THE FATES

9.灯火(9)

 扉を前にして、紅は控え目に深呼吸をした。真横にいた由稀が、扉に手をかざす。
「いいか」
「ああ」
「俺たちは梅詩亭にいるから」
「わかった」
「勝手にどっか行くなよ」
「行かねえよ。行くところないしな」
 それはこの半日で痛感したことだった。
「そっか」
 由稀はかすかに笑ったようだったが、今の紅にそれを確認する余裕はない。
「戻ってこいよ」
 そう言って、由稀は扉に手を置いた。金属質の扉が音もなくひらく。紅は由稀と手を叩き合わせて、中へ一歩踏み入った。背後で、やはり無音のまま扉が閉まる。
 紅はすっかり見慣れた部屋へ視線を投げた。いつも由稀が寝台代わりにしている長椅子には、瞬の姿があった。眠っているのか、座った姿勢のまま微動だにしない。端整な横顔には、疲労の影が見える。紅はすぐにもこの部屋から逃げ出したい衝動に駆られたが、懸命にこらえてもう一歩を踏み出した。
 ふっと、瞬が顔を上げた。渋みのある深緑の瞳が紅をとらえる。
「ひとりか」
「ああ」
「あいつらは」
「梅詩亭」
「そうか」
 背もたれに沈み込んでいた体を起こし、瞬は卓上の煙草に手を伸ばした。けだるさの残る手つきで火をつけようとするが、火付け具の調子が悪いのか、なかなかつかない。
「使えば」
 紅は横から火を差しだした。瞬は目をあげて紅を一瞥し、何も言わずに煙草を近づけた。
 すぐそばで見ると、顔立ちは確かに瓜二つだった。飽きるほどそう言われてきたのも、仕方ないと思えた。だがそれは目鼻の造形が似ているだけで、互いが持っている個性はあまり似ていない。それは、一緒に過ごしたことがないからなのか、それとも元より似つかないのか。紅にはどちらも正しくて、どちらも正しくはなかった。
 いつまでもその場から立ち去ろうとしない紅を不審に思って、瞬はもう一度、横に立つ紅を見上げた。
「何か用か」
「ああ」
「なんだ」
 砂糖菓子のように甘い、瞬の煙草の香りがずっと嫌いだった。少し嗅ぐだけで吐き気がした。だが今はさほど気にならない。それどころではなかった。
「どうして雨が降ったんだ」
 自分の声が自分のものには思えなかった。それほど緊張していた。紅は悔しさを覚えることすら虚しく、じっと瞬の返事を待った。瞬は紅を見上げたまま、顔色ひとつ変えることがない。
 瞬はふたたび背もたれに沈み、紫煙を吐いた。
「さあ。知りたければ神様にでも訊けばいいだろう」
「そうだな。だから訊いてる。神様に」
 神の横顔が一瞬で凍りついた。混じりけのない冴えた美しさに、驚愕の濁りが浮かぶ。紅は構わずに続けた。
「全部聞いたよ。あんたが鬼使と呼ばれながらしてきたことも、天水の時間のことも、茜が死んだ理由も」
 清路から話を聞いて、まだ一日すら経っていない。もう十日は過ぎているような気分だった。たった一日。その一日で、見える世界の色はすっかり変わってしまった。
 煙草の先から、燃え尽きた灰が落ちる。瞬は煙草を持ったまま吸おうとせず、そっと目を閉じた。肩を落として、背もたれに頭を預ける。
「そうか、聞いたか」
 薄くひらいた唇からは、ため息にもならない声がもれた。自虐性を通り越した、乾いた笑いだった。
 瞬は、誰から聞いたとは問わなかった。ああ、そうかと紅は納得した。これはきっと、瞬と清路のあいだで出来あがっていた話なのだ。そうでなければさすがの清路も、紅に話すことはなかっただろう。
 自分はまだ、この男の手の上にある。かなうはずがない。
「あんたはあらゆる意味で神様だよ。凡人の俺には、まったく理解不能だ」
「それでどうする。俺を断罪するか」
 おそらく瞬は紅になら断罪されようと言うのだろう。流れ星が夜空を横切るように、そんな予感がよぎった。
「まさか。そんなことしねえよ。いつの世だって神殺しは大罪だ」
「たとえ自分の母親を殺されていても、か」
 頭を後ろに預けたまま、瞬は横目に紅を見た。
 瞬の瞳は、紅よりずっと濃い深緑をしている。客観的に見比べて、二人の瞳の色には差異などほとんどない。違いは心象に過ぎないのだ。彼の眼差しの翳りとは、ふと空を見あげたとき、ふと笑みを刻んだとき、ふと沈黙を選んだとき、ふと視線が交わったときに覗く、深奥の闇色だ。それは、瞬が死と隣りあわせに生きてきた証しであり、彼の絶望の深さでもある。
 紅には、それがない。あっても、彼には遠く及ばない。
 闇も罪も十字架も、紅は欲しくない。だからといって、すでにあるものから目をそむけることは、もう、やめなければならない。
 紅はゆるく首を振った。
「茜が死んだのは俺のせいなんだろう」
「違う、あれは俺の責任だ。俺が茜を巻き込んで深手を負わせた。元凶は俺にある」
 それはきっと事実なのだろう。紅はひどく冷めた気持ちで直観した。だが今となっては事実など、何の救いにもならない。過去を旅しても何も変えられない。紅を救えるのは、紅の未来だけなのだ。
「もういい。もう、いいんだ」
「紅」
「だって、もう終わってる。あんたがいくら背負ってもあんたが犯した罪は消えないし、茜は……」
 紅は息を継いだ。
「茜は、帰ってこない」
 言葉は紅の内側に轍を残した。それはまるで、この瞬間に茜を殺してしまったような、そんな罪悪感にも似た車輪の跡だ。
 茜を守りたかった。だが茜を喪って自由になった自分がいた。轍は、その気づきから始まっていた。
「だから俺は俺のために、せめて天水の時間だけは取り戻す」
 紅は手に持っていた火付け具を握りしめた。長椅子の横に突っ立って、車輪が伝える振動を懸命にこらえていた。
 瞬は短くなった煙草を一口吸って、灰皿に押しつけた。
「天水の傷は深い。存在の軸を失った、すでに壊れた世界だ。それをお前に直せるのか」
「壊れたなら、直すしかない。応急処置のままじゃあ、その場しのぎにしかならない」
 この未来はまだ何ものでもない。空っぽの未来だ。その未来を埋めて、染め上げていくのは、今のすべての紅だ。
「言ってくれる」
 笑い飛ばしながら、瞬は鋭さを紅へ向けることはしなかった。すぐに笑いをおさめて、紅を見あげる。
「本気か」
「遊びでこんなこと言わねえよ」
「だったら具体的にどうするつもりだ」
「それは……、まだわからない」
 喉の奥がひりひりと焼けるようだった。予想していた質問に、やはり答えられない。悔しさで手に汗が滲んだ。
 視線を感じて顔を上げる。てっきり見苦しいと蔑まれると思っていたが、向けられる瞬の眼差しは紅を待っていた。
 そうだ。わからないなら、わかればいい。
「まずは情報を集めるよ。あんたから聞くんじゃなく、自分で内容を選んで理解したい。できれば誰の手も借りたくないけど、そんな余裕ないことくらいわかってる」
「王家を頼るのか」
「いや、ここの機関を使わせてほしい。分流を作りたい」
「へえ」
「これ、あんたが作ったんじゃねえの。こないだ羅依に手伝ってもらって触ったけど、根幹の作りが流通してるものとはまったく違う。そもそも成り立ちかたが違う。これならきっとどこへでも潜りこめる」
「確かにこれは俺の思考と繋がるように、俺が基礎から構築した。言うように、よほどのことがない限りどんな端末にだって侵入可能だ。だがそれはあくまで俺と繋がっているからであって、お前がこれを使うということは、俺の力を借りるということになる。それでもいいのか。それでお前の望みは叶うのか」
 闇に濡れた深緑の目が、紅を射抜く。威圧も、暴力もない。ただ静かな問いかけだった。灯りのない夜のように、静かで重い闇だった。
 紅は小さく息を吸った。
「俺は、漣の空を取り戻したい」
 心が言葉になって、はじめてわかることがある。紅は菱乃との誓いをあらためて口にして、自分がいかに漣の空に固執しているのかに気がついた。
「そのためなら手段は選ばない。あんたの手を借りることになっても、俺はためらわない。大体……、いまさらだろ」
 紅は指で胸元をつついてみせた。その下には、瞬の力の源でもある龍仰鏡が収まっている。瞬は返す言葉を失って、困り果てて笑った。
「好きにしろ。認証を増やしておく」
 瞬はふらりと立ち上がり、自室へ向かって歩き出した。足取りに特に変わったところはないが、体全体から疲労の欠片がこぼれている。
 世界の時間をとめること、そしてとめ続けることが大変な術式なのだとしたら、ほんの少し動かすこともまた困難なことではなかろうか。ましてや、自分のもとにない鏡を操って、瞬に負担がないとは思えない。
 紅はすれ違いざまに瞬を引きとめた。
「それより昼間のこと。あんなふうに時間動かしといて、平気とは思えないんだけど」
「平気とは」
「天水も、……あんた自身も」
「そうだな、多少の弊害は出る。それは覚悟の上でやったことだ。どうしても、ああせざるをえなかった。修復に少し時間はかかるが、お前が具体策を見つけるまでには元の状態に戻しておく」
「あんまりひとりで突っ走るなよ。迷惑だから」
「迷惑ね……」
 瞬は紅の言葉を繰り返して、失笑した。紅は慣れた苛立ちを脇に置いて、口を歪めた。
「もういい加減、あんたに振り回されたくないんだ。俺も天水も。終わらせてくれよ、あんたの時代を」
「そう言いながら俺を生かすんだな」
「できれば死んでほしいけど、それじゃ繰り返すだけだろ。それに、誰も望んでねえよ、俺の知る限りでは」
 まだ利用価値もあるからと付け足して、紅は前髪を乱雑に掴んで顔を隠した。
 この顔に囚われてきた。瞬を否定しながら、瞬を求める茜の思いに縛られ、心のどこかでずっと応えようとしてきた。
「あんたにはあんたの、やるべきことがあるはずだ」
 許す、許さない。未来にはその二択しかないと思っていた。だがそうではなかった。自分の歩く場所はどこだって歩けば道になると知った。結論は歩いた先にあるのではなく、歩いてきた道にある。
 鬼使という名を背負い、王家に膝を折るかたちで瞬は天水の神になった。瞬の歩いた道には、天水の途切れた未来がある。
 灯りをかざせば、線を引き直せば、道はまた息を吹き返す。
 紅は瞬が消えていった扉を見据えた。
「自分の罪は自分で贖えよ。俺は俺の未来をつくるから」