THE FATES

8.驟雨(11)

 療養所の窓から見える空には、薄雲が広がりはじめていた。東の山には、糸くずのような稲妻が走る。雨がくるかもしれないと不破は思った。
「なあ、弓菜。雨……」
 振り返ると、弓菜は里村の寝台に突っ伏して眠っていた。病室に染みついた消毒液のせいで、ふと思い起こした雨のにおいがかき消される。
 絵師里村の病室へ辿り着いてから、十日が経った。はじめの数日こそ手続きなどの雑用があったが、それ以降は特にすることもない。弓菜は眠り続ける里村に寄り添い、痩せこけた寝顔をただ見つめているだけだった。不破はそんな弓菜をずっと見守り続けた。
 医師は、里村が目を覚まさないのは何か精神的な刺激や傷のせいだろうと説明した。さいわい、身体的な怪我の経過は良好で、投薬を欠かさなければ命に別状はないという。
 窓にぼんやり映る里村の横顔を、不破は見るともなく見ていた。毛布から出た片腕には肘から下がない。利き手ではないからと弓菜は涙を見せなかったが、それでも困惑は隠せなかった。懸命に微笑みながら、この空のように薄雲をまとっていた。それが妙に悩ましい影となって不破の欲情を刺激したが、不破もまた弓菜にあわせて微笑んだ。
 ここで踏み違えてはいけない。彼女を抱くのは、彼女が身動きをとれなくなってからでもいい。いまは、待つ時間だ。
 なぜ里村がこんなにも痛ましい姿になり、なおも目覚めようとしないのか。弓菜の前から姿を消した里村が一体何をしていたのか。どんな事情に巻き込まれたのか。それらを明らかにすることができたなら、里村を目覚めさせる方法も見つかるかもしれない。それには弓菜が投影をするほか手段はない。彼女自身、そのことはよく理解しているし、どうにか里村の力になりたいとも思っている。だが弓菜は許可なく里村の内側を覗き見ることに抵抗を覚えていた。優秀な投影師であれば、当然のためらいだ。
 不破はそんな弓菜を急かすことはしなかった。計画に時間の余裕があるわけではない。できればすぐにも次の段階へ進みたい。だが自然な流れで弓菜に投影をさせたかった。そこを間違えると、あとで八方ふさがりになるのは不破だ。それはあくまで弓菜でなければならない。
 彼女の良心と罪悪感をどこまで引き出せるか。そこで生まれた隙に、いかに踏み込むか。必ずくるその一瞬のために、不破はじっと待っていた。薄雲が重く垂れ込めて、雨が降りだすその瞬間を待つように、ただじっと息を潜めていた。
 二階の窓からは、晴れていれば遠くリノラ神殿が見える。あいにく今日はかすんで見えないが、不破はそちらへ体を向けて耳を澄ました。やがて潮騒に隠れるようにして、話し声が聞こえた。相手は女だった。口ぶりから察するに、まだ若い小間使いのようだった。とても皇帝の前に上がれる身分ではない。睦言はただ優しいばかりで、不破には子どものままごとに思えた。
「首を絞めても、よいか」
 不破の囁きが、遠く離れた皇帝をひどく震えあがらせる。皇帝は必死に抵抗を示したが、やがて女へ向かって静かに言った。首を絞めてもよいか、と。女の戸惑いが喘ぎ声に溶けだす。不破は笑いをこらえながら、さらに言葉を重ねた。
「白くて細い、きれいな首だ。これを私にくれないか。苦しさよりも悦びで満たしてあげよう。下賎の娘、私と視線を合わせただけで幸せなのだ。ならば私を受け入れて死ぬのは、最高の栄誉と考えろ」
 少し遅れて、皇帝の口から一言一句違わない言葉が紡がれる。つい先ほどまで優しかった皇帝の豹変ぶりに、女は声もあげられないほどの恐怖を感じているようだった。帯都帝の手が女の首に触れて、手のひらに鼓動が響いた。女は悲鳴にもならない、押し潰された息を吐き出した。
 やがて、皇帝のすすり泣く声が聞こえた。どうして、どうして、と不破に問いかけ続ける。
「お前がそこにいるからだ」
 それは子どもの頃から何度も交わしてきたやりとりだ。不破は舌打ちをして、潮騒の部屋から意識を切り離した。
 療養所正面の街路によく知った人影を見つけて、不破は窓辺から離れた。弓菜が起きる気配はまだなく、里村にも変わりはない。不破は弓菜の肩に上着をかけて部屋を出た。
 外へ出ると、雨が降る前の蒸れたにおいがした。見あげた空はすっかり厚い雲に覆われている。不破は階段をおりて道を横切り、病室から見えた人影に駆け寄った。
「千景」
 足首まである黒い服に身を包んだ千景は、不破の呼びかけに頭を下げた。久しぶりに見る千景の面差しは、少し疲れているようだった。だがもとより生気の薄い女である。不破は彼女の快活な笑顔など知らない。気遣いの言葉はかけずにおいた。
「役人に探させていたんだ。何の断りもなく、一体どこへ行っていた」
「こちらを取りに」
 千景は抱えていた荷物から、布包みをひとつ取り出した。女の手にも収まるほどの大きさで、千景は大事そうに不破へと差し出した。
「なんだ、これは」
 首をかしげながら受け取り、布越しに中身を確かめる。その感触に不破は息をのんだ。
「もしかして……」
「はい。玉雪にございます」
 不破は千景の答えを待たずに包みを解いた。出てきたのは、乳白色をしたひとつの珠だった。不破は歓喜のあまり、千景を抱きしめた。
「よく持ってきてくれた!」
 背中を叩いてねぎらうと、すぐにも離れて、不破はあらためて手の中の珠を見つめた。卵より少し小さい球体だ。材質は鉱石で、じかに触ると石の冷たさが肌に張りつくようだった。球の中心ほど色が濃く、白く濁っている。手の上で転がすと、濁りが揺らめいた。まるで風にあおられた粉雪のようだ。
「そうか、これが……これが玉雪、帝国の至宝。そして、皇帝の証」
 強く握りしめ、いっそこの体に埋めることができたらと夢想する。
「千景、よく説得してくれた。お前の父の頑固さには、俺ですら辟易していた」
「はい……」
 千景は俯きがちに小さく返事をした。何か言いたげに口をひらいたが、不破はわずらわしく思って無視をした。
「計画を次の段階へ移行する。いいか、千景。お前は宮殿で帯都付きの侍女として働け」
「わかりました」
「許可証は利淵という男に持たせる。十日後の夜に神殿で受け取るといい」
「清里様は」
「俺はもう少し外でやるべきことがある」
 浮かない表情の千景を見て、不破は彼女の肩に手を置いた。
「案ずるな、すべて計画通りだ。うまくいく」
「わたくしは、清里様のお体が心配です」
「働きすぎだとでも言うのか」
「はい」
「まさか」
 不破は鼻で笑い飛ばした。
 玉雪にしずくが落ちた。つるりとした表面を引っかかることなく流れていく。ひとつふたつと布にも染みができた。道を行く人が、雨だと呟いた。その声を待っていたように、雨が降りだした。
 雨は糸のように細く、やわらかかった。じんわりと髪が濡れ、首筋を伝い、服が少しずつ重みを増していく。みずからの足で、みずからの意志で、みずからの道に立つからこそ味わえる重みだった。
「無敵の気分だ」
 すっかり濡れた玉雪の表面を親指で撫で、不破は笑みを浮かべた。
 雨音に混じって、背後から駆け寄ってくる足音があった。
「不破、不破!」
 弓菜の声だ。不破は持っていた玉雪を服に押しこんで振り返った。
「なんや、目ぇ覚めたんか」
「傘もささないで何してるのよ」
 駆け寄ってきた弓菜はさしていた傘に不破をいれ、千景に視線を移した。
「えっと……、知りあい?」
「いや、道を訊かれててん。わかるかな、この道を真っ直ぐ行って、三つ目の角で右やから」
「はい、ありがとうございました」
「気ぃつけてな」
「ちょっと待って、傘……」
 弓菜は千景に傘を握らせようとしたが、千景は一歩後ろに下がって頭を下げた。
「お気遣いなく。すぐそこですので」
「でも……」
「弓菜、そんなんしとったら余計に濡れてまうやろ。行くで」
「う、うん……」
 不破に背中を押されて、弓菜は後ろ髪をひかれた様子で療養所へと歩きだした。何度か肩越しに振り返っていたが、階段でつまずきかけてようやくまっすぐ前を向いた。
 不破は傘をさして弓菜の背中を優しく押しながら、決して後ろは振り返らなかった。振り返らずともわかっていた。千景がずっと不破の背中を目で追っていると。彼女に見られ続けていると。それは自信ではない。予想でもない。確信だった。わかりきったことを確認するのは、ばかばかしく思えたのだ。
 療養所の屋根の下に入り、傘をたたむ。弓菜は髪についた雨を払ってから、不破にも手巾を差し出した。
「ねえ、不破」
「ありがとう、貸してくれるんか」
 淡い桃色の手巾は、近づけると甘い香りがした。弓菜自身のかおりだ。
「あのね、やってみようと思うの」
「やってみるって?」
 軽く顔を拭いて、弓菜を見遣る。彼女は雨に乱れた前髪を押さえて、静かに目を閉ざした。
「里村の、投影」
「弓菜……」
「できれば里村の許可がほしい。でもそれができるなら、彼から直接聞けばいいことでしょ。許可にこだわるのは私の弱さだわ」
「別にお前がそこまで思いつめんでも」
「ううん。だって、どうして里村がこんなことになったのか知りたい。何があったのか、知りたいの」
 弓菜の瞳には、涙が浮いていた。こぼすまいと、瞬きを必死でこらえている。不破は弓菜を抱き寄せた。
「大丈夫や。大丈夫やで」
「ねえ私、興味本位じゃないの、本当に彼を助けてあげたいの。だって私には、投影しか……」
「もうええ。わかってるから」
「不破……」
 腕の中で弓菜が顔をあげた。
 雨が音を消していく。世界には雨音しかないような気になる。何もないのが静寂ではない。濁りのない音こそが静寂だ。
「安心し。俺はお前の味方やから」
 不破は、ゆるやかに波打つ彼女の髪を優しく握った。

8章:驟雨・終