THE FATES

10.絶景(1)

 抱えていた荷物を置いて、紅はそっと扉をあけた。隙間から部屋を覗き、寝台で眠る久暉を見つける。後ろから覗き込んでくる由稀に向かって、しいっと指を立てた。
「うっかり起こして青竜に睨まれるのはごめんだから」
「久暉に悪いとか一応言えよ」
 由稀は紅の肩を小突いて苦笑した。
 紅はふたたび荷物を抱えて、そろりそろりと部屋に踏み入る。部屋の窓は大きくひらき、道向かいの建物のバルコニーが見えた。干された洗濯物が、風に揺らいで踊る。大きい順に吊られた服を見て、紅は小さく笑った。
 部屋はそれほど広くない。ここは梅詩亭の三階にあたる、梅煉の家の一室だった。建物は四階建てで、地下が梅詩亭、一階が居間、二階が梅煉と詩桜の部屋、四階が納戸になっている。そしていま、三階には久暉と青竜が間借りをしていた。彼らの事情を聞いた梅煉は、納戸の片付けをしてくれるならという条件付きで、二人の同居を許したのだ。たしかに荷物は散乱していたが、その条件はあきらかに梅煉の気遣いだった。
 そして今日からさらに居候が増える。
 紅は運び込んだ箱を壁際の机に置いて、汗ばんだ額を袖で拭った。箱には機関を構築するための機材が入っていた。すべてスウィッグ整備士の(まこと)から譲ってもらったものだ。
 すでに置かれた箱を押しやるようにしながら、由稀もまた持っていた箱を机に置いた。
「これで全部だっけ」
 小声での問いかけに紅は頷いた。
「ああ、助かった」
「いいよ、このくらい」
「今から店の手伝いか」
「いや、青竜のほう手伝ってくるよ」
「片付けか」
「……ああ、うん。世間話でもしてくる」
 由稀は歯切れ悪く、それでも微笑んだ。紅は馬鹿だなと言いかけたのを飲みこんで、顔をそらした。
「帰るときは寄れよ。俺も帰るから」
「わかった。じゃあ、またあとで」
 手を上げて由稀は部屋を出ていく。紅は箱から機材を取り出して、工具を使って組み立てはじめた。譲ってもらった機材はどれも型が古いものだが、何十年も天水を離れていた紅には、こちらのほうがありがたかった。多少、買い足さねばならない部品はあるだろうが、今日中には構築して機関に接続させるつもりでいた。
『だから俺は俺のために、せめて天水の時間だけは取り戻す』
 瞬に向かって放った言葉を思い出すと、紅はあまりの恥ずかしさにため息が出た。机の端に額を押しつけて、肩を落とす。何度も何度も、火照った吐息がこぼれ落ちた。
 もう二度とあんなことは言いたくない。もう二度とあの男に頭なんて下げたくない。そのためには早く結果を出さなければならない。紅は大きく息を吸いこんで、顔をあげた。
 ひとつひとつの機材を部品で繋げていると、体の中も頭の中もみるみるうちに空っぽになっていった。不揃いな機材は、簡単に組み立てられない。工具で端を落としたり、窪みを広げたりしながら作業を続けて没頭する。機械いじりは子どもの頃から大好きだった。何もかも忘れられる。自分であることも忘れられる。そんなふうになれるのは、機械を作っているときだけだった。
 ふと、手元が暗くなったことに気づいて、紅は背後を振り仰ぐ。すぐ後ろに、空色の瞳があった。
「それはなんだ、紅」
 久暉は眠たげな様子も見せず、興味深げに紅の手元を見つめていた。
「悪い、起こしたか」
 紅は持っていた部品を機材に嵌めこんで、蓋をした。
「これは、そうだな、どうやって説明したらいいかわかんねえけど、まあ使える代物だよ」
「たとえばどう使うのだ」
「完成したら見せてやるよ」
「そうか」
 久暉は残念そうに呟くと、寝台へ戻って腰をおろした。水差しの水を飲み干して、窓から空を見あげているようだった。
 紅は机に頬杖をついて久暉を見つめ、口をひらいた。
「懐かしいな、お前見てると」
「何がだ」
「出会ったころの由稀が」
 紅に他意はなかったが、久暉はすっかり押し黙ってしまった。紅は慌てて手を振った。
「や、別にお前を責めてるとか、そういうことじゃねえよ」
「かまわない。思っているところは話してくれたほうが、こちらとしてもやりやすい。お前はそんな気遣いをする男ではないだろう」
 久暉はやわらかく眉を歪めて笑った。紅は鼻で笑い飛ばした。
「心配した俺がばかみてえ」
「そう言うな。ちゃんと傷ついている」
「なんだ、それ」
 紅は肩を揺らして笑い、机の上の機械へ向き直って続けた。
「だけど、お前のこと責めてないってのは、本当だからな。むしろお前は被害者だろ、青竜の」
「あれはあれなりに考えてくれた。その結果だ。慶栖への責めはつまり俺への責めだ」
「はあ。それが主人と従者ってことか。わかんないな」
 わからない、その一言をもう一度心のうちで繰り返して、紅は吐息をこぼすように微笑んだ。理解できないことを素直に受け入れられる自分に呆れながら、それすらも受け入れている自分がいた。漣の空を取り戻すと瞬に宣言した日から、紅の世界はひとつ霞が消えたようだった。
「なあ久暉、体調でつらいことがあったら相談に乗るから」
「紅は医学に明るいのか」
「そういう勉強、してたからな」
「それは助かる。また世話になることもあると思う。そのときは頼んだ」
「ああ、声かけてくれよ」
 つるりとした画面についた汚れを拭き取り、紅は肩越しに久暉を振り返った。彼は天水の空に自分の色を探すように、じっと空を見つめていた。言葉は少ないが、久暉の沈黙は息苦しさを感じさせなかった。紅にはちょうどいい静けさだった。
 機材を組み立て終えた紅は、腰に下げた鞄から煙草ほどの大きさの水晶を取り出した。ここには瞬の部屋にある機関の情報が入っていた。それを構築したばかりの機関に嵌めこむ。少しでもずれると水晶が使い物にならなくなる。作業は慎重を要した。
 そこへ、突然部屋の扉がひらかれた。
「ねえ久暉、起きてる?」
「うわっ」
 紅は爪の先でつまんでいた水晶を取り落としそうになり、声をあげた。椅子から転げ落ち、上から降ってくる工具にも構わず、水晶だけは床で砕ける前に両手で受けとめた。紅は部屋へ入ってきた少女を睨みつけた。
「なんでお前、突然入ってくんの」
「い、いいじゃない」
 あまりに険悪な紅に怯えながら、それでも詩桜は素直に謝ることはしなかった。
「お前さ、あんまり強情だと、さすがの由稀にも愛想尽かされるよ」
「紅には関係ないでしょ。ていうか、なんで由稀の名前」
「え、なに。付き合ってんじゃないの、お前ら」
「はあ? 誰がそんなこと言ったの、何よそれ、知らない!」
 大声で否定しつつも、詩桜は耳まで真っ赤になっていた。紅はからかう気も失せて、軽く手を振った。
「今とおんなじ台詞を由稀の前でも言えたら、お前の言うこと信じてやるよ」
「なんで紅に信じてもらわなきゃならないの。関係ないし」
「ないことないだろ」
「どうして」
 腰に手を当てた詩桜に見おろされ、紅は視線を逸らした。
「あいつは俺の友達だし」
「それってつまり、ただの嫉妬?」
「違うよ。あいつが本当にそれでいいなら、いいって思ってる。でもあいつは優しいから、なんでも受け入れるから、ただそれが心配なだけだよ」
「私が由稀に甘えてるって言いたいの」
 苛立つ詩桜の問いに、紅は沈黙を返した。視界の隅で、詩桜の白い手がかたく握りしめられた。また殴られるのかと、紅は半ば諦めながら奥歯を噛みあわせた。
 ほんの一瞬、詩桜の呼吸が途切れる。紅は目をつむった。
「詩桜」
 矢のように、久暉の中性的な声が飛んだ。荒々しいところのない、静かな声だった。
「それから紅も。そのくらいでやめたほうがいい」
 叱りつけるでもなく、あやすでもない。だが淡々とした言葉のうちに、従わざるをえない絶対的な力が感じられた。恐怖ではない、むしろこれは畏敬に近い。紅は背中に冷たい汗を感じて、我に返った。
 床に落ちていた部品を拾い、紅はため息をもらす。
「あーあ。欠けてるし」
「う……、ごめん」
 詩桜は小さな体をさらに小さくして口篭もった。紅は不本意ながら罪悪感を覚える。
「まあ、ほんとにお前のこと好きなのかもしれないし。俺あいつのことは友達だと思ってるけど、あいつのツボとかまったく理解できてないからさ」
 声音を明るくしても、詩桜が顔をあげる気配はない。紅は長く息を吐き出して、詩桜の肩に手を置いた。
「これで、おあいこな」
「おあいこって?」
 ようやく詩桜が顔をあげた。紅は手を離して椅子にかけた。
「雨の日の、さ」
「あ、でも、こないだのことは……」
「もういいよ。おあいこって言っただろ」
「ううん。ちゃんと謝らせて。本当にごめんなさい」
 詩桜は勢いよく頭をさげ、もう一度ごめんなさいと繰り返した。紅はあまりの事態に思わず仰け反って、それからしばらく頭を抱えた。
「あのー、気持ち悪いんだけど」
「失礼ね! 人がせっかく頭下げてるんだから、ありがたく聞きなさいよ!」
「なんでいつもそんなに突っかかってくるんだよ、めんどくせえな」
「紅がいけないんでしょ、いつだって一言も二言も多――」
 そこまで口にして、詩桜はふと窓へ目をやった。つられて紅もそちらへ視線を向ける。
「は?」
 窓のすぐ下にある寝台で、さきほどまで起きていたはずの久暉が眠っていた。紅は詩桜と目を見あわせて、くすくすと笑った。
「ったく、こんなうるさいのによく寝るよ」
「ねえ、昔は由稀も久暉みたいな髪色だったんだよね」
「そうだな。目の色もな」
「きれいな色」
「だな」
「でも私、いまの由稀の色が好き。由稀らしい気がする」
「それはまあ、それしか見てないわけだし」
「そうじゃない。そうじゃなくて、もし両方知ってても、私は今の由稀がいいと思うの」
 静かに眠る久暉を見つめながら、詩桜の視線の先にいるのは久暉ではなかった。頬がほのかに染まっているのは、決して紅の見間違いではない。
「ごちそうさま」
「やっ、そういう話じゃ……」
「はいはい。のろけも謝罪もちゃんと受けとっておくよ」
「う、うん……、ありがと」
 詩桜は綿雲のようにふわふわとした笑みを浮かべて、かすかに頷いた。
 煙草入れを開けると、空だった。紅は舌打ちをして立ち上がる。
「そういや久暉への頼みごとって? 買い出しなら、ついでに行ってやるけど」
「やった、助かる!」
「ついでに菓子買ってくるし」
「あ、それはダメ、梅煉に怒られる」
「そこをなんとかするのがお前の役目だろ」
 詩桜が持っていた紙片と金を掠めとり、紅は部屋を飛びだした。急ぎ足で階段を駆け下りると、余計なものを買ってくるなと詩桜の声が降ってきた。
 泣いたり、怒ったり、笑ったりと、詩桜はいつも騒がしく忙しい。紅にはとても真似できない。めまぐるしく移り変わる、アミティスの空のようだ。
 紅は、由稀がなぜ詩桜を好きになるのか、ほんの少しわかった気がした。