THE FATES

9.灯火(3)

 彼はたしかに亜須久の義理の兄、軌成だった。
 だが軌成は亜須久が十二のときに失踪して行方知れずになり、その数年後には人を殺して死罪になったはずだった。
「生きてたのか、軌成」
 亜須久は頭ひとつぶん小柄な兄の両肩を揺らした。軌成は困ったような、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すまない、亜須久。騙すつもりはなかったんだが、仕方なかった。そうでもしないと、俺の存在をあの街から消すことができなかったんだ」
「存在を、消す? どうして。どうして消さなきゃならない。軌成がいなくなったせいで、俺は……!」
 声を荒げて、亜須久は軌成の肩にもたれかかった。軌成は怒りや戸惑いに震える亜須久の黒髪を軽く撫でた。
「本当に悪いことをした。俺も周防も、お前を傷つけたかったわけじゃない。だが結果としてお前が傷ついてしまったことには、本当に申し訳ないと思ってる。すまなかった、亜須久」
 目の前にいる軌成は、記憶のなかの軌成よりずっと大らかで優しかった。抱きしめる腕にも、確からしさを感じられる。以前の軌成には、人とのあいだに埋めがたい距離があった。それは子供心にもはっきりとわかる、意図された距離だった。
 あれから十年近くが経っている。そのあいだに軌成は変わったのか。それともこちらが彼の本質なのか。
「どんな事情があったんだ」
 体を離して、亜須久は静かに問いかけた。軌成のやわらかな表情が、一瞬で張りつめた。ちらりと周防を見遣る。
「いいか、周防」
「構わない。話してやれ」
 窓際に腰かけて、周防は軌成にこたえた。
 軌成は亜須久に座るよう促して、自らも向き合って座った。部屋の隅にいた彌夕が珪月を鳴らした。その調べにしばらく耳を傾けてから、軌成は口をひらいた。
「率直に言う。俺はお前の兄じゃない」
「母が違うことは知っている」
「そうじゃない。伊純(いずみ)とも兄弟じゃないんだ。つまり俺は夜上(やじょう)の子じゃないんだよ」
 軌成はわずかに逡巡を見せてから続けた。
「亜須久、斎園のことは聞いているか」
「名前くらいは」
 亜須久は眉を寄せながら、かろうじて頷いた。軌成は悲しそうに微笑むと、うつむいて頭をかいた。
「俺はその斎園の生まれだ。そこにいる周防や彌夕とは、ずっと昔からともに戦ってきた仲間だ」
「どちらかというと、私と同じで後方支援組だけどね」
 珪月を弾きながら彌夕が口を挟んだ。軌成は笑ってごまかした。
「まあ、そうとも言う。俺の役目は陣の確保だった。ここもそうだが、建物の設計から資材選びまで、その時の作戦にあわせて、いかに素早く頑丈なものを作るか。それが俺の仕事だった。だが、あるときから俺の仕事は変わった」
 軌成は苦しげに目を伏せた。
「お前のことを見守る……いや、監視するために、俺はあの家に兄としてもぐりこんだ」
「どういうことだ」
 呆然と呟いてから、亜須久は周防を睨みつけた。
「あなたか。あなたが軌成を苦しめたのか」
「まさか。仲間を苦しめる趣味はない」
「どうだか」
「相変わらず冷たいな。おい軌成、お前からもきちんと言ってくれよ。誰に強制されたわけでもない、自分で買って出た仕事だって」
 周防は口元に手を添えて、わざとらしく声を大きくした。
「軌成、本当のことを言ってくれ」
「周防の言うとおりだよ。とは言っても、梗河屋次期総長との二択だったら、誰だってこっちを選ぶだろう」
 そばの食卓にひじを置いて、軌成は力なく笑った。そこに嘘は感じられなかった。彼が家族でも兄でもないことを、亜須久はようやく理解しはじめた。半分の血すら繋がっていない、まったくの赤の他人であると。
「じゃあ、伊純と俺だけか」
 亜須久にとって、軌成の存在は救いだった。自分の血はきっと軌成に近いと信じることで、伊純の振る舞いを冷静に否定することができたのだ。自分もいつか伊純とのあいだに、軌成のような距離感を築けるようになるのだと、そう思ってきた。それは亜須久の唯一の希望だった。
「すまない、亜須久」
 軌成は両膝に手を置いて、首の後ろが見えるほど頭を下げた。
「お前に対する伊純の振る舞いを、ただ見ているしかできなかった。俺の仕事はお前を助けることではなく、余計な情報が入らないように、もし入ったときには報告することだったからな……」
 頭を下げたまま、軌成は続ける。
「何度、伊純を殴り飛ばしてやろうと思ったか。何度、お前があの家の子であることを呪ったか。だが、わかっている。いくら役目だったとしても、見ているだけで助けなかった俺も同罪だと。お前にはなんと言われても仕方ない。殴りたければ殴ってくれ」
 殴ってくれと乞われて殴るなど、亜須久にはできなかった。もとより、軌成を殴るつもりもない。
「もう、終わったことだ。伊純は死んだ。もう、過去のことだ」
「亜須久、だが……」
「いいんだ。もう、戻りたくない。あのころの気持ちには」
「そう、か」
 顔をあげて、軌成は額を押さえた。指の隙間から、彼の積年の苦渋がこぼれ落ちるようだった。たとえ彼が本当の兄でなくとも、亜須久にとって軌成はやはり兄だった。同じように自分もまた軌成の弟であればいいと、そよ風のようなやわらかさで思った。
「しかし、一体なんのために……」
 亜須久はふと呟いた。
 つい先ほど、周防もまた本物の総長ではないと言っていた。彼らは一体何ものなのだ。斎園生まれの軌成が周防のことを仲間と呼ぶのなら、周防もまた斎園生まれである可能性が高い。
 斎園といえば、思い浮かぶのは久暉という少年のこと、そして青竜のことだった。乱暴なやり方だが、もしも斎園という言葉だけでひと括りにしていいのなら、亜須久にはひとつだけ納得できることがあった。
「伝説を刷り込んだのはあなたか」
「実際に記憶を操作したのは、兄の比古だがな」
「つまり認めるんだな。青竜とも繋がっていることを」
 亜須久の問いに、周防はにやりと笑った。
「ああ、そうだ。俺も軌成も彌夕も、そして青竜も、久暉を中心として集まった解放革命の同志だ」
「解放、革命?」
「おい周防、その話はまだ……」
 軌成が周防を制して、彌夕の珪月もまたぷつりと途切れた。
 周防は組んだ脚の上に頬づえをついてしばらく考えていたが、やがて肩を揺らして笑いだした。
「ここまで話しておいて、もう隠すこともないだろう」
「まあ、そう言われればそうだが。いやしかし、青竜がなんて言うか考えただけで、頭が痛い」
「兄さんもおそらく今ごろは玲妥に話している」
「比古が?」
「ああ。安積と行ったなら、そのつもりで向かったはずだ。まあ青竜にばれれば色々とうるさいかもしれないが、もういいだろう。だいたい、あっけなく向こうへ連れて行かれたあいつが悪い」
 周防は椅子から立ち、すぐそばで亜須久を見おろした。その眼差しは冷たく、暗く、しかし純粋だった。
「種明かしをしてやるよ」
 彼は笑顔というにはやや尖った風情で言った。