THE FATES

9.灯火(13)

 ようやくひとりで歩けるようになったのは、それから五日後のことだった。加依は久しぶりに靴紐をしめて、踵を鳴らした。革のかたさに、膨張していた心が引き締まる。
 指先にはまだうっすらと地毒の色が残っている。灰を撫でたように淡く、陽にかざすと星より小さな輝きがあらわれた。乃重の話によると、あと数日もすればすっかり消えるということだった。それはそれで寂しい気がして、加依はそっと指を握りこんだ。
 髪を束ねて部屋を出る。すれ違った下男に乃重の居場所を尋ね、加依は中庭へ向かった。
 胸の高さまである廊下の壁には、朱と青の絵の具で魔界の景色が描かれていた。濃い灰色の壁によく映えていたが、乾燥しやすいせいで色が薄れ、表面が剥がれはじめていた。加依がいない間にここを訪れた絵師の男が、泊めてもらった礼に描いていったという。繊細だが、奥行きのある大らかな絵だ。父の趣味には思えなかったが、母ならきっと喜ぶだろう。
 加依は一瞬立ちどまろうとしたが、思い直して歩き続ける。
 母はこの絵を知らない。果たして見られる日が来るのか、それすら加依にはわからない。もし地毒の剣を父に渡せば、母を解放してくれるだろうか。利用されるのだとしても、母は自由になれるのだろうか。暑さのせいか、病み上がりのせいか、加依の思考は午後の日差しにまどろんだ。
 前線からの連絡は滞りなく届いていた。戦況に問題はなく、またひとつ部族を制圧したとのことだった。加依が割り振ってきた兵士の交代も、無事に終わったらしい。加依は仕事を無事こなせたことに胸を撫で下ろした。だが気掛かりなことがまだ二つある。
 ひとつは、不破のことだった。なぜ不破は魔族だと嘘をついていたのか。その理由がまだ見つからない。
 自分が関わることではないのかもしれない。だが魔族であることを嫌ってきた加依には、不破の理由がひどく気になったのだ。できれば本人から聞きたかった。
 彼はもう、魔界にはいない。ならば加依もこれ以上魔界にいるつもりはない。そもそもは不破を迎えに来たのだ。父への挨拶もした。長居は無用だ。俗界へ戻ろう。加依はそう決めた。
 壁が途切れ、中庭への道がひらける。熱気に蒸れた花のにおいが、風に絡みついて運ばれてくる。息ができなくなって、胸がむかついた。加依は目をすがめて中庭を見渡し、花壇のなかに乃重の姿を見つけた。しゃがみこんで、土いじりをしているようだった。加依のもうひとつの気掛かりは、彼女のことだった。
 乃重の艶やかな黒髪は光に濡れて、風に乱されても美しさが損なわれることはなかった。うしろの大きくひらいた魔族独特の衣装が、彼女のなめらかな背中を誇らしげに彩る。骨の凹凸や張りつめた肌が、ひどくなまめかしく映った。
 後ろから覗き込むと、芽が出た花の苗を植えているところだった。暗くなった手元に気づいて、乃重が顔をあげた。
「もういいの?」
「ご覧の通り、もう歩けるみたいです」
「そう。よかった」
 ほのかにかいた汗が、蒸れた花のなかで香る。花より甘い香りに、加依は目を細めた。
「あなたのおかげです。ありがとうございました」
「あの女の子の言ったとおり。私のせいだから」
「それは何度も違うと……。まだ気負ってるんですか」
「どうかしら。私はただ、加依のそばにいたいだけなのかもしれない」
 さらりと微笑んで、乃重はふたたび手元の苗に視線を戻した。加依は返す言葉なく、目を丸くした。
 乃重の花の扱いは丁寧で、手際も悪くなかった。手で土を掘り、苗を両手でそっと持ち、小さな声で歌を聞かせながら土をかぶせた。
「大地だけでなく、花の声も聞こえるんですか」
「まさか。私が歌いたいから歌っているの」
 乃重は肩越しに加依を見あげた。花よりずっとあでやかな微笑みを浮かべて言葉を重ねる。
「かわいいひと」
「俺も一応男ですから、それは褒め言葉にはなりませんよ」
「大人ぶってるけど、ずっと幼い人ね。でも、そこがかわいい。私、加依のこと好きだわ」
「何を……」
「おかしな女だと思ってる」
「いえ、別に」
「いいの。だって当たってる。でもね、ひとつ言わせて」
 ゆらりと立ち上がり、乃重はすぐそばから加依を見あげた。
「あなたは私を好きになる」
 必ずと付け足して、乃重は加依の肩に額を寄せた。
「私、わかるもの。加依の――」
 そこまで言って乃重は口を閉ざした。風にあおられた彼女の黒髪が、加依の頬を撫でる。
「俺の、何ですか」
「ないしょ。いつか機会があったら話してあげる」
「ずるいな……」
 加依は乃重の肩を掴んで、一瞬のためらいののち体を離した。
「俺は俗界へ戻ります」
「先生を待たないの」
「はい。急ぎますから」
「そう。だったら私も待たない」
「え」
「待たない。先生より、加依といたい」
「ちょ、ちょっと待って。呂灯先生はあなたの様子を見るために、わざわざ来られるんですよ」
 両肩を掴んだまま視線の高さをあわせ、加依は続けた。
「それなのにあなたがここにいなければ、先生は何のために戦地を離れるんですか。そのあいだに重傷者が出る可能性だってあるんです。無駄足だけじゃ済まなくなる。せめてあなたは先生の診察を受けてください。それが今のあなたに課せられた役割です」
「先生はもう来る?」
「いえ……、先日の連絡では、先生は明後日の朝に発たれると」
「連絡を届けてくれる人は?」
「この陽の高さでしたら、まだ街に残っているかと……」
「いつ届くの?」
「明日の、夜には」
「なにか問題が?」
 乃重は歪みのない闇色の瞳をやわらかく細めた。じっと見つめていると、暑さも乾きも痛みも忘れて、彼女の奥へ吸い込まれそうになる。
 加依は眉を寄せて笑った。
「ありません」
 答えを受けて、乃重もまた満足げに微笑んだ。
 彼女は闇がほしいという。自らの闇と拮抗するような深い闇を求めている。だが加依の目に映る乃重は眩しい。闇のただなかにありながら、翳ることない輝きをまとっている。
 乃重が加依の頬に、土がついたままの指で触れた。火照った肌に湿った土と指の冷たさがしみる。
 加依はその手を握って、中庭をあとにした。
 出立は夜。空から垂れこめた闇のなか、漆黒の翼をはばたかせる。加依は腕に乃重を抱え、遥か遠くに霞むアシリカの光を目指した。

 屋敷の玄関先で加依の不在を聞いた那伎は、話の途中で部屋へ向かって走り出した。
「あにさん!」
 不躾に扉をあけ、部屋に飛び込む。毛布をはぎ、棚をすべてあけ、椅子までひっくり返したが、やはり加依の姿はない。那伎はその場にぺたりと座り込んだ。
「またや……、またなんも言わんと行ってしもたんか」
 見舞いのおり、どこかへ行ってしまえばいいとたしかに言った。だがそれが本心でないことを、加依は知っていると信じていた。
 後悔と寂しさが一気に胸へ流れこむ。抱えきれない痛みが、涙となって溢れ出た。那伎は声をあげて泣いた。
「あにさん、帰ってきてえな……」
 寝台に突っ伏して、か細く加依を呼ぶ。抱き寄せた毛布は加依のにおいがした。あまりの切なさに顔をあげると、枕元に女物の服が置かれているのに気づいた。乃重が着ていたものだ。
 那伎は服を掴み取って、壁に投げつけた。この女だ。この女が加依をそそのかしたのだ。
 床に落ちた服を睨みつけて、那伎は立ち上がった。
 加依が羅依に優しくすることは、仕方がないと思った。ふたりきりの兄妹だ。那伎がずっと妹のような存在だったとはいえ、本物の妹にはかなわない。だが乃重は別だ。加依との付き合いも、血の繋がりも、那伎のほうが長く濃い。つい最近知り合ったばかりの他人に、加依を取られることだけは許せなかった。
 那伎にとって加依は、兄であり、恋人であり、永遠の憧れだ。彼のそばにいてこそ、那伎の毎日は満たされる。
 奪われるわけにはいかない。
 加依を取り戻せるなら、那伎はどんな手段をとることも厭わない。よろこんで罪を犯すだろう。
 那伎は濡れた頬を拭って、部屋をあとにした。