THE FATES

9.灯火(2)

「なぜ……」
「どこにいようと、俺の自由だろう」
 周防は襟巻きを外して椅子に投げ、壁に凭れかかった。
彌夕(みゆう)
「なに?」
「あれを呼んできてくれ」
「わかった」
 彌夕は頷いて、立てかけてあった珪月を手に持った。呆然と立ち尽くす亜須久の視界に入って、作ったような笑みを見せる。
「またあとでね、亜須久」
 手を振って、彌夕は部屋から出て行った。亜須久はそれをぼんやりと眺めて、声を絞りだした。
「ここは、どこなんです」
 一瞬、彌夕が振り返りかけたが、周防が亜須久の視線の先に立ちはだかった。
「あの子から聞いただろう。ここは竜樹だ。お前が来たがった場所だよ」
「だったら、どうしてあなたが……」
 まさか、また会うことになるとは思っていなかった。もう二度と橙亜の土を踏むことはないと思って国を出たのだ。どんなに生き辛くとも、堅気のまま死にたいと思った。それが死んでいった翔華への手向けになると信じていた。決意と望みの入り混じった、とても強い気持ちだった。
 亜須久は眉を寄せた。
「なんの茶番ですか」
「思いあがるなよ、亜須久。わざわざお前を困らせるためだけに竜樹まで来たりしない」
「梗河屋は……? あなたなしで誰が動かしてるんです」
「組織から逃げ出したお前には、関係のないことだろう」
 周防の言うとおりだ。亜須久は返す言葉に詰まった。
 明日への一歩を踏み出そうとすると、いつだって周防が現れて道を塞いだ。それを何度も繰り返しているうちに、亜須久は明日を求めなくなり、やがて昨日にとどまった。そうやって未来も希望も信じなくなった。
 ようやく踏み出したのだ。未来へ希望を求めて、この足を明日へと向けたのだ。それをこんなところで邪魔されるわけにはいかない。
 亜須久は周防の暗い目を睨みつけた。
「あなたは俺に強く生きる方法を教えてくれた。おかげで俺は今もここに生きて、自分で道を選べるようにもなった。そのことには感謝してます。でももう邪魔はさせません」
 もしあのとき、梗河屋に拾われていなかったらと想像してみる。母の死は避けられなかったろうし、壊れていく伊純をとめることはできなかったろう。遅かれ早かれ、亜須久も生きることをやめていたかもしれない。梗河屋を恨むことで、梗河屋に縛られることで、結果的に亜須久はここまで生きられたのだ。
「心に一片も恨みがないとは言えない。だがもう、それを過去へ置いてきたいとも思っています」
 亜須久はまだ軋む体を折って、深く頭を下げた。
「周防さん、お願いだ。俺に俺の道を歩かせてください」
 殴られるのは覚悟の上だった。ここで死ぬかもしれない、そんな予感もあった。だが自分で選んだ今日という日で死ねるなら、それはそれで本望だった。
 ふっと、周防が息をもらした。笑ったようだった。
「いい目をするようになった」
「え?」
 顔をあげると、周防が静かに微笑んでいた。鋭く暗い目は変わらない。だが人肌を感じさせる笑みだった。
「邪魔するつもりなんてないさ。少なくともこれからは」
「周防さん……」
「お前は裏の世界で生きていくにはあまりにも優しかった。その優しさはいつかおまえ自身を咬み殺してしまう。それだけはどうしても避けたかった。どうしてもな。だがもう、その心配はせずに済みそうだ」
「すこしは、逞しくなったということですか」
「ああ。裏も表も知っている、だが諦めていない目をしている」
 顔の造形が変わったわけではないのに、周防の表情には温度や色があった。亜須久はこれまで、周防のこんなにも人間的な眼差しを見たことがなかった。以前なら疑ってばかりいた彼の言葉を、すんなりと受け入れることができた。
「本当にここは竜樹なんですね」
「そうだと言っている。多少は喜んだらどうだ」
 周防は横目に窓の外を眺めて、口を歪めた。ため息をもらして続ける。
「まさかあの海を泳いでくるとは思わなかった。正直驚いた。あの嵐は結界だったんだがな。お前は泳いでいるあいだにあれを無意識に解いていたんだよ。まったく、とんでもない強運だ」
「結界……」
「俺の兄が施した結界だ。お前には体力が戻り次第、壊した責任を取ってもらうぞ」
「兄、ですか」
 梗河の親類関係はすべて頭に叩き込んでいたが、周防に兄弟はいない。もしいたとしても、梗河屋総長の座を守るため、生かしておくはずがない。
「初耳です。てっきりすべて排除したと思っていました」
「そうだな。本物にはいなかった」
「どういう意味ですか。本物って、なんの」
「本物の梗河の跡取りだよ」
「え……?」
 周防のほかに梗河屋の跡取りがいたとして、周防が彼に成り代わったのだとして、ならばこれは誰なのか。
 はじめて梗河屋に連れていかれた日のことや、殴り飛ばされたこと、無茶な仕事を任されたときのことなど、いくつもの過去が断片的に現れては消えた。どれも思い出したくない過去ばかりだ。そしてそのすべての景色に、冷たく笑う周防がいる。彼は梗河周防ではないのか。そもそもそんな人物すらいなかったと彼は言うのか。
 十年間ずっと亜須久の世界を支配し続けた、いま目の前にいる男は誰なのか。
 周防は亜須久の疑問を置き去りにして、廊下を振り返った。
「まあひとまず、竜樹まで辿り着いた祝いをしてやろう。入れ」
 呼ばれて部屋に入ってきたのは彌夕だった。珪月を持っていないほうの手で、誰かの腕を引いている。
「ほら、大丈夫よ」
「でも……俺は亜須久に会わせる顔がないよ。そもそも俺のことなんて忘れてるかもしれない」
「そんなことはないわ。きちんと説明してあげるから」
 なだめすかしながら、彌夕はさらに腕を引いた。
 亜須久には彌夕と話す男の声に聞き覚えがあった。ただ、声音も話し方も知っているより明るい気がする。亜須久はおそるおそる口をひらいた。
軌成(きなり)か」
 亜須久の呼びかけを聞いて、彌夕が振り返った。彼女は赤い髪をゆるく揺らして微笑んだ。
「ね。ちゃんと覚えてもらえてる。ほら」
 彌夕は亜須久に笑顔を向けたまま、掴んでいた腕を強くつねった。
「いたっ」
 半泣きの悲鳴をあげて、男がひとり部屋へ転がりこんできた。途中、周防に足を引っかけられ、男は食卓へ突っ伏した。
「い、いま、足出したろ!」
「それがどうした。よけないほうが悪い」
「周防、おま――」
「軌成兄さん」
 亜須久は男の腕を掴んだ。周防を指差そうとしていた男は、ゆっくりと亜須久を振り向いた。
「亜須久」
 優しい褐色の瞳は、罪の意識に揺れていた。