THE FATES

10.絶景(2)

 四階の納戸へ上がると、床に片膝をつく青竜の背中があった。たくさんの木箱に囲まれながら、黙々と掃除をしているようだ。由稀はふとアシリカの神殿でのことを思い出し、呼びかけようとした名前をのみこんだ。
 あれからまだ数ヶ月しか経っていないというのに、脳裏に浮かんだ景色や胸を締めつける思いは、由稀の想像以上に擦りきれて霞んでいた。
 この大きな背中を追って神殿の階段をのぼった自分は、もうとっくに過去となっている。絶対的な時間の経過がそうさせるのではない。由稀の心の距離がそうさせるのだ。
 血の繋がりに憧れていた。それが何より強い絆だと思っていた。それは正しくもあり、間違ってもいた。関係性は作りあげるもので、はじめからそこにあるものではない。
 由稀と青竜のあいだには、まだ何もない。あるのは囚われた過去だけだ。
 久暉がやろうとしていること、そしてそのために青竜がやろうとしていることは、先日話を聞くことができた。だがそうやって話してもらったのはすべて客観的な事実にすぎない。由稀が知りたいのは、青竜の思いだった。由稀の「なぜ」に答えられるのは、青竜の赤裸々な心しかないのだ。
 階段をのぼりきって、由稀は深呼吸をした。
「青竜」
「由稀さん」
 かすかに驚きを見せつつ、青竜が振り返った。偽りのない素の表情に、むしろ由稀が驚いた。
「ご、ごめん。そんなに驚かせるつもりはなかったんだけど」
「気づきませんでした。こちらこそすみません」
「いや、いいよ。それより手伝おうと思ってさ」
「紅さんのほうはいいのですか」
「ああ、俺にできることはやったし、大丈夫」
 由稀は青竜の向かい側に座りこみ、あいだにある木箱を覗き込んだ。中は二つに仕切られて、それぞれに布が納められていた。どれも大地や森を思わせる色使いの、優しい布地だった。
「詩桜さんのお母さんが染めたものだそうです」
「そうなんだ」
 箱からひとつ取り出して、由稀は布を広げた。きめ細かな生地で、淡い色合いは天水の砂漠に似ている。肌を近づけると、砂の上を走る風が感じられるようだった。
「やさしい布だな」
「ええ。正直、最初は面倒な作業だと思いましたが、この生地に触れているとそういったささくれも治っていくようです」
 青竜は口元を歪めるようにして笑って、ふたたび手を動かしはじめた。作業を見ていると、どうやら色ごとに布を分けているようだった。青竜の仕事は丁寧で、彼の几帳面さがよく見てとれた。由稀は邪魔にならないよう、未整理の箱を運んできて中を空にして拭き掃除をはじめた。
「なあ、青竜」
「はい」
「竜樹に火を放つとき、お前は迷ったか」
 由稀は青竜に背中を向けて、掃除の手をとめないまま問うた。背後で、青竜が息をのむ気配がする。由稀は重ねた。
「上っ面の答えは聞きたくない。お前の素直な気持ちを聞かせてほしい」
「迷いは、ありませんでした」
 そう答える青竜の声にも、迷いはなかった。由稀は背中を向けたまま、眉を寄せて微笑んだ。
「そっか」
「はい。ですが、痛みはありました」
 意外な言葉に振り返ると、青竜は作業の手をとめてまっすぐ由稀を見つめていた。
「あなたから多くのものを奪いました」
 澱みのない黒い眼差しだった。何ものも拒まない、何ものも求めない静けさだった。由稀は腹の底にずるりと蠢く違和感を覚えた。
 青竜は引き結んでいた唇をほどいて、小さく息をもらした。
「これだけあなたを傷つけておきながら、いまさら痛みなどと言える立場でないことはわかっています。そしてこうやって話すことも卑怯だと」
「別に、そういうわけじゃないよ」
 由稀は取り繕うように笑って、視線をそらした。青竜が言うことはもっともだが、由稀が嗅ぎとった違和感はもっと根の深いところからきている。ただそれが何ものであるのか、今の由稀には知りようがない。
「そう、ですか」
 青竜はそう言ったきりしばらく黙り込むと、突然由稀の腕を掴んだ。
「な、なに」
「もし私のことを許せないなら、許さないでください。気が済まないなら私を殺しなさい」
「なんで。俺そんなこと思って――」
「ですが、今はまだこの命を差し上げるわけにはいかないのです」
 掴まれた腕に、青竜の指が食い込む。由稀は痛みに眉を寄せながら、深淵の眼差しから目をそらすことができなかった。指先から流れ込んでくるのは、青竜の痛みなのかもしれない。
 由稀はかすかに首を振った。
「青竜、今度は何をするつもりだ」
 問いに、青竜は答えようとしない。睫毛の一本も揺らがない。
「答えてくれ、青竜。お願いだから、なんでもひとりで決めないでくれ」
「もう、聞かないでください」
「そのことを久暉は知ってるのか。どうなんだ」
 わずかに青竜の眉が震えた。それだけで由稀にはわかってしまった。
「知らないんだな」
 青竜は沈黙したが、それはもう肯定に他ならない。由稀は舌打ちをして立ち上がろうとした。
「待ってください、由稀さん……!」
 腕を掴んだまま青竜は頭を下げた。由稀は膝立ちになって青竜の手を振り払おうとしたが、縫いつけられたように離れない。
「青竜!」
「お願いします、久暉様には何も言わないでください」
「どうしてだ! どうしてお前は!」
 由稀は荒げた声をのみ込んで、ため息とともに腰をおろした。
「なあ青竜、俺はお前が何をしようとしてるのか知らない。だけどこれだけはわかる。お前がしようとしているそのことで、久暉が悲しむってことだけは……」
 木箱に手をかけると、ささくれだった棘が手のひらの皮膚をうすく裂いた。由稀はさらに強く手のひらを押しつけた。
 青竜がふと笑いをもらした。
「そんなはずはありませんよ」
「何が」
「私がこれからする行為で、久暉様が悲しむはずがありません」
「どうしてお前にそんなことが言い切れる」
「あってはいけないのです、そのようなことは。私の未来を奪った人が、そんな軟弱であるはずがない。そうでしょう、彼は誰より強い。鋼の心を持った、しなやかな鞭のような英雄です。私がたとえ死んだとしても、彼の心が揺さぶられるなど、ありえないのですよ」
 うすい唇を不気味にひらいて、青竜は笑みを浮かべた。由稀は思わず息をのんだ。
「青竜、お前は本気でそう思ってるのか……」
 掠れた声で問いかけながら、由稀はその答えを知っていた。だがどうしても青竜の口から聞きたかった。
 思っていない、と。
 青竜は掴んだままだった手をようやく離して、はっきりと首を横に振った。
「もう、とめられないのですよ、由稀さん。動きだした世界の歯車は、壊れるまで止まらないのです」
 由稀の目には青竜がひどく穏やかに映った。
「青竜……」
「もし久暉様が悲しんだとしても、私は何も案じてはいません。あなたがあの人のそばにいてくれるなら、きっと大丈夫です」
 青竜は大きな手を由稀の頭の上に乗せた。
「私はあなたに賭けたのです。まだ幼かったあなたに」
 かつての記憶を愛で、戻らない時間を懐かしむように、青竜は目を細める。由稀は深いため息をついた。
「なんでお前はいつもそう、はた迷惑なの。俺、責任取れねえよ」
「これは私の最後の我儘です。お願いします、由稀さん。久暉様には何も言わずにおいてください。私だって彼の悲しむ顔は見たくありません」
「約束できないって言ったら」
「誰にも邪魔はさせません」
「俺を、殺すか」
「はい」
「迷いなく?」
「もちろん」
 青竜の言葉に誇張はない。殺すと言ったら、必ず殺す。
「……わかった」
 殺されたくないのではない。当然、簡単に殺されるつもりもない。ただ自分の恐怖心や怯懦のせいで、青竜の願いを潰すわけにはいかなかった。彼が心に描き続けた未来を、彼にひどく振り回されたからといって、由稀に穢す権利はない。
 由稀は手のひらにうっすら浮き上がった血を舐めて、眉を下げた。
「だけど俺が約束するのは、久暉には何も言わないってことだけだから」
「え」
「そのときが来たら、俺は可能な限りお前の助けになりたい」
「由稀さん……」
 鼻筋に皺を寄せ、青竜は俯いた。
「ありがとうございます」
 さらに頭を下げて、青竜は凛とした声で告げた。くすぐったくなった由稀は、青竜の目の前に皮のむけた手のひらを差し出した。
「絆創膏、持ってたらちょうだい。布を汚すといけないから」
「えっと、絆創膏、ですか」
 青竜は顔をあげて首をかしげた。
「そう、さっき引っかけて」
「それなら先ほどあちらで見かけましたが……」
「案内してよ」
 由稀は立ち上がって、大きく伸びをした。下から由稀を見上げていた青竜が、涼しげに微笑む。
「はい。ではこちらへ」