THE FATES

10.絶景(3)

 ゆるゆると漂う灰色の雲を眺めて、凍馬は空へ向けてため息を吐いた。軋むことすら許されない空は、むしろどんな空よりも穏やかに映る。すべてを悟り、何も求めず、ただそこにある。進むことも戻ることもない。これが世界の諦めなのだろうか。
 否、と凍馬は心のうちで首を振った。
 これは凍馬自身の諦めだ。諦めの眼差しで捉えた凍馬の世界だ。
 足元へ視線を落とすと、靴の半分ほどが砂に埋もれていた。片方を引き抜けば、もう片方がさらに沈む。大きく前へ進もうとして強く足を踏み出せば、あるべき形を持たない砂の大地は、凍馬の一歩を嘲笑うようにさらさらと崩れていった。力むほどに足元がこぼれて、歩けども歩けども進まない。虚しさに立ちどまると、足はみるみる砂にのまれていく。それでも凍馬は、終わりの見えない砂の世界を歩いていた。
 ひとつふたつと砂丘を越え、凍馬は辺りを見渡した。砂の上、黄色く霞む地平線、ゆっくりと時間をかけて見てまわる。誰に頼まれたわけでもないが、凍馬は殊来鬼の女を斬り伏せた日からずっと市街周辺の巡回を行っていた。あれから二十日ほどが経つが、特に目立った異常はない。
 風のなかにときおり、目には見えない障壁を感じた。瞬が何重にも仕掛けた結界の、その境目だった。しゃぼん玉を割るようなかすかな抵抗を、体全体で受けとめ凍馬は歩く。当然、このことは瞬に知られている。しかし瞬からは何の干渉もない。黙認されているのだろう。
 瞬はあの日のことを知らない。凍馬が結界を張ったことまでは知っていても、その中で何が起こったかなど凍馬が話さない限り知ることはない。もちろん訊かれたところで話す気はなかった。
 久暉と青竜を由稀に託して、重荷とともに希望が消えた。こんな自分のままでは、瞬に会うことはできそうになかった。
 砂丘の頂上へあがると、風がいっそう強くなった。遮るもののない視線の先に、天水市街の門が見える。この辺りはちょうど、先日の事件の場所だ。直後に散乱していた荷物や車は、数日後にはすっかりなくなっていた。役人が片付けたのか盗人に奪われたのか、元から何もなかったように、あの日の名残はひとつとしてない。
 ただ、凍馬の中には消えずに続いているものがある。あの日からずっと、胸騒ぎがやまないのだ。どんなに平和な景色をこの目に焼きつけても、一向におさまる気配がない。単なる思い過ごしだと笑いながら、一方では冷たく覚悟を決めている自分がいた。
 殊来鬼(しゅらき)の女、跳芭(ちょうは)桂雷(けいらい)は何も答えなかったが、彼女らが殊来鬼である限り、その背後にいる人物は一人しかいない。凍馬はその人物を脳裏に思い浮かべて、口を歪めた。奥歯に力を込めると、砂を噛む感触が顎に響いた。
 ひときわ強い風が吹いて、体が前へ押しだされる。凍馬は砂に足をとられてよろめいた。
 その鼻先を、矢のような《気波動》が掠めた。
 凍馬はとっさに体をねじって反転した。結界を張るため印を結ぼうとするが、途切れることない《気波動》に手元が覚束ない。綾紐を身代わりにしてどうにか追尾をかわすが、いくつかは足や腕を貫いていった。
「癒合」
 傷口に指を入れて、内側から肉体を復元する。しかし術式は最後まで行えなかった。凍馬は仕方なく指を抜いて、ため息をこぼした。いつの間にか、相手の結界に取り込まれていた。さきほどの《気波動》は攻撃ではなく、結界を作り出すための支柱だったのだ。
 静けさが戻り、乱れた砂地が風の助けでならされていく。
 結界を形づくるのは、深い森のように蒸れた、噎せかえるほど濃い《気波動》だ。凍馬はこの気配に確かな心当たりがあった。
 振り返って、さきほど脳裏に思い浮かべた姿と見比べる。
「やあ、久しぶり。少しやつれたかな、結蘭(ゆいらん)
 ずっと消えなかった胸騒ぎが途切れて、凍馬はいま、深い静寂のなかにあった。不安の種が消えたのではない。不安が現実になったのだ。
 凍馬は精一杯の穏やかな笑みを作ってみせるが、気を抜くと唇が引き攣りそうだった。この結界にいるだけで、発狂しそうになる。常人なら正気ではいられないだろう。
 鉄のように頑丈な結界だ。じわりと滲む汗のように不快で、逃げ場のない濃縮された空間では、澱みが澱みを呼んだ。そこは月明かりすら差さない牢獄のようだった。息苦しさに喘いでも、吸いこんだ澱に内側から蝕まれるだけだ。
 しかし凍馬の場合、原因は他にあった。
 かつてこの結界に触れたときのことを、凍馬の魂が覚えているのだ。囚われて、無理やり膝を折らされ、魂を辱められた。そのときの屈辱と恐怖が、凍馬を内側からがんじがらめにする。これではまるで二重の結界だった。
 思い出したくない記憶が、濁流のようになって意識の上に溢れだす。見ている景色に過去が重なって、凍馬は目をつむった。けれど瞼の裏にはもっと鮮明な狂気が張りついていた。凍馬は諦めて現実を見据える。
 結蘭は凍馬の静かな喘ぎを見抜いたかのように、悦に入った笑みを浮かべた。
「あなたは変わらないわね」
「おかげさまで、変わりようがないから」
「恨み言? やめてちょうだい。あなたをそんな目に遭わせたのは私でなくて、あの男でしょう」
 結蘭は金茶色の髪を耳にかけて、冷たく言い放った。
 美しい女だった。だがその美しさは人の範疇を越えていた。人ならざる力によって作られた美しさなのだ。瞬の美しさが神の寵愛によるものなら、結蘭の美しさは悪魔が仕掛けた罠だ。
「たしかに俺は瞬の剣で死んだ。でもその舞台を用意したのは結蘭、あなただ」
「私はあなたに嘘を吹き込んだ覚えはない。あなたがずっと心に抱えていた、そうね、秘めた想いを共有してあげただけじゃない。思い悩んでいる人の背中を軽く押してあげるのは愛情よ」
「痴れ言を」
 凍馬は結蘭の言葉を鼻で笑い飛ばしながら、目には見えない檻を見遣った。
 肉体を持たない凍馬にとって、ある程度の痛みなら意識の持ちようで乗り越えられる。ところが足や腕は枷が嵌められたように重く、息をするだけで体力が削がれていくようだった。これは明らかに凍馬のために用意された結界だ。
 凍馬は痙攣する頬を必死に隠し、綾紐に指をからめた。
「瞬に失わせたかったんだろう。俺も染芙(せんふ)尋宮(ひろみや)様も、何もかも。瞬自身の手で」
 顎を伝った汗が砂に落ち、乾くより早く消える。実体をもたない凍馬の汗や血は、生きていたころの記憶と幻想だ。凍馬を離れて、長く存在することはない。
 凍馬は自分が異端の存在であることにあらためて思い至り、静かに自嘲した。
「結蘭、あなたは瞬をどうしたいの」
 綾紐にかけた指を、ぐっと拳に握りこむ。凍馬は腰を低くして身構えた。ゆらりと結蘭を見あげて、笑う。
「あなたもただの女ということ? いつまで経っても振り向いてもらえなきゃ、悶え狂ってやつれもする。そういう理解でいいかな」
「下品な話ね」
 結蘭は顔を背けたまま凍馬を睨みつけた。微笑みの欠片もない、人形のように平らな美の上に、砂嵐のように激しい憤怒が降りる。
「図星だね!」
 凍馬は綾紐をほどいて指に絡めた。拳をかためて砂に叩き込むと、結蘭に向かって砂柱が立った。
 大砲を放つような轟音が何度も響き、地面が隆起する。凍馬はその隙間に紅い綾紐を紛れ込ませた。
 あたりには砂が舞いあがり、視界がほとんど利かない。凍馬は結蘭の居場所をさぐりながら、青い綾紐を普段は使わない右手の指に巻いた。結界内で強引に術を放ったため、利き手の指は焼けて皮膚が剥がれていた。これではもう、使いものにならない。
 視界を遮っていた砂が徐々に落ち着き、結蘭の影が透ける。よく見ると、服の袖が片方なくなっていた。凍馬は眉をひそめた。腕を切り落とした感触などなかったし、そもそも攻撃をしかけるための術式ではなかった。
 凍馬の困惑を嗅ぎとって、結蘭は無い腕を見おろした。
「あなたは初めて見るのね、この腕を」
「それは……」
 呟いてすぐ、ひとつの可能性に思い当たる。
 なぜ結蘭が執拗に瞬を狙うのか。その理由がずっとわからなかった。瞬が龍羅飛だから、彼女が龍眼を欲しているから。しかしそれだけでは結蘭の執念は理解できない。
 だがもしあの腕を斬り落としたのが瞬ならば。
 凍馬は頬に流れた汗を拭って、失笑した。
「これはあなたの復讐なんだね」
「復讐? そんな陳腐なものじゃないわ」
 結蘭は厚手の上着を脱ぎ去った。たしかにそこに腕はない。彼女は琥珀色の瞳を恍惚と潤ませて唇を舐めた。
「これはあの男への啓蒙よ」