THE FATES

9.灯火(12)

 窓を開けると、肉が腐ったような臭いが流れ込んでくる。鉱石燃料を作るときの臭いだった。加依は寝台から体を起こして、窓に手を伸ばした。しかし加依の指先が窓に触れるよりはやく、横から女の手が窓を閉じた。
「言ってくれればいいのに」
「ありがとう、乃重(のえ)
 肩を押されて、ふたたび枕に頭を沈める。乃重は息が触れ合うほど近くまで顔を寄せて、加依の目を覗きこんだ。地毒の中毒症状は、目を見ればわかる。加依は耳に触れる乃重の髪をくすぐったく思いながら、そっと口をひらいた。
「そんなに気を使わないでいいですよ、自業自得ですから」
「でも私がいなければ、あんなに長居することもなかったでしょう」
「それは否定できませんが、それを選んだのも、俺自身です。そろそろ聞きわけてください」
「加依が許してくれることと、私が気負うことは別ものだもの」
「頑固な人ですね」
 鼻先が触れあって、ぬくもりが行き交う。加依は中毒でたびたび襲ってくる目眩に目を細めた。
「しかも、本人を前にして、気負うって……。それで本当に、気負ってるんですか」
 何か掴めるものが欲しくなって、加依は乃重の手首を掴んだ。乃重は涼しく見おろすだけで、抵抗しない。
「乃重、あなたは不思議な人ですね」
「そうかしら」
「はい、とて……も」
 強い恐怖が嵐のように、加依の扉をたたく。加依はいけないと思いながら、乃重の手首をさらにきつく掴んだ。
「すみ、ません、俺――」
「加依」
 乃重はもう片方の手で加依の口元に人差し指を立て、しぃっと言った。額を寄せて、重ねる。朦朧とする意識のなかで、冷たい彼女の肌だけがはっきりと感じられた。
 断崖のほこらで倒れてから、すでに三日が経っていた。加依の中毒症状は、乃重の対処が早かったこともあって軽症で済んだが、それでもいまだひとりで立ち上がることすらできない。
 部屋にしみついていた鉱石燃料の臭いが、乃重の香りで掻き消されていく。甘い蜜のような香りに、加依の目眩も和らいでいく。眠気に似た心地よさが精神のこわばりを解き、加依は胸の奥から息を吐き出した。
 唇に押しつけた指を挟んで、乃重は加依に口づけた。軽い挨拶のような口づけに、加依は物足りなさを感じて苦笑した。
「勝手だな」
「わたしのこと?」
「さあ、どうだろう」
 手首を掴んでいた力をゆるめて、詫びるように手を握りなおした。互いの距離が近すぎて、両目で見つめることができない。囁きが充分な声になる。吐息を共有できる。加依には人を好きになる気持ちがわからないが、乃重に対して抱いている気持ちは人から見ればきっと「好き」の一言にまとめられてしまうのだろうと思う。
 乃重と一緒にいると、心地よかった。何も偽らなくても、何も飾らなくてもいい。そのままの加依でいさせてくれる。乃重の前ではありのままの自分に嫌悪することもなかった。
 唇に触れていた指をそっと押しのけ、どちらからともなく唇を噛みあった。やがて深く重ねあわせて舌先で抱きしめる。加依は昂りとも目眩ともわからない、その境目を漂った。
 廊下から足音がして、乃重は体を離した。まっすぐこの部屋へ向かっている。加依は弾んだ足音に聞き覚えがあった。
 ノックもなく扉がひらき、薄紅色の花束が隙間から差し出された。腕には那伎(なぎ)がいつも嵌めている飾りが見えた。
「だーれだ」
 扉の裏から鼻声の那伎が言った。鼻をつまんでいるのだろう。加依は聞こえるように大きくため息をついて答えた。
「那伎」
「あったりー! なんで、なんでわかるん?」
 動物の子どものように飛び跳ねて、那伎は扉の陰から姿を出した。
「すぐわかるよ」
「やっぱり、あにさんはすごいなあ。お父さんなんか、お母さんと間違え――」
 上機嫌で部屋へ入ってきた那伎だったが、乃重の存在に気づいて足をとめた。大きく見開いた目で睨みつけ、加依と乃重のあいだに割ってはいる。
「なんなん、あんた。なんでこんなとこにおるん」
呂灯(ろび)先生が帰ってこられるまで、こちらでお世話に」
「あんた、わかってるんか。あんたのせいであにさんはこないな中毒になったんやで!」
 那伎は今にも乃重に掴みかかりそうだった。乃重はどこまでも冷静にうなずいた。
「わかってる。だからせめて看病を」
「そんなんしていらんわ。こっから出てってえな。はよ、はよぉ!」
 那伎は乃重の腕を掴んで、扉のほうへと引っ張った。乃重には那伎に抗するつもりはなかっただろうが、引っ張られれば反射的に留まろうとしてしまう。乃重がいくら華奢でも、幼い那伎にかなうはずがない。
 抵抗されると、いっそう那伎はむきになった。顔を真っ赤にして、歯を食いしばる。両手で引っ張られると、さすがの乃重も一歩踏み出さざるをえなかった。
 加依は乃重の戸惑いを見て、体を起こした。
「那伎」
 体調が万全でないせいか、自然と声が低くなった。那伎は普段との違いをすぐに嗅ぎとって力を緩めたが、乃重を解放しようとはしなかった。花束の陰で俯き、加依の目から逃れている。
 加依はもう一度強く那伎と呼んだ。
「その手を離すんだ」
「なんでなん、なんで……」
「いいから離せ」
 自分のものとは思えない低い声に、加依は自らの怒りを知った。
 那伎は乱暴に乃重の手を離し、加依のそばへ寄った。
「なんでこんな人のことかばうんな。なんでやの」
「彼女だって完全に中毒症状が治ったわけじゃない。そんな人を追い出すことはできないだろう。先生の帰りを待って、診てもらって、それから俗界まできちんと送ってあげるべきだ。そんなこともわからないのか」
「せやかて、こん人はあにさんにひどいことしたんやで!」
 目に涙をためて、那伎は乃重を指差した。
「那伎!」
「わかっとるん? こん人のせいであにさんは今こないして寝てなあかんねんで。せやのになんで、なんでこんな人の看病受けるんな。どっか物置にでも縛りつけといたらええねん、こんな……、こんな化けも――」
 那伎の言葉は最後まで続かなかった。かわりに頬を打つ音が響いて、那伎の瞳から大粒の涙がひとつ、どこを伝うこともなく床に落ちた。
 そばにあった椅子の背に掴まり立ちながら、加依は那伎の頬を打った。怒りのせいで力加減ができなかった。那伎のやわらかな頬はみるみる赤く腫れていった。
「あにさん……」
「謝れ」
「え……」
「乃重に謝るんだ、那伎」
「なんで、うちが」
「お前は言っていいことと悪いことの区別もつかないのか」
 立って話していると息が切れた。それが症状のせいか怒りのせいかわからない。ただずっと、頭の奥が甲高く鳴っていた。感情が熱く沸き立ちそうなのに、体が芯から凍えていく。まるで、他人の怒りを内側から眺めているようだった。
 那伎はぽろぽろと落ちる涙を拭うことなく、見開いた目でじっと加依を見つめていた。
「なんで、いつもうちばっかり……」
 打たれた頬をそっと押さえて、その熱さに爪を立てる。那伎は激情に顔を歪めた。
「羅依にもそん人にも優しいのに、なんでうちにはいつも、……いつもっ! もう、嫌や。最低やわ!」
 持っていた花束で殴りかかり、那伎は加依を寝台へ押し倒した。馬乗りになって加依の顔に花を叩きつけ、那伎は泣き喚いた。加依は腕で顔をかばいながら、那伎を見上げる。舞い踊る花びらに包まれて、感情に押し流されるまま叫びをあげる那伎の姿は、もはや少女ではなかった。ひとりの女だった。死んでいく少女とともに、自分への憧れも消えてくれることを加依は願った。
 すっかり壊れてしまった花束を手にしたまま、那伎は突然動きをとめた。腕をたどって見上げると、乃重が那伎の手を掴んでいた。
「この花の棘には毒があるから、やめたほうがいい」
「そんなん、知らん。毒やゆうんやったら、このまま死んだらええねん」
 那伎は乃重の手を振り払って、崩れた花束を投げ捨てた。
「あにさんなんか、どっか行ってしもたらええねん!」
 足をもつれさせながら走り出し、那伎は部屋から出て行った。
 寝台は花粉が散って黄色く染まり、傷ついた花びらが生き物のにおいを放っていた。