THE FATES

8.驟雨(4)

 梅詩亭の営業は夕方からだが、交易がある日に限り、昼から店を開けていた。梅煉と詩桜は朝から仕込みや開店準備に追われるので、由稀と羅依は買出しの手伝いや、賄いの用意を担当した。
 朝起きると紅の姿はなく、瞬もまた何も言わずに出かけてしまった。羅依は由稀を責めなかったが、出かけた理由がわからず気落ちしていた。
 何も訊かずに見送ったのは、瞬への気遣いだけではなかった。由稀は嘘や隠し事をこれ以上増やしたくなかったのだ。はじめから知らなければ、隠す必要もない。消極的だと思った。らしくないとも思った。ただ、やましさだけが少し減った。
 大雑把に野菜を刻んで、肉と炒める。味付けは鍋に残っていた甘酢を使った。火を入れると、酸味のある湯気が立った。
 厨房の端では羅依が芋の皮むきをしていた。膝を抱えて椅子に座り、むいた皮は床に落ちたままになっている。芋を見ながら、芋を見ていない。由稀は羅依の持っている芋が小さくなっているのに気付いた。
「おい、羅依」
 呼びかけても、聞こえていない。
「まあ、そんな気はしたけど……」
 由稀は苦笑をもらした。
 料理を仕上げてからでも、次の芋を救うことはできるだろう。由稀はひとまず炒め用の大きな鍋に向き合った。梅煉が作った鍋は一般的なものより少し重い。だが熱効率はよく、あおりやすい。数回鍋を振るだけで、野菜にも肉にも甘酢が行き渡った。
 最後に、刻んだ青菜を散らして皿に盛る。後ろの調理台へ運ぼうとすると、詩桜がいた。
「いい香り! サンの葉ね」
「そっちはもう終わった? じゃあ、冷めないうちに食べよう」
「うん。あれ、羅依は?」
「ああ、あっちで……、しまった、芋を助け出さないと」
「いも?」
「詩桜、これ運んでおいて」
 持っていた大皿を預けて羅依のほうへ行こうとすると、詩桜に引き止められた。
「ま、待って!」
「ん?」
「あの、あのね」
 詩桜は俯いて、何度も言葉を詰まらせた。それでも、重いはずの皿をしっかり片手に持っているのが、詩桜らしかった。由稀は腰をかがめて、顔を寄せた。
「どうした」
「この前の話……、私のお母さんのこと、誰にも話してないよね」
 詩桜の母の話、それは茜の死にも関わることだ。
「まさか。するはずないだろ」
「瞬にも?」
「してない」
「よかった」
 花が咲くように詩桜は笑った。
「俺、口はかたいから」
「ありがとう。次からはちゃんと信用するね」
「頼むよ」
 由稀は詩桜の肩を軽く叩いて、羅依から芋を取り上げるため厨房の奥へ戻った。
 詩桜のために話さなかったわけではない。
 由稀は詩桜との秘密を誰にも話したくなかったのだ。

 食事を終えて片付けを済ませたころ、扉にかけられた鈴が乱暴に鳴った。近くにいた羅依が準備中ですと言って振り返ると、そこには紅がいた。
「紅、今までどこに」
「どけよ」
 紅は羅依の体を押しのけて店へ入った。
「紅」
 由稀の呼びかけにも耳を貸さず、紅はまっすぐ梅煉へ向かっていく。その横顔は張りつめて、死と隣り合わせの兵士のようだった。
 ふくよかで逞しい梅煉の腕を掴み、紅は揺らぎない眼差しで彼女を見つめた。
「なあ梅煉、答えてほしい」
 梅煉は否とも応とも言わなかった。ただじっと、紅の視線を受けとめていた。
「鬼使のことだ」
「おい、紅」
 由稀は紅の真剣な声に事態を察し、制止に入った。だが、梅煉に視線でとめられる。
 梅煉は表情を殺して口をひらいた。
「紅……、私は前にも言ったはずだよ。そう呼ばれていたころの瞬について、詳しいことは知らないって」
「聞いた。覚えてる。でもそれが本当かどうか、それを訊いてる。どうなんだよ、俺に黙ってることがあるだろう、そうなんだろう」
「あんたはそれを聞いてどうするのさ」
 梅煉の問いに、紅は押し黙った。その沈黙は迷いによるものではない。むしろ逆だ。それをわかった上で梅煉は続けた。
「あんたはもう、それを知ってしまったんだろう」
「え……」
 確信を持った梅煉の言葉に、由稀は小さく声を洩らした。紅は親譲りの端整な顔で、冷たく頷いた。
「ああ。そうだ」
 悲しみや怒りや戸惑いといった感情が、ばらばらに紅の心に散らばっていた。どの気持ちにも寄りかからないせいで、眼差しがみるみる冷えていく。彼は自分自身からも距離を置いているのだ。その孤独は瞬とよく似た色をしていた。
「龍羅飛のあいつがどうして茜と出会ったのか、俺にはずっと不思議だった。どうして絆景に住んでいるのか、なのにどうして危険な目に遭わないで済むのか、そもそも鬼使なんて呼び名は普通じゃない。ずっと、色んなことの説明がつかなかった」
 紅は梅煉から手を離し、俯いて自嘲した。
「やっとわかったよ。全部、わかった」
 店には、ひび割れそうな紅の笑い声が響いた。由稀はかける言葉を知らず、視線をやった先の羅依もまた唇を引き結んで佇むばかりだった。
 一体誰が、鬼使の話を紅にしたのだろう。由稀も羅依も、瞬に口止めをされていたわけではない。だが紅が鬼使を知らないと知ったときから、自然と口を噤んできた。なるべくその話題にならないようにもしてきた。
 なのに、一体誰が。
「由稀。お前らだって知ってたんだろ。知りながら、ずっと俺に黙ってたんだろ」
「え」
 振り返ると、紅が見ていた。
「何も知らない俺のこと、指差して笑ってたんだろう」
「わらう……? そんなことしない」
「じゃあ、どうして何も話してくれなかった」
「それは」
「聞かれなかったからなんて、言うなよ」
 言おうとしたことに釘を指されて、由稀は黙るしかなかった。紅の頬が落胆に翳る。
「いいよ。お前は優しいもんな。だから、あいつの立場を思いやって言わなかった。そうだな?」
「立場とか、別に……」
「なんだよ、そうじゃないのか。それとも逆の立場だって言うのか。なあ由稀、わかってるのか。お前がもし俺の立場になって、それでもなおかつ話さなかったんなら、それはお前の傲慢ってやつだ!」
「違う!」
 反射的に否定したものの、由稀の胸には疑問が広がった。
 本当にそうか。
 紅が瞬の息子であることからは逃れられず、ならば必ず鬼使という瞬の罪とも向きあわねばならないときがくる。紅のことを思えば、そのときはできるだけ早く訪れたほうがいい。
 紅に鬼使のことを知らないでいてほしいと思うのは、由稀の我儘に過ぎない。
「俺は、ただ……」
 傷つけたくなかった。それだけの言葉が声にならない。言えば紅を傷つけるとわかっていた。
 紅は由稀が飲み込んだ言葉を見抜いた様子で、長い息を吐き出した。
「難しく考えなくて良かったんだ。お前はお前の立場で考えてくれれば、俺はそれで良かったのに」
「俺の立場?」
「由稀だって、青竜と久暉のことが知りたいんだろう。あんな酷い目に遭っておきながら、それでもまずは知りたいって話したじゃねえか」
「ああ……」
 紅の気持ちを体で理解した。染み入ってくる冷たさは、紅の孤独と自らの罪悪感だ。由稀は額を押さえて俯き、指に触れた前髪を手の中に握りこんだ。
 瞼の裏に、久暉の空色の眼差しが浮かぶ。向かい合った過去の自分は、強引に由稀の心を乱した。
 傷つくのは仕方がない。傷ついた後に立ち直れるかどうか。そのときこそ由稀も紅の力になれる。
 由稀は顔をあげて、紅にまっすぐ対峙した。
「お前が言うとおりだよ、紅。俺も鬼使のことは知ってた。お前がアミティスへ来たあの日、俺が戦った相手は瞬じゃなくて、鬼使だったから」
「そう、か。それであんな大騒ぎしてたわけだ」
「誰もお前を傷つけるつもりなんて、なかったと思う。ただ、あまりにも深刻な内容で、俺には切り出せなかった」
 気持ちをすべて伝えるには足りなかったが、話せば話すほどかえって紅を傷つけてしまう気がした。
「……ごめん」