THE FATES

9.灯火(4)

 長らく閉めきっていた店の中は、土埃のにおいがした。比古は真っ先に踏み入って安全を確認したのち、玲妥たちを招きいれた。
 玲妥と再会して説明を求められた比古は、ひとまず店へ入ろうと提案した。結界があるので、戻っていると知られることはない。混乱は起きないと説明した。玲妥はすぐに同意した。
 店に荒らされた様子はなかったが、そこにはすでに廃墟の影がある。玲妥はすぐさまそれを感じ取ったのか、小走りで掃除道具を取りに行き、埃を掃き集めはじめた。同行していた紫月(しづき)は玲妥を手伝い、安積(あづみ)は厨房へ入った。
 比古は邪魔にならないよう、二階へ続く階段に腰かけて店を眺めていた。最後に訪れたときから、まだ一年も経っていない。だが比古のなかには郷愁に似た懐かしさがすでにあった。玲妥と遊んだこと、由稀に文字を教えてやったこと、思い出すのは兄妹が幼かったころのことばかりだった。
 思えば、それまでの比古は静かな日常というものを過ごしたことがなかった。生まれたときから赤黒い空を眺め、物心ついたころには周防とともに喧嘩に明け暮れた。十歳になるころには義賊を気取って皇室の隊列を襲撃し、奪い取った家畜や砂金を一帯の村にばら撒いた。
 戦って、傷つけて、傷ついて。その繰り返しだった。
 視線の先で紫月が転んで、掃き集めた埃が宙に舞った。玲妥は一瞬苛立ちを見せたものの、すぐに笑いだした。安積も、そして紫月も笑った。比古も黙って笑みを浮かべた。笑おうとして笑うのではない、自然と込み上げてくる微笑みだった。
 こんなふうに笑いあえる日が来るとは、思いもしなかった。
 久暉を失った悲しみは深かった。斎園を離れざるをえないこともつらかった。だがそれらをただ嘆くことはもうない。幼い兄妹と過ごした時間もまた、比古にとってかけがえのないものだった。
「比古も見てないで手伝ってよ」
 床を掃きながら、玲妥が睨みつけてきた。少し見ないあいだに、背が伸びた。丸くて赤い頬も、少し大人びたように見える。
「俺が手伝っても撒き散らすだけだよ」
「……だったらいい」
 玲妥は唇を尖らせて、口篭もりながら言った。彼女の隣では紫月が満足げに箒を右へ左へと動かしている。
「ちょっと紫月、全然集まってない!」
「ええぇ? そうですかぁ」
 間の抜けた声で返す紫月に、玲妥は笑いながらも強引に箒を奪い取った。
「もう、紫月も比古と一緒にいてちょうだい」
「そんなあ」
「いいから、はやく」
「はあぁい」
 素直に返事をして、紫月は比古の隣に腰をおろした。顔を覗きこむようにして、にっこりと笑う。
「また、会いましたねえ」
「え?」
 比古は驚きを隠せずに振り向いた。紫月とは梗河屋で何度か接触したことがあるが、そのたびに記憶を消していたはずだ。
「どこかで会ったかな」
「はいぃ、梗河屋で何度かぁ。あ、あの伝説を教えてくれたのも、あなたですよねえ」
 紫月は飴をもらった子どものように屈託なく笑った。比古には返す言葉がなかった。
 視線に気づいて顔をあげると、安積がくすくすと笑っていた。比古は眉尻を下げて苦笑した。
「君には敵わない。なるほど周防が気に入るだけのことはある」
「総長さんと、お知り合いなんですかぁ」
「そうだね、あれは俺の弟なんだよ」
「わあぁ、じゃあお兄さんですねぇ。すごいですねえ」
「すごい? う、うん。なんだかよくわからないけど、ありがとう」
 比古はじっと見られることに不慣れではあったが、向けられるものが笑顔であることに感謝した。
 紫月が手伝いをやめると、すぐに玲妥は掃除をし終えた。休む間もなく、安積を手伝う。それは見慣れた景色だったが、比古にはいつまで経っても当たり前のようには思えなかった。ふとしたときに、これは本当に現実なのかと疑ってしまう。それほど穏やかで夢のような光景だ。
 背伸びをして棚を覗いていた玲妥は、何かに気づいて階段までやってきた。
「ねえ比古、お砂糖ないけど平気?」
「いいよ。仕方ない」
「ありがとう。紫月もごめんね」
「はいぃ。かまわないですよぉ」
「ありがと」
 玲妥は小さく微笑んで、ふたたび安積のそばへ戻っていった。その背中はまだ頼りなく、比古はこれからせねばならない告白を思って視線を落とした。
「うぅーん。玲妥さん、なんだか緊張してますねえ」
 隣にいる紫月が特に声をひそめることなく呟いた。玲妥までは聞こえていないようだ。比古は紫月の肩を指でつついた。
「どのあたりが?」
「わ、聞いてたんですかあ。性格悪いですねえ」
「まあ、真横にいるから普通に聞こえるよね」
「なるほどぉ。あれれ? 思いませんかぁ。玲妥さん、私がお砂糖いらないって知ってるはずなのになあ。それとそれとぉ、すごく表情もかたいですよぉ」
 比古の目に玲妥はいつもどおりに映る。久しぶりに安積のそばにいられることが嬉しいのか、笑顔が絶えない。紫月が言うようなかたさは感じられなかった。
「そうかな。俺にはそんなふうには……」
 そこまで言ったとき、玲妥の手元から食器が落ちた。耳に刺さるような音を立てて、揃いの茶器が割れる。比古は慌てて玲妥に駆け寄って、背中から抱きとめた。小さな体は小刻みに震えていた。
「怪我はないか」
「ご、ごめんなさい……。ママの大好きな茶器なのに……」
「いいよ、玲妥。また買えばいいんだから。気にしないで。それよりも怪我はないわね」
 安積は玲妥の頬を何度も撫でた。しばらくすると、玲妥の大きな瞳から大粒の涙がこぼれた。比古は玲妥から手を離して、安積に任せた。
「ここはいいから、そばにいてやってくれ」
「ありがとう。ねえ、比古。お茶の淹れかたはわかる?」
「一応のやりかたは」
「そう。なるべくおいしいのにしてね」
「……わかった」
 比古は割れた茶器を拾い集めて端へ寄せ、湯気の上がった鍋を見つめてひとつ息をついた。
「なにかお手伝いしましょうかあ?」
 茶葉の缶を持った紫月がいつのまにか隣に立っていた。比古は思わず誘惑に負けそうになったが、逡巡のすえに首を振った。
「いや、君がやるとお茶に花が咲きそうだ。気持ちだけもらっておくよ」
 比古は丁重に申し出を断り、彼女から缶を譲り受けた。