないな、助かる」
「もう……、これが最後だからさ」
 墓守の民が瞬に協力してくれたのは、仁支の存在があったからだ。仁支の兄、奏奴に手をかけた瞬を、同族意識の強い彼らが許すことはない。それがたとえ、奏奴の望んだことであったと知っていても。
 耶守は軽く唇を噛んで、頭を下げた。
「ごめん」
「お前が謝ることじゃない。すべて俺の責任だ」
「でも、じいさんのそんな顔見たら、やっぱり俺たちが間違ってる気もするんだ」
 頭を下げたまま耶守は声を曇らせる。瞬はかける言葉を知らなかった。耶守の小さな拳は震えていた。泣いているのかもしれないと思ったが、瞬の立場では抱きしめることもできない。
 でも、と呟いて勢いよく顔をあげた耶守の目は、逞しさに溢れていた。
「じいさんが幸せそうで、本当によかった。ありがとうな」
 胸の前で両手を合わせて、耶守は一礼した。
 照れ隠しをするように瞬に背を向けて、耶守は空を見上げた。
「雨って、初めてなんだ。ちょっと鬱陶しいけど、俺、結構好きかもしれない」
 押し殺した声で呟くと、耶守は小さく手を振ってその場を立ち去った。
 空一面に広がった雨雲から、絶え間なく雨が注がれる。周囲から一切の音が消え、世界が雨音に占められていく。耳に手を添えて、雨を聴く。くぐもった雨音は、胎内で聴いた母の歌声に似ていた。
 優しいのは雨ではない。冷たいのも雨ではない。
 このてのひらだ。
 瞬は雨粒のひとつひとつを眺めて、微笑んだ。
「ありがとう、仁支」