THE FATES

9.灯火(11)

「え……?」
 呟いたきり、凍馬は言葉を失った。瞬きさえ忘れて、呆然と青竜を見つめる。頬のあたりを、凍馬の困惑が行き過ぎた。
「私ひとりの力で使える術式ではありません。人の魂を操るなんて。琉霞さんほどの人だって、あれだけの傷を負っている。私はそれを分散させたのです」
 いざ告白すると体がふっと軽くなった。青竜は凍馬の視線を受けとめた。
「ですから、もう私には……」
「は、はは……。過激な男だな、君は」
「そうでしょうか」
「そうだよ。だけどその過激さが、久暉を救った。君にとっての国は、竜族でなく久暉なんだよね。そうか、そうやってまた二人で歩めるわけだ……」
 凍馬は頭をさげて、肩を揺らして笑った。それはいかにも冷笑や失笑のようだったが、青竜には自分に向けられているものとは思えなかった。青竜に憧れるしかできない凍馬自身を笑っていた。
 青竜は乾ききった喉に唾を押しやった。
「違います」
「なにが。どう違う。君は久暉のために――」
「久暉様の術式はいまだ未完成です。それはあなたにもわかるはずです」
「ああ、確かにそうだね。でもじきに完成するはずだ。そのときも近い」
「はい。そしてそのときが、別れのときです」
「別れだって?」
「私はもう、あの人と同じ未来を歩くことは、できません」
 青竜の言葉に凍馬は顔を上げた。
「どういうことだ。そのために君はずっと久暉を待っていたんだろう」
「はい」
「だったら、どうして」
「久暉様が再起する、その最後の鍵が私だからです」
 凍馬が何か言いかけたが、それは声にならない。青竜は両手を組んで、強く握りしめた。
「すべてを、久暉様に。それが私の生き方です。命も、例外ではありません」
「君は……」
 涙のように言葉が落ちる。
「君はどうしてそんな……!」
 凍馬は立ち上がって青竜の胸倉を掴みあげた。炎の灯りが凍馬の頬を揺らして、困惑を浮き立たせる。青竜はそれをどこか羨ましく眺めた。青竜にはもう、揺らぎのための遊びすらない。隙間なく、すべて久暉のためにある。
「久暉様の未来を私の命で繋げるのなら、それほど光栄なことはありません。たとえその未来を私がこの目で確認できずとも、それでも。きっと久暉様ならば、叶えるはずです」
「そんな選択を久暉が望んでいるとでも」
「私ごときで立ちどまるようでは、斎園の未来などありません。私が仕えた神は、そのような脆弱な存在ではない」
「彼は神じゃない。ひとりの少年だ」
「ええ。ですが私にとっては神に等しい。あなたならわかるでしょう」
 青竜は凍馬の神を知らない。だがそれが誰であろうとどうでもいい。
「凍馬さん、あなたは存外にお人好しなんですね」
 襟を掴まれたまま特に振り払うこともせず、青竜は凍馬を見あげた。凍馬は眉をひそめて青竜を睨みつける。
「なんの皮肉」
「まさか。本当にそう思っているんです。琉霞さんのためと言いつつ、結局は久暉様や私のことまで気遣っている。それは、お人好しでしょう」
 青竜が口元に笑みを浮かべると、凍馬は舌打ちをして手を離した。
「やめたやめた。もうどこへでも好きなところへ行くといいよ。何があっても、手助けなんてしてあげないからね」
「それは困ります」
「はあ? そんな都合のいいこと」
「我々を天水市街まで運んでいただきたいのです。土地勘も移動手段もありませんから」
「君はずるいな。……わかったよ。天国でも地獄でも、どこへでもお連れしますよ」
 凍馬は投げやりに手を振ると、その指で赤と青の炎を指した。
「結界、壊すよ。いいね」
「はい。お願いします」
 青竜がうなずくのを見遣って、凍馬は炎の中心部へ腕を突っ込んだ。薪の下から、青い炎のかたまりを取りだす。石のような、たまごのようなかたまりだった。青く燃えているというより、鈍く光っている。滲み出た光が冷気の煙のようにかたまりを覆っていた。
 凍馬は青いかたまりに息を吹きかけ、その上にそっと綾紐を乗せた。その一瞬で、かたまりは霧散した。やがて炎もしぼんでいき、土に吸い込まれるようにして消える。凍馬の手のひらには端の焼けた綾紐がひとつ残った。
 灯りを失った天幕は闇に包まれた。それまでの明るさがいっそう闇を深くする。息を数えていなければ、闇に呑みこまれてしまいそうだった。
 大きな猛禽が飛び立つときのような音をたてて、入口の布が上げられる。凍馬は手に残った綾紐を握りしめて、光との境界に立った。
「青竜」
「はい」
「もし神様の眼差しを一度でも感じることができたなら、人は誰だって殉教者になれるのかもしれないね」
 綾紐が、乾いた砂のように崩れて風に流されていく。
「俺はその一瞬をずっと待ってるんだ。世界の摂理に逆らいながらね」
 振り返った凍馬はいつものように朗らかに笑った。だが光の当たらない場所には拭いきれない悲しみや痛みがあるようで、青竜は眩しさに目を細めるしかできなかった。

 * * *

 見渡す限り、砂の稜線が続いていた。そのなめらかでゆるやかな曲線に、突如として幾何学模様の街があらわれる。青竜は天水市街を遠目に見て、不思議な既視感にとらわれていた。知っている、そう思った。
 凍馬を振り返ると、彼は空を見あげて何かを待っていた。声をかけようとしたが、あまりにも真剣な横顔に憚られた。
 となりを、久暉が通りすぎていった。青竜はその背中を目で追った。強い風にシャツも髪も乱されて、華奢な体はいまにも吹き飛ばされそうだ。
「久暉様」
 呼びかけは風にのまれて届かない。青竜は執拗に呼びかけようとはしなかった。届かないなら、届かないでいい。見えない繋がりは、できれば少ないほうがいい。
 凍馬がすぐ横に並んで告げた。
「お待たせ。お迎えがきてくれるみたいだ。もう一度移動するよ」
「わかりました」
 青竜は久暉へ向かって歩き出した。縮まっていく距離に、ふと昂る。どの瞬間も、誇らしかった。
「久暉様、行きますよ」
 肩を掴んで引き寄せる。久暉は青竜を見あげて、ああと低く答えた。決して表情が豊かなほうではない。けれど青竜には久暉の喜びが手に取るようにわかった。
 青竜は久暉に続いて凍馬の元へ戻った。
 一瞬の移動のあと、目をひらくと鉄製の門が飛び込んできた。それを見て、そうか、と青竜は心の中で手を打った。
 この街並みは、祖国の竜樹とよく似ているのだ。
 門の向こうには、遠く、城の尖塔らしきものが見える。その様式もほとんど同じものだった。不意に込み上げた懐かしさに、青竜はひとり苦笑した。
「あ、きたきた」
 凍馬の声に顔をあげると、門の内側には由稀と紅の姿があった。真っ赤な乗り物から降りて、由稀が駆け寄ってくる。
「鍵、借りてきた」
「さすが、宮さま御一行は違うね」
「ていうか、凍馬さん。こっちに入ってくることくらい、なんてことないんでしょ。面倒だからそうしてくれれば良かったのに」
 錆のせいか、差し込んだ鍵がなかなか回らない。由稀は色々と角度を変えて試してみるが、一向にひらく気配がない。
「ごめんね。でも正攻法がいいかと思ったんだよ」
 凍馬の人差し指が掠めるように錠前に触れた。その瞬間に鍵が嘘のようにするりと回った。
 由稀は凍馬を軽く睨みつけた。
「ありがとうございます」
「いいえ」
 凍馬はにこやかに笑って、邪魔にならないよう数歩下がった。
 調弦の狂った珪月のように不協和音を響かせて門がひらく。由稀は俯きがちに外へ出てきた。
 アミティスでの別れから、はじめて会う。あのときに比べて、ずいぶん背が伸びて印象が変わった。久暉の影響を受けなくなった由稀は、彼の母親によく似ていた。優しげな目元と人懐っこい口元は、そのものだった。ふと、彼女らのことを知っているのは、この世にもう自分しかいないと気付く。
「よく似ておいでですね、お母様に」
 思わず、言葉が口をついて出た。
「そう、なのか」
 突然話しかけられ由稀は戸惑っていたが、それを隠すように笑った。その笑い皺も、そっくりだ。
「はい。とても」
「そっか。青竜と会うのはあのとき以来だもんな。この顔にはだいぶ慣れてきたよ。ありがとう」
「ご迷惑をおかけしました」
 青竜は深く頭をさげた。
「いや、もういいよ。でも話は聞かせてほしいんだ。どんな事情があったのか。それさえ教えてくれたら、もうこのことは終わらせよう。どこかで区切らないと、進めないだろ。だから、顔あげてくれ」
 肩を掴まれて、顔をあげさせられる。笑顔で念押しをされて、青竜ははいと答えるしかなかった。
「久暉、お前からも聞きたいことが山ほどある」
「そうだな。俺もお前ともっと話がしたい」
「ありがとう。よし、じゃあ二人の下宿先へ行こう」
 由稀が背を向けて歩き出し、久暉がそれに続いた。
 青竜は凍馬を振り返って、小さくうなずいた。凍馬もまた確認のうなずきを返し、煙のようにゆらりと消えた。
 砂と雲との境目に、青竜は青い炎の残像を見た。