THE FATES

8.驟雨(7)

 詩桜はひとつきりの窓辺に立って、雨の砂漠を見つめていた。毛布から覗いた膝の裏は雪のように白かった。由稀はすぐそばに立ち、目線より下にある窓を覗く。小屋がずいぶん暖まってきたせいで、窓には結露が浮いていた。
「通り雨だろ。すぐ止むといいな」
「どう、かな。瞬次第だよ」
「瞬がどうして」
「だって瞬は天水の神様だもの」
「それ、前にあいつが、絆清会のやつが言ってた……」
 由稀の問いに、詩桜は小さく微笑んだ。
「知らないんだよね、由稀は。天水の時間のこと」
「時間がどうかしたのか」
「天水の時間はね、止まってるんだよ。瞬が止めたの。この世界はずっと同じ時を繰り返して生き長らえている」
 唐突な話についていけず、由稀は相槌すら忘れた。
「王家からの依頼だったって聞いてる。龍羅飛は過去を司る一族だったから、瞬の力と龍仰鏡を合わせれば時間操作は難しくない」
「でも、そんなこと」
「もちろん、時間操作は禁忌の術。だけど瞬を裁ける人なんて、誰もいないから」
 そのことを清路もわかっている。だからこそ、瞬をこの世界の神と呼んだのだろう。
 由稀は再び天水の空を覗きこんだ。本当に天水の時間は止まっていて、同じ時を繰り返しているのだとしたら、この雨は降るはずのない雨だ。街から人の姿が忽然と消えたことにも、得心がいった。人々は突然の、もしくは初めての雨を怖れたのだ。
 詩桜はくもった窓を毛布で拭って、眉を寄せた。
「もし、瞬を真正面から断罪できる人がいるなら、それは、きっと……」
「紅、か」
 詩桜は何も答えようとしなかったが、由稀はそれを肯定と受け取った。
 瞬は紅による断罪を待っているのかもしれない。天水の暗部を背負った瞬には、救いなどは訪れない。それでも彼の人としてのやわらかい部分が赦しを待っているのだ。
 この雨のように、激しく鋭く天水に突き刺さりながら、砂の底のずっと深みへと染み入っていく日を、彼は待っている。
 あらためて、自分は何も知らないことを痛感して、由稀は拳を固めた。
「由稀」
「ん?」
 雨足はいっそう強くなり、窓は雨の波紋で爛れた。
 詩桜は胸の前であわせた毛布を口元まで引き寄せて、声を詰まらせた。
「由稀が今ここにいてくれて、よかった」
「詩桜……」
 由稀は躊躇いながら、まだ濡れたままの詩桜の髪を撫でた。
「詩桜にそう言ってもらえたら、俺も救われる。ありがとう」
「由稀……」
 顔をあげた詩桜の頬には、新しい涙が伝っていた。
「わたし、由稀の前で泣いてばっかり」
「俺はそれでいいよ。それが詩桜の自然なら、我慢しないで」
 髪に触れていた手で、頬の涙を拭う。
「どうか俺の前では、そのままでいてほしい」
「ねえ、由稀はどうしてそんなに優しいの」
「優しくしようと思ってるわけじゃなくて。これが、俺の自然」
「由稀の周りにいる人は幸せだね。ずっと優しくしてもらえる」
「まさか。そんなの無理だ」
 由稀は乾いた笑いをもらした。
「詩桜は、特別だよ」
「え?」
 聞き返す詩桜を、由稀は腕の中に抱き寄せた。もう、じっとしていることはできなかった。
「好きだから。詩桜のことが」
 想いを言葉の中に押しこめて、由稀は告げた。この気持ちはきっと出会ったあの日から抱いていたものだ。それをようやく形にする。胸に広がるのはその達成感と、抱きしめた詩桜の体温だ。
「こんなときに、ごめん。場違いだってわかってる。でも言わせて。好きなんだ、詩桜」
「ま、待って由稀。そんなの、きっと何かの勘違い……」
「勘違いなはずないよ。ほら」
 由稀は体を離して腰をかがめ、詩桜の耳に胸元を近づけた。詩桜は素肌の由稀の胸にそろりと耳を寄せて、上目遣いで見上げた。
「すごい、どきどきしてる」
「ね。だから、本気」
「全然そんなふうに見えないけど。だってすごく落ち着いて見える」
「恥ずかしがるのも、恥ずかしいから」
「相変わらず、わけのわかんないこと言う」
 詩桜は呆れて笑った。たとえ全力の笑顔でなくても、少しでも笑ってくれただけで、由稀の心は満たされていく。
 由稀は冷えた詩桜の頬に、手を添えた。
「だから詩桜、俺には全部見せても大丈夫。俺は詩桜のことなら何でも知りたいから。泣いて、怒って、悩んで、笑って。そうやって生きてる詩桜を見ていたい」
「そんなの知ったら、きっと由稀は私のこと嫌いになるわ。私、由稀が思ってるような人じゃない」
「ならないよ」
「どうして」
「詩桜のことが好きだから」
 由稀が微笑むと、詩桜は魚のように口をぱくぱく開けて、顔を真っ赤にした。
「ば、ばか!」
「ねえ詩桜、もしかして俺のこと嫌い?」
「そんなこと言ってない。……でも、時々嫌いよ」
「じゃあ、時々以外は?」
「な……っ」
 詩桜は耳まで真っ赤になって逡巡すると、視線の高さを合わせるよう由稀を手招きした。由稀は素直に従って床に膝をつき、わずかに詩桜を見あげる。目顔で何事かたずねると、突然詩桜の唇が額を掠めた。出会い頭にぶつかるような口づけだった。
 すぐに体を離した詩桜は、由稀を睨みつけた。
「由稀にばっかり、いい格好させないから!」
 詩桜は怒っているようで、泣いているようで、そのどちらでもあり、どちらでもないようだった。
 由稀はしばらく呆然と詩桜を見つめていたが、胸の奥から沸き起こる喜びに背中を押され、強引に詩桜の腕を引いた。詩桜は足元を崩して、床に座りこんだ。
 雨の中でしたように、全身で詩桜を抱きしめる。
 ずっと触れたかった髪に頬を寄せて、小さな体を腕の中に閉じこめて、雨の香りがする彼女の肌を嗅ぐ。
 いとしさが、みるみる膨らんでいく。やがて抱えきれなくなって、体から溢れだしていく。
 もっと詩桜を知りたい。もっと詩桜に近づきたい。もっと詩桜に寄り添って、もっと詩桜が欲しい。
 感情が愛情になって、膨れあがって欲望になる。
 抱きしめて、抱きしめて、どんなに強く腕に抱いても、詩桜まではまだ距離がある。この腕と、ごわついた毛布と、彼女の体が二人の心を遠ざけている。どうすればもっと近づけるのだろう。
 由稀は詩桜がかぶっている毛布の下に腕をいれて、じかに彼女を抱きしめた。詩桜はわずかに体を震わせたが、嫌がる素振りは見せなかった。
 腕に、手のひらに、胸に、詩桜の肌が吸いついた。乾ききっていない雨が二人の肌をいっそう近づけた。詩桜の体はまだ冷たく、服越しに抱くよりずっとやわらかかった。
 互いの鼓動がすぐ近くで響きあう。重なりそうで重ならない共鳴がもどかしい。由稀は詩桜の首筋に鼻先をうずめた。雨と汗と涙と彼女が混じりあって、ひどく悩ましい刺激になる。
 由稀は二人の間になるべく隙間を作らないように、頬と頬をすべらせて額をあわせ、真正面から詩桜を見つめた。たとえ薄暗い場所でも間近で見ると、詩桜の薄灰色の瞳には若葉色の欠片が散らばっていた。萌えるような若葉の瑞々しい色彩に魅せられていく。
「詩桜」
 薄く目をひらいて、詩桜の若葉色を見つめながら顔を寄せる。自分の影で消えていく新芽を惜しみながら、由稀は唇を重ねた。