THE FATES

9.灯火(10)

 天幕から外へ出て、青竜はまばらに広がった芝を見つめた。先日のにわか雨を受けて、名もない草の背丈がぐんと伸びている。土はすでに乾いていたが、葉はつやがあり青々としていた。まだ伸びる気配を靴の裏に感じながら、青竜は芝に座る久暉へ向かって歩き出した。
 まだ少年の域を出ない彼の背中を見つめる。両脚を抱えるように座ってやや丸められた背中は、小さく頼りない。目を閉じれば、この背中から剣が突き出たあの日の光景がよみがえる。獣の爪のように湾曲した剣は、久暉の血に濡れて斎園の赤黒い空に染まっていた。
 あれから十五年の歳月が流れた。青竜は年をとり、久暉はあの日の姿のままここにいる。それは自分が望んで選んだ未来であるのに、青竜にはひどく不思議に思えた。何度も何度も、これは現実なのだろうかと疑う。その度に現実であると結論し、また彼の斜め後ろに立つ。その繰り返しだった。
 久暉に施した術の経過は良好だった。久暉自身も肉体の感覚を取り戻しつつあるようで、目眩や不意の眠気などもすっかり減ったようだ。だが、術式はこれで終わりではない。今の久暉はまださなぎにすぎない。これを孵化させるには、最後の鍵が必要になる。青竜はふたたび、時を待っていた。
 風に乱される空色の髪を見おろし、青竜は彼の視線を追った。その先にはどこまでも砂漠が広がるばかりで、他には何もない。だが青竜は何を見ているのかとは問わない。自分ごときの疑問で彼を煩わせるわけにはいかない。
「慶栖」
「はい、ここに」
「考えていたんだ。これからのことを」
「はい」
「俺は由稀と行動する」
 久暉は振り返って青竜を見あげた。青竜はあらためて久暉が見つめていた砂のむこうを見つめた。その先には天水市街があると聞いている。
「そうですか」
「なんだ、それしきの反応か」
 由稀と再会した久暉がその答えを選ぶことは、青竜にとって驚くことでもなかった。
「わかっていましたよ、あなたが選ぶ道は」
「それは少し癪だな……」
 久暉は苦笑して肩をすくめた。
「慶栖は怒ると思っていた」
「以前の私ならそうしたかもしれません」
 言われなくても、彼がどうしたいのか青竜には手に取るようにわかる。青竜は久暉に手を差し伸べた。
「久暉様、琉霞さんにお話ししてきてください。凍馬さんには私から話します。大丈夫、あの人なら笑って見送ってくれますよ。それに天水にいる限りまた会えます」
「……そうだな」
 久暉は当然のように青竜の手に手を重ね、ふらつくことなく立ち上がった。
「なあ、慶栖。お前はずっとともに在るのだろう」
「私はこれまでずっと、あなたとともに在りました」
「俺はこれからの話をしている」
「ええ」
「答えになっていないな」
 重ねた手を離さずに、久暉は青竜を睨みつけた。握りしめられた手が軋む。青竜は表情を崩さずに軽く目を伏せた。
「よしてください。私があなたのそばを離れて、どこへ行こうというのです」
「さあな、それは俺にもわからん」
「行く場所などありませんよ、ここ以外に」
 笑みを浮かべた青竜は、それが思いのほか儚くなったことを後悔した。まるで砂の斜面に刻まれた風紋のようだ。
 久暉は握りしめていた青竜の手を離し、何も言わずに歩き出した。青竜はしばらくその場に佇んでから、自身もまた天幕へ戻った。

 いくつかある天幕のうち、青竜はひときわ小さな天幕の布をあげた。中は暗く、真ん中には炎が角を立てて揺らいでいる。外側こそ赤々としているが、内側は凍えるほど青く、炎の姿をした氷のようだ。
 炎のそばにいた凍馬が顔を上げた。
「何」
「お話があります」
「まあ、とりあえず座りなよ。そこも閉めて」
「はい」
 青竜は腰をかがめて中へ入り、炎を挟んだ凍馬の向かいに腰をおろした。炎越しに見る凍馬の肌は、背後の闇に溶けいりそうだった。
「で。あらたまって、なに?」
「結論から申し上げます。我々はここを出ます」
「へえ」
 凍馬は特に驚いた様子もなく、膝に頬杖をついた。青竜は目をしばたかせた。
「それだけ、ですか」
「あれ。寂しいとか言ってほしかったかな」
「そういうことじゃありません」
「もちろん、術式の話はこれから聞かせてもらえるものと思ってるけど」
「それはそうなんですが、なぜ出ていくのか、どこへ行くのか、気にはならないんですか」
「わざわざ聞くまでもないよ。久暉は由稀君と行動することを選んだんだろう。まあ、彼が許してくれたらという前提はつくけど、それは心配ないだろうね。由稀君なら必ず久暉を許す」
「しかし久暉様はそこに甘えているわけでは……」
「ああ、まあ、そうだろうけど」
 不安定な灯りのなかで、凍馬は砥いだ刃物のように微笑んだ。
「青竜、それより俺は術式のことが知りたい」
「わかっています」
 青竜は両手をこすり合わせて、そこに天地の杖を紡ぎだした。
「わお」
 凍馬は口笛でも吹きそうな口ぶりで呟いた。体を乗り出し、杖を見つめる。
「この杖、前に見たなあ」
「まさか」
「ああ、そうだ。瞬が見せてくれたんだった。ほら、由稀くんと戦ったことがあっただろ。あのあとに」
「そうでしたか」
「これが術の媒介か」
「媒介というより、もっと根源的なものです」
「触っても?」
「やめておいたほうがいいと思います。特にあなたは」
「存在にさしつかえる、か」
 青竜が濁した言葉の先を自嘲気味にこぼして、凍馬は元の場所へ座りなおした。
「ふうん、そうか。触ることすらできない杖を使って、俺が君の術式を真似ることは不可能だね」
「それだけではありません。たとえ握ることができたとしても、この術式を発動させることは無理でしょう」
「難しいじゃなく、無理なの」
「はい。私と、由稀さん以外には」
「それはつまり、竜族の王族系譜にしか扱えないって理解でいいのかな」
「そのとおりです」
 青竜は手元から天地の杖を消し去り、痺れの残る指を握りしめた。
 外から見る限り、凍馬に気落ちした様子はない。おそらく彼は青竜の態度や彼自身の直観から気づいていたのだろう。この術式を使うことは出来ないと。
 ならばなぜこの術式にこだわったのか。青竜にはそこが見えない。術式の秘密を知るためというのは建前で、凍馬には久暉に手を貸す理由が他にあったのかもしれない。ただそれが何であるかは、青竜にはわからなかった。
「ねえ青竜、たとえば……たとえばの話なんだけど」
「はい」
「君がそれを使って、今度は姉さんの傷を治すことはできないか」
 それは凍馬にしてみれば当然の問いかけだ。
 琉霞の顔を瞼の裏に浮かべると、思いがけず心が痛んだ。青竜はその痛みまでも振り払うように首を振った。
「できるなら、そうしたいところですが……」
「俺に出来ることがあるなら協力する。それでも無理か」
 姉の傷を癒すためならなんでもすると彼は言う。その気持ちが青竜には自分のことのように理解できた。無力であればあるほどそう願うだろう。何もできないからこそ、何かしたいと思ってしまうのだ。
 炎の中心が命そのもののように拍動を続けている。どくんどくんと揺れている。青竜は灯りが届かない闇の中に視線を落とした。
「私は久暉様を治療するために、竜族を、自分の一族を対価にした」