THE FATES

9.灯火(1)

 潮流がぶつかりあって、船が大きく揺らいだ。
 亜須久は船の上から海を眺めて、顔をくもらせた。海で弾ける光の強さにはすぐ慣れたものの、船の揺れにはなかなか慣れなかった。中型の漁船に乗せてもらって五日が経ったが、気分はずっと優れない。梗河(こうが)屋育ちで船には乗り慣れているつもりだったが、川と海とでは大きく違った。今の亜須久にできることは、せめて漁の邪魔にならないようにすることだった。
 竜樹(りゅうじゅ)へ行こうと決めたものの、移動法が使えない亜須久にはその手段がなかった。国が滅んでしまった竜樹へ船が出ているはずもなく、泳いで渡れるほど近くもない。
 港で途方に暮れていたとき、声をかけてくれたのが漁船の船長だった。事情を話すと、竜樹の近くの漁場まで行くというので好意に甘えた。渡りに船とはまさにこのことだった。
 はじめは漁を手伝おうとしたが、気のいい船員たちは寝ていろと言うばかりで、亜須久に出番はなかった。恥ずかしくて、情けなかった。
 船の上では照りつける光を遮るものがない。顔や腕はすっかり焼けて、浅黒くなった。それでも漁師たちの黒さには程遠く、もしや黒くなればなるほど船酔いにも強くなるのだろうかと、くだらないことばかりが頭の中をよぎる。
「おい、兄ちゃん」
 揺り起こされてはじめて、寝ていたことに気づく。亜須久はうっすら目を開けて、船長の引き締まった顔を見上げた。五十絡みの船長は、白い歯を見せて笑った。
「見えてきたぜ」
「え」
「竜樹だよ」
 起きあがると、水平線の向こうにぼんやりと影が見えた。
「あれが……」
 空の青よりくすんでいて、海の青より淡い、青灰色をした陸地の影だ。まだすべてが現れたわけではない。海から少し浮きあがるようにして見えているだけだ。それでも亜須久は、はじめて目にする竜樹に感嘆をもらした。
「すごい、本当に来たんだ」
「感動するのはまだ早いんじゃねえか。まあ、明日にはつくだろうよ」
「はい、ありがとうございます」
「お、ちょっと顔色がよくなったな。よし、じゃあ飯にしようか」
 船長は大きな声で船員に飯を告げた。亜須久も船のへりを掴んで立ち上がり、甲板の中央へ向かった。

 夜が明けて海を見ると、竜樹が昨日よりずっと迫っていた。ただの影にしか見えなかった部分に、さらに細かく陰影が見てとれる。体調は相変わらず散々だったが、気持ちの昂りが船酔いを吹き飛ばしたようだ。亜須久は鉱石燃料を運んだり、網を整えたりと、見ているばかりだった作業にようやく参加した。やっと胸のつかえが取れた。
 ところが、雲行きは次第に怪しくなった。朝は晴れていたものの、昼にはすっかり荒れ模様になった。波は数倍の大きさになり、うねり、吠え、船は海の手のひらの上で転がされているようだった。
「すまねえが、これ以上は近づけねえ。このままじゃ、船が砕けちまう」
 船長は雨よけの外套を着て、船首に立ったままの亜須久に歩み寄った。海鳴りがひどいせいで、ほとんど叫びながらになる。
 亜須久はすぐそこまで迫った竜樹を見つめた。冷静に考えれば船長の言うとおりだ。だが亜須久はここで引き返せば、もう二度と竜樹に近づけない気がしたのだ。
「聞いてるか、兄ちゃん」
「泳ぎます」
「はあ?」
「泳いで渡ります。この距離なら泳ぎきれる」
「ばかを言うな。こんな嵐の中を泳ぐなんて、自殺行為だ」
「他のみんなにもよろしく伝えてくれ」
 亜須久は懐から包みを取り出し、船長の手に握らせた。
「乗せてくれて、ありがとう。本当に助かった」
「ま、待たねえか!」
 船長の制止を振り切って、亜須久は裸足になって海に飛び込んだ。
 海水は想像していたより冷たく、雨で冷えていた体はいっそう凍えた。視界はほとんど利かず、亜須久は真っ暗な海を懸命に泳いだ。荒れた海の波は力強く、思うように前へ進まない。海面へ顔を出して方角を確認しようにも、波にすぐのまれてしまう。
 水をかく腕が重い。体が重いのかそれとも海が重いのか、亜須久にはわからなかった。海水がじわじわと肌に染みこんできて、少しずつ海の一部になっている気がした。息はとっくに上がっているのに、息継ぎも休むこともままならず、ただただ水を飲むばかりだ。
 死ぬかもしれないと、ふとよぎった。進む道を自分で決めた矢先に未来が絶たれるのは、なんと皮肉な話かと心の内で失笑した。
 ようやく自分で選んだ道だ。そう簡単には失えない。
 波に翻弄されながら海面に顔を出す。少しばかり先に、亜須久のように漂っている木片を見つけた。あれに掴まっていれば、溺れることはないかもしれない。亜須久は朦朧としながらも懸命に力を振り絞って、渦巻く波を押しのけ、頼りない木片に腕をかけた。
 意識はそこで途切れた。

 苦もなく息ができることに気づいて、亜須久は目を覚ました。慌てて起きあがる。見慣れない部屋の、簡素な寝台の上に亜須久はいた。あの世にしては体のあちこちが痛い。焼けた肌には何ヶ所も治療のあとがあった。
 かすかに楽器の音色が聞こえてきた。この音はおそらく珪月(けいげつ)だ。亜須久はそばにたたんであった服に袖をとおし、部屋を出た。
 建物は木と石を組み合わせて造られたもので、どこか急ごしらえの様相だった。窓には布がかけられているだけで、硝子は嵌まっていない。廊下には石材や麻布が積み上げられていた。
 珪月は廊下で繋がった先の、扉のない部屋から聞こえていた。少しずつ旋律がはっきりしてくるなかで、それが橙亜(とうあ)祥楼路(しょうろうじ)で流行っていた曲であることに気がついた。さらに、なかなかの弾き手だ。これほどの奏者は、街にも片手の指ほどしかいないはずだ。
 部屋の入り口から、中を窺う。亜須久が寝ていた部屋よりは大きかったが、さほど広くもない部屋だ。大きな切り株のような食卓が真ん中に置かれ、それを取り囲むように椅子が並んでいた。
 窓にかけられた布はすべて丸めてまとめられ、部屋は明るく、吹き込むそよ風の緑の香りに満たされていた。
 そこには女が一人いた。入り口に背を向けて座っているので、顔はわからない。燃えるような赤い髪をした女だった。
 亜須久の足元の板が軋んで、音色がやんだ。女はさして驚く様子もなく振り返った。
「気がついたのね」
 女にしてはやや低い、落ち着いた声だった。亜須久は部屋へ入った。
「あなたが助けてくれたのか」
「私ではないけれど、私の仲間が」
 珪月を食卓に置いて女は立ち上がった。派手な顔立ちではないが華があった。眼差しに静かな炎が揺らめいている。光と影を感じさせる女だった。亜須久はどこかで彼女を見たことがあるように思ったが、思考はまとまらなかった。
「無茶をしたわね。あんな嵐の日に水泳なんて」
 女は揃えてあった草履をはいて、静かに微笑んだ。草を編みこんで作った草履は、橙亜でよく見るものだが、他の地域で見かけたことはない。
「ここはどこだ」
「竜樹よ」
 女の答えは望んでいたものであるのに、亜須久は容易には信じられなかった。珪月といい、草履といい、ここには橙亜に関係するものが多すぎる。
「不服かしら。来たかったんじゃないの、竜樹へ」
「あ、ああ……」
 女の口ぶりに、亜須久は首をかしげる。竜樹へ来たいなどと、言った覚えはない。
「うなされながら、そう言っていたわ」
「そうか。世話をかけたな、ありがとう」
「いいの。どうせ私、珪月を弾くしかできないもの」
「その珪月は、あなたのものか」
 亜須久が珪月を指差すと、女は振り返ってうなずいた。
「私の、宝物よ」
「素晴らしい腕だった。あの曲はどこで」
「あら、知らない? そんなはずないでしょう。あんなに流行っていたんだもの」
 女は猫のような金色の瞳を細めて続けた。
「橙亜で」
 亜須久は背中がすっと冷えるのを感じた。
「それも、うなされて口走ったか」
「いいえ。橙亜の花街であなたを知らない芸妓はいないわ」
 祥楼路の置屋や茶屋は、すべて梗河屋の管轄にあった。亜須久がその仕切りに直接関わったことはないが、周防と行動をともにしていた亜須久の顔は知れ渡っていたはずだ。亜須久も彼女の顔に見覚えがある。彼女が祥楼路で芸妓として働いていたことは、疑うところがない。
 それよりも、もっと気にかかることがある。
「なぜ祥楼路の芸妓が竜樹にいる。ここは本当に竜樹なのか」
「それは……」
 女の眼差しが亜須久の肩越しを捉えた。
「それは、彼から聞いてちょうだい」
 亜須久は女の視線を追って振り返り、自分の目を疑った。
「そんな、まさか……」
 部屋の入り口に男がひとり立っている。
「やあ、亜須久。久しぶりだな。元気そうで安心した」
 男は北の海のように凍えた眼差しで笑った。
 これが現実だとは、信じたくなかった。だが夢か錯覚かと疑うには、世界はあまりにも鮮明で齟齬がない。たしかに現実のことなのだ。亜須久は自分に言い聞かせ、渇いた喉に唾を押しこんだ。
 そこにいたのは紛れもなく梗河屋総長、梗河周防(すおう)だった。