THE FATES

8.驟雨(5)

「簡単に謝ってくれるよな、お前は」
 紅は眉を歪めて失笑した。
「おい、羅依。お前もか」
「ごめん、知ってた。鬼使と呼ばれてた、その頃の瞬のことも……」
「なんだそれ。もしかして、そのときからあいつのことが好きとか」
「や、そういうわけじゃ……」
「だよな。あんなの、人間じゃねえよ」
 吐き捨てるように言って、紅は自らの手のひらをじっと見つめた。
「ほんと、ぞっとする。あいつと血が繋がってるなんて」
「紅……」
「お前らみたいな生き方してたら、必要な殺人があるって思うんだろうけど、俺はそうは考えたくない。どんなに死ねばいい、殺してやるって思っても、それを実行したらただの屑になるだけだ。俺はしない、そんなことはしたくない。そうじゃなきゃ、こらえてきた俺が馬鹿みたいだろ。ずっと、ずっと、誰よりずっと深くあいつを憎んできたのは、俺なんだ。俺が、俺だけが、あいつを……!」
 そこまで言って、紅は突然咳込んだ。あまりの激しさに、体を折って壁にもたれかかる。
「ちょっと紅。大丈夫かい」
 梅煉が紅の背中をさすった。紅はそこからゆるゆると逃れて、介抱を拒んだ。
「たぶん、鏡だ」
 咳で途切れながら、紅はどうにか声を絞り出した。壁に背中を預けて、肩で息を繰り返す。
「あいつが鏡を使ってる。……くそ、遠隔操作も可能なのかよ」
 掠れた声で笑いながら、紅は胸元を押さえた。声だけでは、笑っているのか泣いているのかわからなかった。
 子どもたちのはしゃぐ声が外の階段に響いて、店の中へ粉雪のように舞い込んでくる。階段をあがったすぐそこの世界が、扉一枚隔てただけでとても遠い世界のように思われた。
 紅に鏡を埋め込んだとき、瞬は由稀に言った。
『俺はただ、同じ道を歩ませたくないだけなんだ』
 そのはずが、紅はすでに瞬の歩んだ道に囚われている。
『俺も、もう一度ひとりになるのが怖かったんだ』
 怖れて、その果てに怖れることからも逃げて、本当にひとりになってしまったのは、一体誰なのか。
 なぜ瞬はすべてを紅に話さないのか。なぜ二人を繋ぐものは、龍仰鏡しかないのか。由稀はもどかしさに拳を握った。
 もういっそ、何の繋がりもなければ紅は苦しまずに済むのだろうか。瞬は怖れずに済むのだろうか。
 いつしか、子どもたちの声は聞こえなくなり、由稀の耳には雨音に似た響きが届いていた。炎が空気を欲しがるようなざらついた音ではなく、悲しいほどさらりとした、花びらが雫を弾くような音だった。
 薄暗い店内で、紅の新緑の瞳が揺れる。
「こうやって、生かされてるんだろ。あいつの命を削りながら」
 答えを求めない呟きは、妙に大人びていた。これまで紅が見せてきた諦めとは、根の深さが違っていた。
「殺人鬼から命をもらって、さらに貪って。それってつまり、俺はあいつが殺した人たちの命を喰らって生きてるようなもんじゃねえか」
 胸元に爪を立て、紅は歯噛みした。指先には、今にも胸を掻き裂いて鏡を抉り出しそうな昂りが渦巻いていた。
 しかし紅はその熱を一瞬で捨てて、力なく笑った。
「俺なんか、生まれてこなくて良かったのに」
 構ってもらうための自己否定でないことは、紅の口ぶりから明らかだった。心の底から出てきた言葉には飾り気がなく、抑揚もなかった。
「紅……」
 呼びかけが虚しく店に響く。由稀は次の言葉が見つからないまま、ひらきかけた口を閉ざした。
 視界を何かが横切った。甘い蜜のような香りが舞う。詩桜だと思ったときには、彼女は紅に向かって腕を振り上げていた。
 詩桜は紅の前に仁王立ちになり、彼の頬を平手で打った。
「誰かから伝え聞いたような話を信じるばかりで、瞬の苦しみを何ひとつ知らないで、なにもかも知ったようなこと言わないでよ!」
 全力で叩かれたせいで、紅の頬はみるみる痛みに染まっていった。紅は打たれて横向いたまま、前髪の隙間から詩桜を睨みつけた。
「あ? なんだよ、あいつのどこに同情の余地があるってんだよ」
「王家で生まれ育ったあんたに、龍羅飛の本当の無念がわかるはずないわ。どうせ史実を鵜呑みにしてるんでしょう、王家に都合がいいばかりの嘘の歴史を」
「もし龍羅飛に非がなくて、王家の企みで龍羅飛が滅びたんだとしても、それがあいつのすべての行いを許す理由になるのか。違うだろう。罪は罪だ」
「瞬は必ず天水に害を為す人を選んでた」
「それが何だよ。人殺しには変わりねえって言ってんだよ」
「でも瞬は……、瞬は誰よりも傷ついてたのよ。自分の犯した罪と、背負った十字架に押し潰されそうになりながら。だから鬼使が生まれたの、あれは瞬の迷いと懺悔の証なの」
「俺にはその理屈は理解できねえよ。所詮、自分本位の勝手な言い訳だ」
「あんたには、きっとずっとわからないわ……」
「なんだと?」
「瞬のことを一切わかろうとしないあんたには、絶対にわからないわよ。瞬の苦しみも、瞬の愛情も」
「愛情だって? あいつが?」
 紅は声を上げて笑った。詩桜は唇を噛みしめて、紅の歪んだ笑い声を聞いていた。
「そうよ。あんたみたいな馬鹿でも、死ねば瞬は悲しむ。私はそんな瞬を見たくない。だから生まれてこなくてもなんて、言わないで」
「なんでお前にそんなこと言われなきゃならない」
「だって、だって私は……」
 詩桜は紅を睨み上げて、懸命に言葉を繋いでいた。繋ぎながら、飲み込んでいた。背中を見れば、彼女が何かを我慢していることは明白だった。
「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ。さっきまでの勢いはどうしたんだよ」
「どうしてそんなに無神経でいられるの。そんなんだから何も知らないままだったのよ」
「お前には関係ないだろ! 俺はお前に生きろと言われる筋合いはないはずだ!」
「だったら……、だったら私のお母さんを返して!」
 こらえきれずに詩桜は叫んだ。
「……は?」
 紅は眉を寄せて大げさに首をかしげた。詩桜は紅の服を掴んで壁に押し付けた。
「あんたが生まれてこなければ、お母さんは死なずに済んだかもしれないのに……、なのに、そのあんたが生まれてこなければなんて言わないで。あんたのせいよ、あんたが私のお母さんを殺したのよ!」
「何の話だよ。どういうことだよ」
 紅の表情から苛立ちが消えた。
「詩桜、よしな」
 梅煉がいつになく冷めた声で諌める。紅は詩桜の両肩を掴んで揺らした。
「まだ何か、俺に隠し事があるのか」
 詩桜は紅から視線を外したまま、小さく息を吸った。
「私の母染芙は、尋宮様を助けるために命を差し上げたのよ」
「命を、差し上げた……?」
「蓮利朱の力を借りてね、命のやり取りをしたの。凍馬さん、知ってるでしょ。あの人のお姉さんにお願いした」
 氷のように、そして鈴のように美しい詩桜の声は、告白を前に張りつめていた。
「術は成功して、尋宮様は命を繋いだ」
「それは茜のことだろ。なんで俺が関係――」
 紅の言葉を遮って、詩桜が首を振る。
「そのとき、尋宮様のお腹にはあんたがいた」
「なんだよ、それ。まさか……」
 唇を震わせ、紅は目を瞠った。詩桜が言おうとしていることには、もう察しがついていた。
「尋宮様だけなら、お母さんも助かったかもしれないのに……」
「やめろよ、そんな話」
「あんたがいたせいよ! あんたが私からお母さんを奪った。自分ばっかり被害者面して。あんただって、瞬と同じよ……っ!」
 張りつめて、張りつめて、張りつめすぎた糸が悲鳴を上げて千切れた。詩桜は乱暴に紅から手を離して、店を飛び出していった。
「詩桜!」
 由稀はとっさに詩桜を追いかけようとしたが、紅に後ろ髪を引かれた。紅はぺたりと座り込んだまま、宙の一点を見つめて微動だにしない。
 羅依の指がかすかに腕に触れた。
「由稀は詩桜を追ってあげて」
「でも」
「何か、知ってたんでしょ、詩桜のお母さんのこと」
「それは……」
「顔見ればわかる。あたしは何も知らないから、紅もきっと無駄に勘繰らないで済む」
 羅依は眉を寄せて微笑むと、触れていた腕から離れた。
「ありがとう、羅依」
 由稀は店を出て、階段を一段飛ばしで駆け上がった。
 空からは、心まで濡れそうな大粒の雨が降っていた。