THE FATES

9.灯火(14)

 くすんだ麦色の壁に、夕陽が差して真っ赤に染まる。手燭の灯りが、風もないのに小さく震えた。不破は熱がないまま焼かれていくような目眩を覚えた。その一瞬の戸惑いをついて、弓菜の手から大きな鏡がすべり落ちる。鏡が割れる野太い音に、不破は我に返った。
「弓菜」
 彼女の足元にしゃがみ込み、割れた鏡を拾い集める。白い足首には、うっすらと血が浮いていた。不破は長椅子に座る弓菜を見上げた。彼女は震える手で絵筆を握り、何もない宙の一点を見つめていた。
「弓菜……」
 鏡の破片を遠ざけ、不破は弓菜の手に手を重ねた。そっと力をこめると、上から熱い涙が落ちてきた。
 里村の投影をすると決めた弓菜は、彼が肌身離さず持っていた絵筆と、施設へ運びこまれた際に着ていた服を、投影対象として宿の自室へ持ち込んだ。里村自身を投影すれば得られる情報は多いが、いまだ昏睡状態の彼を刺激することは憚られた。
 投影はうまくいった。物から過去を投影するのは難しいとされているが、弓菜には能力的な余裕がまだ感じられた。不破はあらためて弓菜の投影師としての能力の高さに感心した。
 だが弓菜は投影の手をとめた。鏡に映し出された過去を一緒に見ていた不破も、それを責めはしなかった。
 絵師里村に怪我を負わせたのは、二人がよく知る人物だった。
「鬼使め……」
 不破はたまらず呟いた。手の中に包み込んだ弓菜の指先が震えた。
 里村の片腕がない理由もわかった。彼の腕を獣族化させた禁忌の刺青については謎が残るが、その力の大きさに里村の体が耐え切れなかったのだろう。腕は自ら溶け落ちたのだった。ただ、里村をそのような狂気に追い込んだのもまた鬼使だ。すべては鬼使の、瞬の罪だ。
 投影をすることで里村の罪を暴いてしまう覚悟はしていた。だがまさか、よく知る人物に彼が傷つけられているとは思いもしなかった。そして不破にとっては、予想以上のいい条件が揃った。
 不破は両手で弓菜の手を握った。意志の強い、はっきりとした目元から、うらはらな涙が溢れる。強くて弱い女だ。
「ねえ、不破」
「なんや」
「私、どうしたらいいの」
 顔を歪ませ、弓菜は体を折った。不破の手を胸に抱き、声をもらして泣く。ゆるく巻かれた髪が肩から落ちて、不破の腕を撫でた。やわらかい。不破は弓菜の胸元から片手を引き抜いて、彼女を抱きしめた。
「どないしたらええかなんて、誰にもわからへん。大事なんは弓菜、お前がどうしたいかやろ」
「私が……」
「せや」
 弓菜の首筋に鼻先をうずめて、不破はうなずいた。
「お前は里村のためになりたいんやろ。ほんなら、里村が何を望んでるか、それに対して自分はどうしたいかを考えてみいな」
「里村は、きっと……」
 言葉にすることを怖れて、弓菜は口を閉ざす。不破は弓菜の背中を撫でて耳元で囁いた。
「鬼使に復讐したいやろ」
 息を詰めて、弓菜は不破を見つめ返した。
「そないに怖い顔しなや。美人が台無しや」
「怖いのは不破よ。そんな、復讐なんて……」
「よう知っとる相手やからか」
「そうよ。私知ってる、彼の優しさを。彼の悲しみだってこの目で見た。茜さんを喪った彼は、吹けば消えてしまいそうだった。そんな人に、復――」
「ちゃうやろ」
「え」
 あっさりと否定され、弓菜は声をこぼした。不破は手を離さないままで、弓菜の隣に体を寄せて座った。
「あいつが鬼使やから、復讐なんて無理やと思ってるんやろ」
 不破の追及に弓菜は否と言わなかった。俯いて黙り込んだだけだった。不破は手を強く握った。
「無理なんてない。俺がどうにかしたる」
「何言って……」
「手始めにまずは俺がアシリカの王、いや、俗界の王になる」
「こんなときに冗談なんて」
「俺はお前のため、鬼使に抗しうる戦力を用意しよう。里村への治療も、今よりずっと高い技術を提供する」
「い、痛い。離して不破」
「だから弓菜、お前は俺が正統であることを世に知らしめる、そのための投影をしてくれ」
「不破――」
 続く弓菜の言葉は、吐息にのまれた。口づけが思考を阻んだ。
 不破は弓菜の唇に吸いついて、薄く目を開ける。驚いた弓菜は目を瞠って、すぐ近くに不破を見つめていた。不破は彼女の瞼にそっと指を置いて、閉じるように優しく促した。
 弓菜の唇は彼女の情の深さを表すように、厚くやわらかい。不破はひかれた紅を舐め取って、唇を離した。
「憎悪は罪じゃない。力だ」
 鼻先の触れ合う距離で、吐息が言葉を伝える。
「俺はお前の憎悪を否定しない。吐き出せ、弓菜。お前の憎しみ、悔しさ、悲しみ、痛み。全部俺が守ってやる」
 弓菜の頬を両手で包みこみ、額をあわせる。親指の腹で涙をふいてやると、さらに涙がこぼれた。
「許せない……、瞬が許せない」
「うん、せやな」
「だって、里村はとても大切な人なの。私にとって、かけがえのない人なの。それなのに、それなのに……!」
 憎しみを持て余した弓菜は、不破の首に手を回して抱きついた。不破は髪を撫で、優しく抱いた。
「ええ子や」
 髪に、耳に、首に唇を落とし、不破は弓菜の体を長椅子の上に押し倒した。服の釦をひとつずつゆっくりと外し、あらわになった肌に指と舌で触れる。白い肌は卓の上で燃えている灯火を受けて赤く濡れていた。
 互いの舌を寄せ合って、小さく名を呼ぶ。服を着ていてもわかるほど艶かしい体は、裸になると思いのほか恥じらいに震えており、不破は彼女の愛らしさに微笑んだ。
 気がつくと陽はすでに沈み、部屋は群青に染まりつつあった。不破は卓上の手燭に息を吹きかけて、ただひとつの灯火を消した。

9章:灯火・終