THE FATES

8.驟雨(8)

 押しつけるたび、詩桜の唇はやわらかく由稀を受けいれた。すぐにも溶けてしまいそうな感覚の中で、頭の奥だけがはっきりと目覚めて痺れている。昂りが脈打っている。
 しっかり泡立てた生菓子の、粒が弾けていく音を聞く。甘くて、なめらかで、濡れて、離れない。匙についた分も、すっかり舐めつくしたい。由稀はさらに奥を求めて口をひらいた。
 息継ぎをして、自分の吐息がとても熱くなっていたことに気づく。思えば、雨に濡れて冷たいはずなのに、少しも寒さを感じない。むしろ、熱い。詩桜と触れた肌も唇も、そうでない爪先までもが、ひどく熱を帯びていた。これが、好き、ということか。由稀はこの熱を詩桜に知ってもらうため、手のひらを大きく広げて、抱きしめる彼女の背中にそっと当てた。
「好きだよ、詩桜」
 言葉を紡ぐたび、重なりきっていない唇がぶつかって弾む。詩桜の吐息もまた、由稀のように熱かった。
 詩桜の手が伸びて、由稀の背中に冷たい指先が触れた。雨のような冷たさと優しさと、降りしきる孤独に満ちていた。
 詩桜を想って満たされていく心で、詩桜の寂しさを埋められたならどんなにいいだろう。結びあった唇から想いの流星が届けられたなら、二人はずっと星を抱いた夜空になれるのに。
 どちらからともなく、唇が唇を求め、引きあう。再び隙間なく重ねられた唇は、もう二度と離れることがないように思えた。
 かろうじて肩にかかっていた毛布が、ざらついた音を立てて床に落ちた。由稀は唇を密にしたまま詩桜の体を抱えあげ、毛布の上に横たえた。
「詩桜」
 両ひじを詩桜の横について、真上から彼女を見おろす。由稀の前髪から落ちた雨のしずくが、詩桜の頬を涙のように伝った。皮をむいた果実のように無防備な唇が、由稀の名をなぞる。音のない呼びかけに、初めて彼女に名を呼ばれたような錯覚へと陥る。
「俺のこと、時々嫌いなんだよね」
 詩桜は由稀の問いかけに小さく頷いた。
「今はその、時々?」
「えっ」
 淡く染まっていた頬をさらに赤くして、詩桜は返答につまった。やがて目を強くつむり、今度は小さく首を振った。
「良かった」
 由稀は心の底から安堵して、笑った。詩桜もつられて笑おうとしたが、口から出てきたのはくしゃみだった。小石を池に投げ入れるような小さなくしゃみを、肩を揺らして何度も繰り返す。
「ちょ、詩桜。大丈夫」
「だ、だいじょう……っ」
 最後に大きめのくしゃみをすると、詩桜は体を丸くして笑った。由稀も、声に出して笑った。
「暖炉の前にいよう」
 由稀は詩桜の腕を引いて体を起こしてやり、使わずに置いてあった毛布を彼女の肩にかけた。
「これ、由稀のでしょ」
「いいよ。俺はそっち使うから」
 指差す先には、皺だらけになった毛布がある。
「でも……」
「寒いほうの人があったかくしないと。ほら」
 毛布の前を合わせてやり、暖炉の正面まで背中を押す。詩桜は渋々従って、広げられた服の横へ腰をおろした。
 上着はまだ濡れていたが、薄手の服はもうほとんどが乾いていた。靴も、詩桜の布靴は元の色味に戻っている。それを詩桜が着るあいだ、今さらと思いながらも由稀は背中を向けた。
「私……ついさっきまで、最高に沈んでたのに」
「うん、知ってる」
「それでよく、あんなこと言いだせるね」
「だから謝ったよ。場違いでごめ――」
 服をかぶろうとしていたところに、後ろから詩桜が抱きついてきた。由稀はそのままの体勢で肩越しに振り返った。
「詩桜?」
「嬉しかったから。謝らないで」
 背中に詩桜のやわらかな温もりが触れる。前に回された彼女の手に手を重ねて、指を絡めた。握り返してくるいじらしさに、詩桜の想いを確かめる。由稀の胸には、詩桜に見せたい心と、詩桜に見せたくない心が同居した。
 間断なく続く雨音と、思い出したように爆ぜる薪を聴く。ひとりきりなら寂しいだけの音楽も、ふたりきりなら心地いい。由稀は詩桜と並んで座って、肩を寄せた。
 詩桜は薪の上で踊る炎を見つめて、おもむろに口をひらいた。
「紅は、どうすると思う?」
「どうかな。俺にはわからない」
「そう……」
「でも俺は紅を信じてる。大丈夫、あいつなら乗り越える」
 茜の病を治したい、その手がかりがほしいと言って地下書庫へ行ったときも、茜が目の前で倒れたときも、天水へ帰ってきて瞬と衝突したときも、紅は紅のやり方で向きあっていた。ずっと、現実との距離を探していたのだ。
「ああ見えて、紅は逃げないよ。いつだって、闘ってた」
 むしろ逃げていたのは紅の周りだ。自分も含めて、割れ物を扱うように接してきた。本当に彼のことを思い、信じるのならば、もっと早くに話すべきだった。
 詩桜は膝を抱き寄せて、由稀を見あげた。
「由稀がそう言うなら、私も信じる。次に会ったら、ちゃんと謝る」
「俺も、紅に謝らないと」
 繋いだ手を、さらに深く繋ぐ。じんわりと滲む汗が、二人の繋ぎ目を埋めていく。
「やむかな、雨」
「すぐにあがるよ」
 由稀は詩桜と顔をつきあわせて、目を細めた。
 たとえ夜が明けず、雨がやまず、世界が暗闇に包まれたとしても、詩桜がそばにいてくれたなら、由稀の足元から灯りが消えることはない。
 そして、詩桜の足元も照らしていけたならどんなに幸せだろう。
 由稀は手を繋ぎなおして、詩桜の肩を抱き寄せた。
「きっと」