THE FATES

9.灯火(7)

 運ばれてきた新しい茶で冷え切った心をあたためる。ためらいも、戸惑いも、怖れもない。すべて目の前の幼い光に包まれて消えた。
「あの伝説はすべて青竜が作ったものだ。この世界にあるものじゃない。いや、どこにもない。すべて嘘だ。俺がお前たちの記憶に植えつけた嘘の伝説だ」
 玲妥は比古の話をじっと聞いていた。比古は意識して表情をやわらげた。
「お前たちを利用しようとした。俺たちの目的のために」
「目的って?」
「斎園の話は聞いてるか」
「名前だけは。他は何にも知らないよ」
「そうか。斎園というのは、俺や安積や志位が生まれ育った場所なんだ。ここアミティスの裏の世界と考えてくれればいい」
「え、え?」
「言葉だけではわからないだろう。実際、斎園が裏か表か、もしくはまったく別の繋がりを持つ世界なのか。そんなことは俺たちにもわからない。だが行けばわかる。あそこはアミティスという獣の、その内臓のような世界だ」
 斎園の赤黒く澱んだ空のいびつさは、アミティスへ来てはじめて明確になった。それまで空は赤いもので、空気は息苦しいもので、水は濁ったもので、大地はかたいものだった。だがアミティスは違った。空は青く透けて、空気は清浄で、水は澄みきって、大地はやわらかくたわんだ。アミティスに降る光は比古には強すぎたが、生きづらくてもいいと思わせる魅力があった。この光になら焼かれたいと思った。
「俺たちは斎園を解放するため、戦ってきた。久暉を中心にしてな」
「久暉って」
「ああ。由稀の中にいた魂だ」
「うん、聞いた。それで由稀の髪と目は空色だったんだよね」
「そうだ。久暉を助けるために、やむをえず取った手段だ。深手を負った久暉に青竜が施したもので、竜族に伝わるものだと言っていた。治療のあいだはどうしても肉体だけにする必要があったらしく、しかたなく久暉の魂を生まれる前の由稀の中に押し込んだ」
 青竜から話を聞いたときの、表しようのない不快感を思い出す。そしていま、玲妥に同じ思いをさせていると思うと、申し訳ない気持ちになった。
「伝説をでっちあげたのは、戦える仲間を増やすためだった。久暉が大怪我をした戦いで、俺たちはずいぶんと削られてしまったから。俺も当時はひどい怪我で苦しんだ」
「そうね、久暉ほどではなかったけど、比古はその次に危なかったわ」
 真夜中に降る雪のように、安積の言葉は比古の内側に積もった。静かで清かで、凍みた。
「俺は青竜に言った。久暉を助けるためなら、どんな隠し事をしても構わない。だがその代わりにこちらの要望もきいてほしい、と」
「それが仲間の確保?」
 玲妥の問いに、比古はうなずいた。
「そういうことだ。そうやって青竜は伝説とそれに関する役割を作った。久暉の魂を抱える由稀には志位と安積をつけた。俺は斎園に耐えうる混血の能力者を探し、そのそれぞれに偽りの伝説を吹き込んだ……」
 まず見つけたのは亜須久だった。ただ記憶を埋めこむだけでは心許ないので、監視として周防と軌成がついた。また周防は資金を調達するために梗河屋にも潜入した。
 比古は羅依や弓菜や葉利を見つけ、そのたびに記憶をいじった。また齟齬が生まれていないかを確認するために、何度も候補者の記憶を覗いた。あまり、気分のいい仕事ではなかった。
「ただ、お前だけは違うんだ、玲妥」
 喉が渇いていたが、茶を飲む余裕は比古にはなかった。
「俺たちはあの男を待つ意味も込めて、お前をここで育てたかった。だが青竜は目的のため、久暉のためならすべてを灰にできる。そんなやつに、斎園へ連れて行けないお前のことを話す気にはなれなかったんだ。話せば、不測の事態に備えて処分しろと言われるのはわかっていた。正直、久暉の治療に当たっているあいつを排除できるやつはいなかった。久暉が元に戻るまで、青竜に従うしかなかった」
 そこまで言って、比古は小さく否定した。
「いや、違うな。これじゃまるで青竜ひとりが悪者だな。そうじゃないんだ。だが青竜は俺たちにも計り知れないところがある。そこが怖かった」
 青竜とは元より反りが合わなかった。かつては意見をかわせば必ず喧嘩になったほどだ。だが、久暉が倒れたその日を最後に、比古と青竜が衝突することはなくなった。青竜の提案する手段でしか久暉を救えないと悟ったこともあるが、心のどこかで代替案をもたない自分を責めていたのだ。だから青竜を責めることができなかった。それはいまも続いている。
 窓から見える町の通りには、日常が広がっていた。降り注いだ光が、地面の小石に弾けて粉々になる。
「なあ、玲妥。俺も訊きたいことがあるんだ」
「うん」
「お前はどうして亜須久について行こうと思ったんだ。亜須久の説明に納得したからか」
 比古の問いに、玲妥は首を振った。
「ちがう」
「じゃあ、どうして行ったんだ。俺がお前にあの白昼夢を見せたのは、お前を引きとめるためだったんだ。玲妥は由稀と違って、本当の親への興味が薄かっただろう。だからあれを見せることで安積や志位への執着を強めてほしかった。お前ならそうすると思った」
「そうだね。うん。たぶん、いつもの私ならそうしたと思う。でもあのとき、あれは明らかに逆効果だったよ」
「どうして」
「だって、すごくあーちゃんに似てたから」
「え」
「お父さん、似てるでしょ? そう思わない?」
 言われて、男の姿を脳裏に思い浮かべてみる。比古には雰囲気がだいぶ違うように思えたが、玲妥がそう思うのなら仕方ない。
「俺は、お前を巻き込みたくなかったんだ。これだけ巻き込んでおきながら言うことでもないが……」
 玲妥にはここで安積とともに日常を過ごしてほしかった。それが二人の幸せの形だと比古は信じていた。それを望んでいた。どこまでもひとりよがりな願いだということは、痛いほどわかっていた。
 玲妥はあかい唇を軽く噛んでから言った。
「比古は、これからどうするの」
「そう、だな」
 どうするべきなのか、それは決まっている。だが自分がどうしたいのかわからない。一体いつまでこんなことを続けられるのかと不安にもなる。
 戦って、戦って、戦い抜いてここにいる。一瞬でも戦うことをやめていたら、きっともう死んでいただろう。
 ならば生きるために戦うのか。生きるため家畜を殺すように、生きるために人を殺すのか。比古にはわからなかった。
 はじめは安積のためだった。彼女を傷つけた村や皇室が許せなかった。だが戦い続けていくなかで比古にはたくさんの理由ができた。ひとり仲間を失えば、そのぶんだけ理由が生まれた。
 自分は生きたいのか、守りたいのか、それともただ戦いたいだけなのか。
 比古の迷いに、安積の吐息が落ちる。
「比古は、久暉が選ぶ道を進むのでしょう」
「俺は――」
「私も、あの子が選ぶ道を見たいわ」
「安積」
「理由がひとつだなんて理由はないけど、ひとつに絞ることも大事よ。今はばらばらに見える理由も、そうしていればいつかはひとつの束になるから」
 それはつまり、理由がいくつあってもいいことと同義だ。束ねた管の中にさらにいくつもの管があっても、外から見ればひとつきりだ。
 もし本当に束ねられるなら、束ねたい。どの理由も同じ重さで抱えたい。どの理由も分け隔てなく守りたい。貫きたい。
「俺は、久暉を待つ」
 比古を支える理由はいくつもある。だが比古を最後に動かすのは、久暉という存在のその灯火だけだった。彼と出会えたからこそ、今の比古がある。安積を守ることも、きっとできる。
「久暉を待って、もう一度斎園を解放するために戦おうと思う」
 安積が満足げに微笑んだ。比古のほうが少し年若いだけで、いつまでも弟扱いをされてしまう。それも悪くないと思える日がいつかくるのだろうか。
 玲妥はうつむき加減になって、体をかたくしていた。
「私に何かできないかな」
「玲妥が……? まさか、そんな危険なことはさせられない」
「でも、もし由稀や羅依が帰ってきたら、斎園へ誘うんだよね」
 玲妥の言うとおりだった。比古には返す言葉がない。
「だったら私も一緒がいい。みんなと一緒にいたい」
「それならここに安積といてくれ。それでも充分一緒だろう」
 だが玲妥は激しく首を振った。
「比古が心配するなら、危ないところには行かない。でも力になりたい」
「玲妥……」
 なぜこんなにも懸命になれるのだろうと考えて、比古は安積を見た。そうだ、彼女だ。玲妥は安積が育てた子だ。誰より一生懸命で、なにひとつ不思議はない。
 比古は忌み嫌ってきた赤い目を細めた。
「わかった。玲妥には玲妥にしかできないことが必ずある。それを探して教えてくれ」
「じゃあ、いいの?」
「とりあえずは。俺と安積が味方するよ」
「ありがとう!」
 玲妥は勢いよく比古の首に抱きついた。綿毛のようなやわらかさで、少女の髪が鼻先をくすぐる。比古は玲妥の体を少し離してくしゃみをした。玲妥と安積に笑われて、比古も顔をほころばせた。
 顔をあげると、卓を挟んで正面に座る紫月と目が合った。
「紫月、君はどうする」
「そうですねえぇ」
「自由なんだぞ。梗河屋へ戻ることも強制しない」
「いいえぇ。玲妥さんが行くなら、私も一緒に行きますよぉ」
 普段と変わらないのんびりとした口調のなかに、強固な意志が感じられた。彼女の言葉には嘘がない。比古はそれ以上、口を出すことはやめた。紫月は、ただと言って続けた。
「とりあえずですねえ、今はとってもお腹がすきましたあぁ」
 紫月は花がしおれるように卓の上に突っ伏して、盛大に腹の虫をならした。比古は脱力して、それから思いきり笑った。笑っていると、色んな理由がひとつの束になっていくような手触りがあった。
「それじゃ、ご飯にしましょうか」
 安積が声を弾ませて立ち上がる。
 比古は厨房へ向かう安積を目で追って、理由の束の芯に彼女を思った。