THE FATES

9.灯火(8)

 工場区からは昼夜を問わず荷物が運び出され、そのたびに夕天橋(ゆうてんばし)は大きく揺れた。貨物用の大きなスウィッグが、背後を何度も過ぎていく。紅はその風を感じながら、砂の地平線を長いあいだ眺めていた。
 雨はあがり、空はふたたび見慣れた曇り空に覆われた。紅は胸元をおさえ、その奥にある龍仰鏡へと意識を向ける。
 瞬が天水の時間をとめていると聞いたとき、驚きはしたが正直なところ実感はなかった。あまりに非現実的な話で、言葉は紅の思考を上滑りしていった。現実に起こっていることだという認識ができていなかった。だが実際に痛みを覚えて、ずぶ濡れになった砂漠を見つめて、ようやくその恐ろしさに思いが至った。
 変化がない恐ろしさ、変化が訪れる恐ろしさ、正常を見失う恐ろしさ、異常に慣れる恐ろしさ、知らないことの恐ろしさ、知ってしまうことの恐ろしさ。今の紅には目に映る、耳に届く、手に触れるすべてのものが恐ろしく感じられた。
 手のひらの下に、体温がある。自分と鏡、ふたつの鼓動をはっきりと感じる。自分は明らかに、世界を歪めている側の人間だ。無関係だ無力だと当たり散らしていた過去が懐かしい。
『だったら私のお母さんを返して!』
 詩桜の悲鳴に似た叫びが、耳から離れない。前から良く思われていないことは感じていた。仲良くする理由もないのでむしろ好都合程度にしか思っていなかった。まさかそれが憎悪ゆえとは思ってもみなかった。
 これまでずっと、瞬を責めて生きてきた。あらゆる不都合は自分のせいではなく彼のせいだと、彼に奪われたのだと主張することで逃げていた。だが紅もまた詩桜の母を奪って生きていた。以前の紅ならば、瞬のほうがずっと多くのものを奪っていると抗しただろうが、今はもうそんな憎まれ口すら言えなかった。
 母を亡くした紅には、詩桜のつらさが自分のことのように思えたのだ。
 いつか死という別れがくることはわかっている。だが理不尽に奪われることを受け入れられるはずもない。責めても詮無いとわかりながら、責めるしかできない。そして責めることの虚しさに押し潰されそうになる。詩桜もまたその過程を何度も繰り返して擦りきれそうになっていたのかと思うと、自分のとってきた態度があまりに無神経で恥ずかしくなった。
「もう、やめてくれよ……」
 紅は夕天橋の欄干にもたれかかって、頭を抱えた。
 腕をかけた橋の欄干が、日没にあわせて冷たくなっていく。すぐそばに立つ街灯が、ひび割れそうな音を立てて明るくなる。空に広がった薄雲はいまにもこぼれ落ちそうなほど夜を孕んだ。
 たとえ世界の時間はとまっていても、人々の生活はとまらない。人の命まではとめられない。
 もし紅にこの鏡を壊す力があったとして、壊すことで世界に時間が戻ったとして、それで何が変わるのだろう。その行為は自己満足ではないと言い切れるだろうか。いびつさを矯正することがすべて正しいとは限らないのだ。
 耳を塞げば、命の足音がする。生まれ変わり続ける細胞のひとつひとつが、明日へ向かって蠢く音だ。立ち止まることはできない。自分の意志とは関係なく、すべては進み流れていく。
 人が、その命が進み続けていることは、瞬が残した可能性ではないのか。
 いつかまた世界の針が進むように。
 いつかきっと仮初めの神を殺してくれるように。
 ひずんだ時間に組み込まれた唯一の希望なのかもしれない。
 そして自分は希望を現実にできる、いちばん近い場所にいる。
 紅は胸の奥に響くふたつの鼓動を数えながら、ゆっくりと呼吸を重ねた。
 本当に何もできないのか。何もしてこなかっただけではないのか。何も目指してこなかったから、何にもなれないのではないのか。
 茜が生きていたころは、茜の病気を治したいと思った。だから医療の勉強も遺伝病理の研究もした。あのとき、自分はどこまで本気だったのか。
 もし自分の枠を超えた本気を持っていたなら、茜を救えたのではないのか。
 後悔するのではない。顧みる。砂の上に残った足跡を振り返る。
 紅は欄干にもたれたまま、顔をわずかに上げて地平線を睨みつけた。
 与えられているばかりでは、どこにも行けない。足元にできる影のように、自由はない。だからといって、人々に与え続けても尽きることのない、そんな光のような存在にはなれない。
 歩く場所を自分で決められる存在になりたい。受けた光を影として大地に繋げられる、自由な力になりたい。
 深く息を吐き出して、鏡の鼓動に自分を合わせる。
 まだ何も持たない紅には、自分をすり減らすしか与えるものがない。だが不安はない。この体は、いつだって真新しい自分だ。自分で道を決めている限り、擦り切れてしまうことはない。
 欄干から手を離してスウィッグを起動させる。手がすっかり冷えてかじかんでいた。
 頭上では小石を鳴らすようにかちかちと街灯が瞬いた。

 絆景の部屋へ戻ると、建物の下に由稀と羅依の姿があった。二人はスウィッグの駆動音に気づいて同時に顔をあげた。紅はいつも停めてある場所へすべりこみ、眼鏡を外した。
「何してんだよ、二人して」
「や、何って……」
 由稀は珍しく口篭もって羅依に助けを求めた。羅依はさらに口篭もって言葉にならない声を出した。
「あー、だから、その、なんていうか」
「俺のこと、待ってたわけ?」
「え、あ、う、うん」
 羅依はしつこいほどうなずく。紅ははじめて彼女をかわいいと思った。断じて好みではなかったが。
「そっか。ありがとう」
 紅の言葉に、由稀と羅依が顔を見合わせる。紅はスウィッグの鍵を引き抜いて、二人を睨みつけた。
「なんだよ、何か言いたいことがあるならはっきり言えよ」
「ありすぎてどれから言おうか迷うんだけど」
「じゃあ、迷っといて」
「あ、ちょ、待った待った」
 ひとりで歩き出した紅を、由稀と羅依が慌てて追いかけた。紅は呆れて振り返り、大げさにため息をついた。
「俺さ、どうせお前らがいないと部屋に入れないし。そんなに慌てるなよ、みっともねえな」
「ああ、それもそうか」
 由稀は手を打って、満面の笑みを浮かべた。紅はもう一度大きなため息をついた。
「で、何だよ」
「いや、うん。ごめんな、紅」
「は?」
「ずっと黙っててさ」
「……別に。俺がお前の立場でもたぶん言いづらいから」
「あと、今日のことも」
「今日って」
 紅は心当たりがなく、首をかしげた。由稀は眉を寄せて言葉を振りしぼる。
「生まれてこなくても良かったなんて、そんなこと言わせて。本当にごめん」
「ああ、それか」
「あたしも、ごめん。何も力になれなくて」
「気にするな。羅依には最初から期待してねえよ」
「なっ!」
 顔を真っ赤にして怒る羅依を見て、紅は思わず吹きだしてしまった。腹を抱えて笑っていると、由稀もつられて笑いだした。
「ちょっと、なんだよお前ら! 失礼だろ!」
「そんなこと言ったって、お前そういう気遣いできるキャラじゃねえじゃん」
「羅依はいつだって自分の恋で手一杯だもんな!」
「由稀まで! つか、お前だっていい感じで詩桜と帰ってき……、あっ」
 羅依は両手で口を押さえたが、時すでに遅かった。
「え、どういうこと」
 紅は自分より背が高い由稀を見あげた。だが由稀は視線をあわせようとしない。
「いや、別に何も」
「あきらか何もなくないだろ」
 紅の横では羅依が深くうなずいた。
「そうだよ。もし何もなかったら、二人で顔真っ赤にして帰ってこないよね。しかも手まで繋いで」
「羅依、お前……!」
「先に茶化したのは由稀だろ!」
「あーもう、はいはい。うるさいよ、お花畑」
「お、おは……」
「お花畑ってひどすぎねえ?」
「問答無用。俺にはお前らの頭の上とその中にお花畑が見えるから」
 紅は二人をそれぞれ見遣ってから、肩を落としてよろよろと歩き出した。部屋まで続く薄暗い道を、三人並んで進む。
「しかし、わかんねえな」
 紅の呟きに、由稀が何がと応えた。
「何って、お前らの趣味というか、好みというか。まあ俺は男だから、とりあえず由稀にしか言及しないけど」
 紅は薄闇の中で由稀の輪郭を見あげた。ついさっきまであれほど照れていたくせに、由稀は堂々と前を向いていた。
「そうか?」
「俺はあんなうるさい女、こっちから願い下げだけどな」
「あたしには優しいよ。だいたい、紅が食べものを好き嫌いするから」
「女子は女子に甘いもんなの。特にああいう女は」
 通路は狭く、三人並ぶと腕が重なった。その腕を羅依に引っ張られる。
「紅がそういう態度でいるから詩桜だって身構えるんだろ。あ、でも紅と詩桜はいとこ同士だから、好きになっても困るか」
「はあ。そこまでの好きを俺は求めてないけどな」
「そこまでの好きでさえあるのかどうか、あたしには疑問なんだけど」
 本音を言い当てられ、紅は袖を引く羅依の手を振り払った。
「あわないだけで、別に悪意はねえよ」
「俺にもそう見えるよ、羅依」
 由稀はいつになく抑えた声で会話に割って入った。声を低くして続ける。
「それと、詩桜は詩桜なりに反省してた。紅に、謝りたいって」
 一瞬、由稀がとんでもなく遠いところへ行ってしまった気がした。だがすぐに否と首を振る。由稀はいつだって紅より進んだ未来にいる。出会ってからずっと、彼の背中を追ってきたのだ。こうやって隣に並んで歩きながら。
 羨望と嫉妬と、それを合わせても足りないほどの親愛がある。紅はひとつ気づいて、口をひらいた。
「……でもさ」
「うん?」
「あ、やっぱいい。また今度にする」
「何だよ、言いかけたことは言う決まりだろ」
「いつ誰がそんなもの作ったんだよ」
「じゃあ、あたしが今ここで作るぞ!」
「その決まり、俺パスね」
「だったら俺も後々のためにパスしとこっかな」
「ぐっ、お前ら……。ったく、もう」
 怒っているそばから羅依が笑った。紅と由稀もあわせて笑った。紅は、こんな変な好みの二人だからこそ、自分もまた楽しく付き合えるのだろうと思った。思ったけれど、秘密にした。
 言えば、きっと手厚すぎる歓迎を受けてしまうから。