THE FATES

8.驟雨(10)

 凍馬は手首を軽く振って、空色の綾紐をひとつ手放した。綿のようにゆったりと指先から離れたものの、次の瞬間には光の速さで女の脚に突き刺さった。跳芭は砂に膝をついた。
「ぐっ……」
「次は斬り落とすからね」
「いくら拷問されようと、問いには答えぬ」
「そうです! これしきの苦痛に屈するような我々ではありません!」
「強情だなあ」
 苦笑いを浮かべた凍馬は、砂の上に這いつくばる桂雷へ向けて、綾紐を弾いた。回転して円盤のようになった綾紐は、桂雷の頬を裂いてどこかへ飛び去った。桂雷は悲鳴をあげた。しかし傷口を手で押さえようにも、彼女の腕は凍馬の術で縛りつけられたままだ。桂雷は涙のたまった目で凍馬を睨みつけた。凍馬は軽い微笑みでそれをかわす。
「泣かないの?」
「泣きません」
「そう。顔にだけは傷つけてほしくなかった? 悪いけど、俺はそういうの気にしないんだ。たとえ顔に傷があっても、それが消しようのないものでも、本当に美しい人ならむしろいっそう美しいと思うから」
「こんな屈辱……、どうせなら殺しなさいよ」
「そんなことしたら、話が聞けない」
 凍馬は微笑みをすべて消し去り、残っていた空色の綾紐をすべて桂雷の脚に打ちつけた。今度は悲鳴をあげなかった。桂雷は気を失ってしまったようだ。凍馬は跳芭のそばまで歩み寄った。
「君たちが殊来鬼であることはわかってる。目的はなんだ。天水王家と何かあったか。そういえば、昔と違ってずいぶん遠ざけられてるみたいだね」
「王家がどうしようと、殊来鬼には何の損失もない」
「それは桟楽の結界を殊来鬼が押さえているからか」
「ふん。王家が殊来鬼と完全に手を切ることはない。できないのだ。奴らは奴らだけで自立するすべを持っていないからな。たとえどんなに遠ざけようと、どうせ奴らのほうから泣いて縋ってくるのだ」
「へえ。だったら他に何の用があるの」
 膝をついた跳芭にあわせて、凍馬も腰をおろす。すぐそばまで顔を寄せて、凍馬は小声で言った。
「鬼使か」
「ぬ……っ」
 跳芭は凍馬の首めがけて、残った片腕を振り払った。刃先に凍馬を捉えた感触が伝わる。だが凍馬の体は陽炎のように揺らめいて、跳芭の刀は空を切った。
「なんだ、何者だ……」
 呟きはわずかに震えていた。跳芭は刀を握る手に力をこめた。
 凍馬は数歩下がって、ふたたび姿を現した。
「生きざる者だよ」
「しかし貴様の術はすべて我々を傷つける」
「ああ、特殊な在り方をしているからね」
「貴様ら蓮利朱は、なんと恐ろしい一族だ。なんという冒涜的な存在なのだ……」
「驚いた。君はずいぶんまともな思考の持ち主なんだ。殊来鬼って、もっといかれた女ばかりかと思ってた」
「誰のことかわからんな」
「それは、君たちの背後にいる人のことだよ」
 凍馬が指差すずっと先には、殊来鬼の領地がある。
「殊来鬼だけじゃない。いまこの天水で鬼使を狙う人物に、俺は一人しか心当たりがない」
 その指を立てて、口元に笑みを浮かべる。
「その名を、言おうか」
「すまぬ、桂雷!」
 跳芭は突然そう前置きして歯を食いしばり、桂雷の首を刎ねた。桂雷は声をあげる間もなく、命を絶たれた。
「我が一族は我らの無念を晴らすため、かならず貴様の命を奪いにゆくぞ。覚悟していろ」
 声高に宣言すると、跳芭は腕に沿わせるように握っていた刀を逆さに持ち、自らの首を斬り落とした。
 出口を得て溢れだした血は肉体の影のように寄り添うだけで、大きく広がることなく砂へと吸いこまれていった。
「命なんて、とっくに……」
 首のない二人の死体を見おろして、凍馬はそっと呟いた。怒りでもない、悲しみでもない、何か乾いたものが風に吹かれて体の中でからころと鳴った。
 顔をあげると、たくさんの死が転がっていた。凍馬はそこに同類の情愛と、優越を覚えた。こうやって在ることがいくら冒涜的であろうとも、存在し続けるものにしか、世界は存在しえない。世界を失いかけた凍馬にはそれが手に取るようにわかる。死の先に、たとえばこことは違う世界があるとしても、それは決してこの世界ではない。
 ここから隔絶されること、それは生きてきた世界との決別であり、自己との別れだ。取り巻く環境、ともに暮らしてきた家族、愛した人。それらが揃ってはじめて自我は保たれるのであって、この世界から抜け出した自我など、それは自分を構築するものではない。
 理不尽に、そして無為に絶たれていく命は、見ているだけで虚しさが募る。
 凍馬は腹に手を添えた。脈打つことのない手のひらに、確かな拍動とぬくもりが伝わってくる。この腹の下には、凍馬の存在を支える核になるものが埋めこまれていた。琉霞がその身を犠牲にして作り、埋め、維持しているものだ。この命の手触りは、琉霞に繋がっている。
 余力があることを確かめて、凍馬は腕を大きく広げた。
「浄化」
 結界を徐々に狭めながら、ひとつひとつ、死を吸いあげていく。頬を撫で慈しむように、また存在する者の傲慢さをもって、死の痕跡を消していく。肉体だけではない、精神も魂も、根こそぎ消滅していく。弔いには程遠い、これではただの掃除だと、凍馬は心のうちで自嘲した。
 すべての死体を消し去って、結界を解く。ひく馬のない荷車や、そこからこぼれ落ちた木の工芸品や、色とりどりの果物が、他に何もない砂漠にぽつりぽつりと置かれていた。それらは確かに隊商の率いていた荷物であり、あの商人の世界を構築するものだった。だが肝心の商人がいなくなってしまえば、彼らしさを表現していた商品も個性を失う。ここにあるものは、すべてただの物でしかない。世界は離散し、風になる。それを物悲しいと言えるのは、生きているからだ。
 自分の欠片がこの世界に残らないことは、それはもしかするとひとつの幸せの形かもしれない。あとくされのない、さっぱりとした死は、きっと悪いものではない。
 ならば、肉体を失っただけの凍馬は幸福から程遠いことになる。
 頭にぽつりと雫が落ちた。空を見あげると、雲が重く垂れこめていた。雨だ。砂の上にひとつふたつと染みが増える。すぐに雨粒は大きくなり、凍馬の頬を涙のように伝い落ちると、一斉に降りだした。
 降るはずのない雨に打たれていると、在るはずのない命も許される気がした。許されるために在るのではない、そう思っていても、心はそこまで強くない。
 時おり、思うのだった。もし、幼かったあのときに瞬を助けていなければ、と。
 そうすれば凍馬は死に急ぐことなく、琉霞が術返しで傷つくこともなく、姉弟は人々の病を癒しながら静かに暮らしていくことができたのだろう。もちろん、瞬への想いも生まれることはなかった。
 だが瞬と出会ってしまった凍馬にとって、それはなんとも味気ない人生だった。彼への愛しさも憎しみも、他に代えのきかない凍馬だけの愛だ。瞬はきっと、この愛を知らない。知られたいと思いながら、知られたくないとも思う。ただずっと、心の隅に引っかかるような存在であればいいと思う。
 凍馬はずぶ濡れになって、小さく苦笑した。
 自分はどこまでも、あとくされなく生きることはできない。雨のように地上へ糸を垂らしながら、生と死のあいだを漂いながら、愛と憎しみの狭間で揺れながら存在し続け、そうやって死ぬのだろう。
 実体のない体は、肉体を持っていたときの記憶に拠っている。いま濡れているのもその記憶があるからだ。
 凍馬は、かつて雨に降られておいてよかったと、心から思った。