THE FATES

9.灯火(6)

 繋いだ手の上に、安積がさらに手を乗せた。
「二人だけでずるい」
「ママ」
「玲妥に渡したいものがあるの」
 安積は重ねた手をひらいて、中に握っていたものを玲妥へ見せた。そこには小さな耳飾りが鈍く光っていた。
「これは……」
「玲妥のお父さんが遺してくれたものだよ」
 床に膝をつき、安積は玲妥の手のひらに耳飾りを置いた。輪になった飾りの先には、小さな涙ほどの石がついている。石はよく磨かれ、不透明で青く、赤茶色の細い筋が数本平行してあった。
「つけてもいい?」
「もちろん。そのためにあるんだから」
 玲妥は耳飾りをそっと指でつまんで、手さぐりで自分の耳につけた。
「どお、かな」
「よく似合ってる」
 そう言って笑う安積の裏側に、比古は彼女の寂しさを嗅ぎとった。すぐにも彼女の心の穴を埋めたいと思う。だがこらえた。比古は黙って玲妥を見つめた。
 玲妥は耳に触れながら、涙のあとが残る頬を緩ませた。
「ありがとう、ママ」
 笑顔のなかから、また涙が落ちた。安積は立ち上がって玲妥を抱きしめた。
「ごめんね、玲妥。急にこんな話されたら困るよね。混乱するよね。本当にごめんなさい。今までずっと黙ってて。だけど話をするときには、この耳飾りも一緒に渡したかったから。どうしても遅くなってしまったの。やっと渡せて、嬉しい」
「平気、平気だよ。どうしてか、涙がとまらないんだ」
 玲妥は安積の背中に手を回して、椅子に座ったまま抱きついた。
 店にはしばらく玲妥のむせび泣く声だけが聞こえた。玲妥は歳のわりに聡明で落ちつきのある子だが、安積の腹に抱きついて泣く様はまだ子どもらしかった。
 次第に嗚咽がやわらいで、すすり泣きになる。玲妥はしっかりと安積に抱きついたまま、顔をあげた。
「ねえママ。ひとつお願いしてもいいかな」
「なに?」
「あのね、ママのことお母さんって呼ばせて」
「玲妥……」
 安積と志位はお母さんお父さんと呼ばれることを嫌がった。それは安積らにとっては気遣いだったが、子どもらにとっては寂しいことだった。比古は知っている。玲妥が内緒と言いながら、二人のことをお母さんお父さんと呼んでいたことを。
 玲妥はずっと我慢していた。お母さんと呼ぶことを。
 安積は眉を寄せて、視線をそらした。
「私も志位も、あなたたちと血の繋がりはないから……」
「わかってる。知ってる。でもやっぱり私のお母さんとお父さんは、ママとマスターしかいない。きっと由稀だってそうだよ」
「私はあなたのお父さんの顔を、声を、今でも覚えてる。彼こそがあなたの親だった」
「違う、違う……。一緒だよ」
 激しく首を振って、玲妥は安積の服を強く引っ張った。
「だって、ここへ私を託してくれた人だって、私とは血の繋がりがない。そうだよね」
 玲妥の大きな瞳が比古をとらえる。比古は彼女の懸命さに胸が震えた。
「ああ、彼はそう言った」
「だったらおんなじだよ。みんな、私のお母さんでお父さん」
 ふたたび安積を見上げて、玲妥は声を枯らした。
「きれい事って言われるかもしれない。でも私には血の繋がりより、思いの繋がりのほうがずっとずっと嬉しい。たとえば血の繋がりがあれば、顔が似てたり声が似てたりするかもしれない。だけどそれは、ただそれだけでしかない。そんなことよりも、寝相が似てたり、食べ物の好みが一緒だったり、同じ思い出があったり、こうやって触れあったり……。そういうほうが私には家族だから。だから――」
 さらに言葉を継ごうとした玲妥を、安積は全身で抱きしめた。
「もういい。もういいから」
「ママ……」
「玲妥も由稀も、私の大切な子よ。返してって言われても、もう返せない。誰より大切な子どもたちだから」
「じゃあ、いいの……? 呼んでもいいの?」
 玲妥の問いかけに、安積は控えた微笑みでこたえた。玲妥は顔をしわくちゃにして、泣いた。
「お母さん……」
「ありがとう、玲妥」
 安積は優しく玲妥の髪を撫でながら、母の眼差しを浮かべた。比古はもう自分の出番はないことを悟って、目を細めた。
 比古は思う。これで良かったのだと。これこそが安積の幸せなのだと。だが心の片隅には断ち切れない想いがあった。それはあきらかな落胆だった。比古はどこかで最悪の事態を望んでいたのだ。
 口に運んだ茶は冷め切って香りが飛んでいた。苦味はないが味が尖って渋い。
 横から手が伸びて、茶碗を持つ比古の手に重ねられた。
「淹れなおしてくる」
 安積は手際よく茶碗を集めて、下がっていった。
 玲妥は安積が残していった手巾で頬を拭い、ふと首をかしげた。
「ねえ、比古。そしたら、あの伝説はどうなるの。あれも比古のにおいがする」
 比古はついにきたかと、腹をくくった。冷めた茶のように顔を渋らせて、玲妥を見つめる。だが切り出す言葉が見つからない。
「と言いますかぁ」
 紫月は飲み干した器を卓へ置いて続けた。
「そもそも玲妥さんは純血、ということになりますよねえ」
「……あ、ほんとだ」
「番人も守護人もぉ、混血が条件だったんじゃないんですかあ?」
 二人の視線が比古をとらえる。比古は静かにうなずいた。
「そうだ。そのとおりだ」
 ――血に導かれし者たち、強大な力を持ち、すべての世界を操る。守護人あって、その者たちとともに魔を滅す。
 比古は何度も繰り返してきた台詞を心に浮かべた。きっとこれが最後になる。
「玲妥の出生については、俺たち三人だけの秘密だった。だから玲妥も、亜須久から混血と言われるまで何も知らなかっただろう。だがおそらくお前は混血ではない。純血だ」
 男の話から推測したのではなく、比古には血の純度が見えるのだ。その人の魂や血や力や吐息が、光のように影のように、そして陽炎のように揺らめいて見えた。実際の視力の代わりに比古が持つ能力だった。人だけでなく物の影も見えるので生活に不自由はないが、比古が見ている世界は他と大きく違った。
 その比古の目に、玲妥はひとつの翳りもなく映る。血に混じりけがない。それはあの夏の夜からわかっていたことだ。
「別に、混乱させようとしたわけじゃないんだ。青竜には本当のことを言ってなかったから、青竜から説明を聞いた亜須久は、聞いたとおりに話しただけで……。あいつらに非はない」
「つまり、やっぱり比古と青竜は仲間なの?」
「そうだ」
「お母さんと、お父さんも?」
「そうだ」
 比古は玲妥から視線を外さずうなずいた。玲妥の緊張が比古の目にはっきりと映る。酷な力だと、比古は顔を逸らした。
 玲妥が小さく息を吸って、笑ったようだった。
「そっか。じゃあ今、比古たちは大変なときだよね」
「え?」
 思いがけない言葉に比古は顔をあげた。玲妥はまっすぐ比古を見つめて、やはり笑った。
「だって青竜は瞬が天水へ飛ばしちゃったから」
「あ、いやまあ、そうだが……。怒らないのか」
「どうして怒るの?」
「それは……」
 舌に苦味が広がる。
「俺たちがあらゆる嘘を、そして隠し事をしてきたからだ」
 見つめられることが苦しかった。しかもそれがなぜ笑顔なのか、比古にはわからなかった。
 玲妥はそうだねと静かに言った。
「でもね比古、私は裏切られたって言いたくない。たしかに比古は私と由稀にたくさんの嘘と隠し事をしてきたかもしれない。だけどそこにはすごく深い事情があったんだと思う。そう思うくらい、比古は私たちを大切にしてくれたから。あの気持ちまで嘘だったなんて、私には思えないから」
 小さな膝の上に乗せた、小さな手をぎゅっと握る。
「だから全部終わりにしようよ。今日ここで」
 乾ききったかさぶたが、いつのまにか剥がれ落ちるように、比古の罪悪感はあっけなく断たれた。