THE FATES

9.灯火(5)

 人には得手不得手がかならずある。比古はそう思いながら、自分で淹れた茶をすすった。苦い。
「斬新な味のするお茶ですねえぇ」
「君は存外に辛辣だな」
 丸い卓を挟んで向かいに座る紫月がごくごくと喉を鳴らし、熱い茶を水のように飲んでいた。
 比古は同じ卓を囲んでいる玲妥に視線を移した。涙はもうないが、泣き腫らした目を見ているだけで比古は心を絞られる心地だった。
 安積はいま、茶を淹れなおしている。振り返って、目顔で問いかける。彼女はゆっくりと頷いた。比古も頷き返して、安積の覚悟を受け取った。
「玲妥、聞いてほしいことがある」
 体ごと玲妥に向き直って、静かに声をかけた。玲妥はやや顔をあげて、しょげた視線を返した。比古は椅子を玲妥へ寄せて、膝の上に置かれていた手を取った。
「お前のお父さんとお母さんのことだ」
「私のお父さんとお母さんは、マスターとママよ」
「ああ、確かにそうかもしれない。だけど志位や安積とは血の繋がりがないことを、知ってるよな」
「うん、ずっとそう聞いてきた。でも……」
 玲妥の顔に不安がよぎった。比古は握る手に力をこめた。
「大丈夫。志位と安積が玲妥のお父さんとお母さんであることは、何も変わらないよ」
「ほんとうに?」
「ああ。だから、聞いてくれるね」
 比古は玲妥と手を繋いだまま、はじめて玲妥に会った日のことを話しはじめた。
 それは北国ラルマテアに訪れる短い夏の、よく晴れた夜だった。
 志位と安積が由稀を連れて町へきて、ちょうど半年が経っていた。店の体裁がようやく整ったので、比古は橙亜にいる周防と合流するつもりでいた。
 夜半過ぎ、店の扉が遠慮がちに叩かれた。比古が出ると、若い男が立っていた。腕には毛布にくるまれた何かを抱いていた。
『お願いします、少しのあいだ入れてください』
 男は掠れきった痛々しい声で懇願した。しきりに辺りを見回している。事情があることは明らかだった。比古は道をあけて男を店へ招きいれた。念のため結界を張ってから扉をしめる。窓から覗くと、夜道にはいくつもの人影があった。
 若い男が抱いていたのは、まだ生まれて半年ほどの赤ん坊だった。逞しい男の腕に包まれた子はいっそう小さく、光の束を集めたような金色の髪が額に寄り添っていた。肌は雪のように白く、唇は母を求めてとがり、祝福に彩られた頬は淡く染まっている。ただそこにいるだけで、ぬくもりが伝播するようだった。
 比古は問うた。自分の子かと。さらった子ではないのかと。思わずそう問いたくなるほど、男と赤子は似ていなかった。男は太く黒い髪で、ラルマテア周辺ではあまり見かけることのない、浅黒い肌をしていた。顔立ちは凛々しく、大陸の西側でよく見られる容貌だった。淡雪のような子とはあまりに違いすぎる。
 だが、男は自分の子だと言った。その言葉にはそう信じていたい男の願望が、少なからず含まれているようだった。同じ男の比古にはそう感じられた。
 男は追われていると言い、自らのことを話しはじめた。
『僕は曽祖父の代からずっと、大陸西側のタトス島で漁師をしています。ある日漁に出ましたら、小舟よりずっと小さな木の箱が流れてきて、その中には女の人が死んだように眠っていました。……はい、それがこの子の母親です。僕の家は集落から離れていたし、僕は一人で住んでいたのでこっそり彼女を家に運び介抱しました。まだ、かすかに息をしていましたから』
 安積からもらった水を一瞬で飲み干して、男は抱く腕に力をこめた。
『皆さんは、穢れおい、というのを知っていますか』
 斎園から出てきたばかりの三人に、俗界の文化は馴染みがない。比古は首を横に振った。
『そうですよね、僕も彼女からはじめて聞きました。穢れおいというのは、精霊界の儀式だそうです。彼女は精霊界の人で、その穢れおいで選ばれた聖女だと話してくれました』
 男は何度も続きを話そうとしては、声を詰まらせた。父の異変を感じとったのか、赤ん坊が泣きだした。男は子をあやしながら、声を絞りだした。
『僕には学もお金も力もありません。でも、その穢れおいという儀式がおかしいことだけはわかりました』
 穢れおいとは精霊界に伝わる神事で、その必要ができたときに不定期で行われていた。ひとりの女に一族の穢れを負わせて海へ流すもので、それで一族は再び清められるというのだった。
『だけど本当は違うんです。本当は、彼女が望まない形で子どもを身篭ったからなんです』
 涙声になって、男は言った。穢れおいの真実は、つまり腕に抱いた子が自分の子ではないということでもあった。
『ひどすぎます。彼女に非はないのに、なのに裁かれるのが彼女だなんて、そんなひどい話はありません。僕は彼女と生きることを決めて、この子の父親になることを彼女に誓いました。彼女はすごく困っていたけど、土下座をしてお願いをしました。集落の人たちにはばれないように、秘密の、二人だけの生活でした。しばらくひとりで過ごしてたので、誰かと暮らすのはこそばゆい感じがしたけれど、とても、とても幸せでした。……ですが、体の弱っていた彼女に、子どもを産みきる体力は残っていませんでした。この子を産むと、彼女はすぐに息を引き取りました。産声もほとんど聞かず、この愛らしい顔を見ることもなく……』
 こらえていた涙が、子どもの小さな手に落ちた。男は溢れる涙を拭いもせずに話し続けた。
『彼女と一緒に暮らしたのは、本当にわずかの間です。なのに彼女と運命をともにしようとする僕は、おかしいのでしょうか。僕は、だって、彼女を愛していました。だから彼女の運命に、その一頁になりたいんです』
 男はまだ若い。比古の目には十代そこそこに見えた。だが彼の彼女への愛は成熟していた。比古は彼の力になりたいと思った。そう伝えると、男は顔をあげて唇を震わせた。
『ありがとうございます。良かった、この扉を叩いて本当に良かった。僕はこれほどまでに神様を信じたことはありません』
 夏の夜空に似た黒い瞳から、とめどなく涙が流れた。
『追っ手が来たのは、数週間前のことです。偶然、町へ出ていたときに家を焼かれました。それから島を離れて本土へ来て、それでもまだ追ってきます。確証はないんですが、きっと彼女の一族だと思います。穢れを殺せと言ってましたから』
 男は子どもを強く抱きしめて頭を下げた。
『お願いします、この子を助けてください』
 比古はうまく逃げる段取りをつけると説得したが、男は一向に聞かなかった。
『僕の命も運命もすべて彼女とともにあります。死ぬことはひとつも怖くありませんし、悔いもありません。でも、この子の運命はまだ誰のものでもありません。巻き込むわけにはいきません。お願いします。助けてあげたいんです。せっかく生まれてきた命なのに、まだ自分の足で立つこともできないのに絶たれてしまうなんて、そんなのはあんまりです。でもきっと奴らに捕まれば、この子も容赦なく殺されてしまう。あの人たちの目的はこの子を殺すことですから。僕は、それだけは絶対にしたくない。僕と彼女が愛した証を、この世界に残したいんです』
 それまで泣いていたはずの子が、涙で濡れた父の頬に手を伸ばした。笑っていた。
『やさしい子です。どうか、このご縁を信じさせてください』
 ふたたび頭を下げた男に向かって、安積は赤ん坊を預かると言った。比古はすぐに安積の手をひいたが、安積の決意はかたかった。かつて子を流した彼女には、男の願いを聞き入れるしか選択肢はなかったのだ。
 安積の腕に抱かれた子は、安心しきった表情で指を吸った。
『ありがとうございます。ありがとうございます。本当に……』
 男は耳朶に刺していた飾りを外して、安積に渡した。
『彼女の形見です。まだ子どもには危ないから、大きくなったら付けてあげてください』
 深々と頭を下げて、男は扉に手をかけた。
『もし僕の命が永らえたら、そのときはまたここへ、今度はお酒を飲みにきます』
 比古は出て行こうとする男を呼びとめ、名を訊いた。
『僕ですか。僕の名前は……いや、すみません、言わないでおきます。その子も知らないほうがいいでしょうから』
 男は白い歯を見せて笑った。
『その子を、玲妥をお願いします。鈴がりんと鳴るように美しく、おだやかで優しい子になりますように』
 最後に我が子を眼差しで愛でて、男は店を出て行った。
 それから一度も、彼がこの店を訪れたことはない。比古は各地をまわりながら男の姿を探したが、ついぞ再会することはなかった。
 話し終えて玲妥を見ると、彼女は表情を失くしたまま泣いていた。雨だれのように涙がこぼれていく。卓の上には安積が淹れなおした茶があったが、すでに冷めてしまっていた。比古は握ったままの玲妥の手を指で撫でた。
「玲妥、すまない。俺はお前の父親を助けることができなかった。あのとき無理にでも引きとめていればと、何度も後悔をした。何度も、何度も。だがそれと同じ回数、こういう結論以外なかったとも思った。俺は彼を引きとめなかったことを正当化するつもりはない。ただ願っていたんだ。彼がふたたび、この店の扉を叩くことを」
 玲妥の手は冷たく汗ばんでいた。比古の手の甲には玲妥の涙がいくつも落ちた。あの日父が泣いていた場所で、赤ん坊だった少女が泣いていた。父のぶんまで泣いていた。
「ねえ、比古」
「うん」
「お父さん、どんな人だった」
「とても誠実な人だった。……以前、亜須久とここを出ていくときに見たはずだろう、白昼夢を」
「うん、見たよ。でもどうしてそれを」
 比古は一瞬言いよどんだのちに、口をひらいた。
「あれは、俺が見せたものだ」
 すべて話すと決意していたはずが、いざとなると口の中には苦いものが広がった。比古は歯に沁みるのをこらえて、眉を寄せた。
 玲妥は泣きながらも微笑んだ。
「そっか。やっぱりあの白昼夢は比古の仕業だったんだね」
「気づいてたのか」
「うん。だって私が見る白昼夢は、いつも比古の匂いがした」
「それは、いつから?」
「はっきりしたのはつい最近。でも思い返してみたら、ほんとはずっと昔からわかってたのかなって思う」
「さすが鋭いな。全部ばれてたとは」
 比古は苦笑いを浮かべて観念した。玲妥は比古の手を握り返す。
「ありがとう。比古の記憶を見せてくれて。あの人は本当に私のお父さんなんだね」
「ああ。母親に関しては、俺の想像だが……」
「それでもいい。お母さんのことを話すお父さんを見て、比古が思い描いてくれたんだよね。だったらきっと、そう遠くはないから」
「玲妥……」
 比古は玲妥の父に向かって叫びたかった。お前の子は、お前たちが願ったように鈴が鳴るように美しく、おだやかで優しい子に育ったと。