THE FATES

8.驟雨(6)

 階段を上がると、街は雨に覆われていた。天水へ来て、初めての雨だった。由稀は勢いで踏み出そうとした足をとめ、濃く厚い灰色の雲を見上げた。
 通りには傘を差して歩く人すらなく、普段の賑やかな博路とは別の街になっていた。詩桜の姿を周囲に探すが、道先は雨に煙って白く掻き消されていた。
 激しく道を打つ雨音が階段の入り口でくぐもった。反響して大きくなった音は、由稀の思考を侵食した。
『俺なんか、生まれてこなくて良かったのに』
 なぜすぐに違うと言ってやれなかったのだろう。その後悔ばかりが由稀の中で膨らんでいく。すべての事情を排除して、由稀の我儘で否定してやればそれで良かったはずだ。そうすれば、詩桜につらい告白をさせることも、紅をいっそう傷つけることもなかった。過ぎたことを責め悔いることが無意味とは思わない。だがいつまでもただ立ち止まっているわけにはいかない。そう頭ではわかっていても、踏み出す足は雨を前にしてためらった。
 手のひらを空へ向けて、雨の中へ差し出す。
 詩桜が泣いているかもしれない、そう思った。果南との別れのとき、詩桜は屋敷を出るまで泣かなかった。紅の前でこらえた涙は、きっと今になって詩桜の頬を濡らしている。この雨のように。
 受けとめてやらなければ。
 雨雲が広がる空に、一筋の光を見いだす。いつだって光はそこにあって、けれど見えなくなるのは目を逸らしているからだ。
 手のひらに溜まった雨が、あふれて零れ落ちていく。
 彼女の涙を、受けとめたい。すべて。
 由稀は手のひらの雨を握りしめた。
 詩桜が行く先はひとつしか思い浮かばなかった。迷いはない。由稀は市街の門へ向かって、雨の中に飛び出した。
 冷たい雨が肌を打つ。はやく、はやく走るほど、強く鋭く肌を刺す。この針のような雨の中に詩桜がひとりでいると思うと、息が苦しいのも構わず走れる。濡れて重くなった服も靴も、駆ける足を阻むものにはならない。もう、何ものにも閉ざされない。ただ詩桜を受けとめる器になる。
 ゆるやかな坂を駆けおりて、門へと続く道を走る。誰の姿もない雨の街は、詩桜の元へと由稀を導いているようだった。目に映る街の向こうは、きっと何もない。ただここに一本の道があるだけで世界は完結しているのだった。
 視線の先に門が見えた。以前と違って門は大きく開いている。由稀は今日が交易の日だったことを思い出す。門のそばには荷車や割れた壷が置き去りになって、雨に晒されている。溝に沿って雨が流れ、木片などを押し出していた。
 その中に詩桜の背中があった。
 詩桜は地面に座りこみ、手で顔を覆うことなく声をあげて泣いていた。由稀は止まりかけていた足に鞭を打って、彼女の元に駆けつけた。
「詩桜!」
 滑り込むように駆け寄って、由稀は後ろから詩桜を抱きしめた。
「ごめん、……ごめん、詩桜」
 ずぶ濡れの体はすっかり冷えていた。由稀は少しでも熱を渡したくて、抱きしめる腕に力をこめた。傘のように、小柄な彼女をすっぽりと包みこむ。
「ゆうき……」
 雨に消えそうな呟きでも、すぐそばなら聞き逃すことはない。由稀は詩桜が怖がらないようにそっと言葉を紡いだ。
「ごめん、詩桜」
「どうして由稀が謝るの」
「いいから、謝らせて」
「勝手ね……」
 頬を伝う雨の下には、涙があった。寒さに震える唇がさらに何かを言おうとして、躊躇いに濡れた。詩桜の薄灰色の眼差しに影が落ち、雨雲に染まる。服越しに感じる詩桜の肌は、もはや氷のようだった。
 絶え間なく降る雨に、由稀も体温を奪われつつあった。このままでは、体を壊してしまう。由稀は辺りを見渡し、門の外にある小屋の扉がひらいていることに気がついた。
「あそこで、雨が止むまで待とう」
 詩桜の肩を抱いて立ちあがり、由稀は小屋へ向かった。
 小屋は、交易日に役人が控えるためのものだ。決して広いとは言えないが、食糧や毛布の備蓄と、壁際には暖炉と薪が用意されていた。ところどころ雨が漏っていたが、さいわい薪は乾いていた。由稀は詩桜を座らせて毛布を渡すと、急いで暖炉に薪を放りこみ、紙に火をつけて薪の下に置いた。
 かすかに鉄臭い。あまりの寒さに感覚が狂っているのだろう。由稀は濡れた服をすべて脱ごうとしたが、詩桜の手前、上だけにとどめた。
 詩桜は床に座りこんで、渡された毛布を被りもせずにいた。由稀は手近にあった乾いた布を引っつかみ、詩桜の正面にしゃがみこんだ。
「詩桜、体壊すよ」
 顔を拭って、髪を包んで軽くたたく。ふと、小さな頃に玲妥の風呂あがりを手伝ったことを思い出した。
「詩桜、聞いてる? 詩桜」
「なに」
「体、あたたかくしないと」
「そう、ね……」
 素直に頷くと、詩桜は突然服を脱ぎ始めた。
「ちょ、詩桜!」
 由稀は慌てて背中を向けた。後ろからは、濡れて軋んだ衣擦れの音が聞こえてくる。なるべく何も考えないようにしようと思っても、想像はとまらなかった。
「不謹慎だよ、俺……」
 詩桜に聞こえないように呟いて、由稀は大きなため息を吐いた。
 視線を横へ向けると、薄汚れた窓の向こうに濃い雨雲が見えた。上空は風も強いのか、揺らぐ雲が濁った川面のようだった。激しい雨のはずが、どこか切々としていて傷口に沁みる。
「由稀、いいよ」
 小声で言われて振り返ると、詩桜は毛布にくるまって座っていた。横には濡れた服が積み重なっている。由稀は目顔で、広げて干してもいいか問うた。
「平気。全部脱いだわけじゃないから。お願い、火のそばにかけておいて」
「わかった」
 先にかけてあった自分の服を端に寄せて、いちばんあたたかい場所へ詩桜の服を広げて置いた。赤い布靴は水を吸って黒くなっていた。それも、由稀の革靴に立てかけるようにして暖炉に向けた。