THE FATES

10.絶景(4)

 腰に下げていた剣を引き抜き、結蘭は砂に突き刺した。
「鬼使に教えるの。本当に力を持つものとは一体どういうものなのか。それは決して彼ではなく、この私だってことを」
「あなただって知っているだろう。天水に施された時間操作を。いまやこの世界はあいつの手中だ。たとえあなたであろうと、天水にいる限り瞬には敵わない」
「本当にそうかしら」
「え」
「よく見てご覧なさいよ、あなたがいま置かれている状況を」
 結界がさらに圧縮され、凍馬は耐え切れず砂に膝をついた。結蘭は凍馬を指差し、粘ついた笑みを浮かべる。
「ね。この世界があの男の支配下であろうと、私の結界はいつだって完璧なのよ」
「まあ、たしかに……」
 流れる汗をそのままに、凍馬はへらへら笑って続けた。
「あいつの支配下でこんな濃厚な結界をやっちゃうんだから、さすがは殊来鬼の結界師だよ。だけどここまで凝縮した結界に、少しでも穴が開けばどうなると思う。あなたならわかるだろう」
「理論上は破裂するわね。させやしないけど。なあに、あなたにそれができるというの」
「やってみても?」
「できるならやってみせてちょうだい。どんな勝算があるのか知らないけれど、興味深いわ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
 なんとしてもこの危機を脱して、結蘭の妄執について瞬に知らせねばならない。それは凍馬自身が助かるためではなく、瞬にもう二度と失わせないために。大切なものを今度こそ守れるように。
 凍馬は手に巻いていた綾紐の端をくわえて、文言をじかに吹きこんだ。利き手が使えないぶんの調整は、これで補える。精度は多少劣るが、今はそこまで求められていない。穴さえ開けばいいのだ。針の細さでもいい、ほんの少し結界に傷がつけばそれで充分なのだ。そしてそのための下準備はすでに整っている。
 どんな結界にもむらはある。そこを突けば、かならずや勝機はある。
「勝機、か」
 思わず呟いて、凍馬は苦笑した。自分は一体何をしているのだろう。誰に頼まれたわけでもないのに巡回をして、危惧したとおり結蘭に襲われ、今は自分の身を顧みず瞬を助けようとしている。
「馬鹿だな、俺は」
 腕を目の高さに上げて、巻いた綾紐に軽く息を吹きかける。やわらかな綾紐に芯が通り、ぴんと張られた布のように反り返った。凍馬は大きく息を吸う。
「穿」
 青い綾紐は蛇のように頭をもたげて凍馬の腕から離れると、砂の中へと潜っていった。すべてが砂に埋もれるのを待って、もう一度口をひらく。
「閃」
 砂の下を、蛇のように体をくねらせながら青い綾紐が走る。目指すのはさきほど砂の中へ放った紅い綾紐だ。いまは砂と溶けあって見えないが、青い綾紐と重なることでふたたび姿を現し、結界を突き破る。
 はずだった。
「え……」
 手ごたえのなさに、凍馬は思わず声をもらした。
 青い綾紐は結蘭の足元まで進んだところで行き先を見失い、ただの色鮮やかな綾紐へ戻った。凍馬はすぐに紅い綾紐の気配を探ったが、見つからない。
 結蘭の高笑いが耳をさした。
「お探しのものは、これかしら」
 砂に突き立てていた剣を引き抜き、結蘭は切っ先を凍馬へ向けた。そこには紅い綾紐が、細身の剣に貫かれて垂れ下がっていた。
「そんな……」
「さあ、次はどうするの。まさか仕込みはこれで終わりじゃないでしょう? 蓮利朱の神童と呼ばれた術師が、まさかこれくらいで終わらないわよね!」
 剣から綾紐を引き千切り、結蘭は砂を蹴った。一気に凍馬の懐へ入り込む。
「失礼、神童はお姉さんのほうだったかしら」
 鼻先が触れ合う距離で、結蘭の琥珀色の目を見る。凍馬は反射的に横へ転がって間合いをとった。
「まさか、その綾紐を見つけるなんて、そんなはず……」
「でしょうね」
 結界にあったむらが、すっかりなくなっている。凍馬は舌打ちをした。
「誘いか」
「意外と引っかかるものね。肩透かしだわ」
 結蘭は手の中に握りこんでいた綾紐を捨てて、風に流されていくのを眺めた。綾紐は蝶のように漂い、やがて結界に焼かれて消えた。
「私ね、これでも悲しみのなかにあるのよ」
「かなしみ?」
「かわいい部下を二人も殺されて、悲しくないはずないでしょう」
 あでやかな笑顔が、怒りに歪む。結蘭は歯をがちがちと鳴らして、凍馬へ向けて剣を振り下ろした。後ろへ飛んでかわそうとするが、結界の締めつけがさらに強まり、動きを封じられる。その隙に、凍馬は肩から胸にかけて大きく切り裂かれた。剣先に誘われるようにして血飛沫が散り、やがて元からなかったように消えていく。砂の上には足跡が残るばかりで、赤い血の花は咲かない。
「はは……、驚いたよ。まさかあなたに仲間意識があるとは」
 喉の奥から血がせり上がってきて、凍馬は咳込んだ。口の中に血の味が広がる。鼻へ抜ける鉄のにおいに、吐き気がした。
「結蘭、彼女らは俺に敵わなかった。それを認めろ。戦いでの生死は誰にも平等だろう」
「蓮利朱なんかに負けては恥よ。死体はすぐに荒野へ捨てたし、家族も晒し首にしたわ」
「なんだと」
「この剣で、首を斬り落とした」
 結蘭は剣を目の前に掲げて、刃に舌を沿わせた。琥珀色の瞳に、鈍い光が宿る。
 凍馬は斬られた胸を押さえて、震える手で綾紐を握った。
「あなたは間違ってる」
「いいえ。こうやって戦士は強くなるの。与えられることが当然の、奪われない、守られた温室で、いったい何ができるの」
「そうじゃない。彼女らは俺に討たれたんじゃない。自分で命を絶ったんだ」
 脳裏にはあの日の二人の潔さが思い出された。それを知っているのは、凍馬だけだ。
 白んだ青の綾紐が凍馬の血で染まっていく。
「それがなに」
 結蘭は眉すらも動かさずに続けた。
「私はね、欲しいのよ。欲しいものが。そこに繋がるひとつひとつの結果が。頑張ったからって、なに? 何も手に入らなければ意味がないのよ」
「ちがう、それは違う」
「違わない。欲しいものを手に入れるすべを持ってこそ、人ははじめて人になれる。できなければ家畜と同じよ。人に飼われて、雑草を食んで、排泄物まで利用されて、最後には飼い主に食われるの。それが持つ者と持たざる者の差。ここが同じになっては、社会の秩序が乱れるだけよ」
「だが彼女らは……」
「あなたは家畜に同情をするの。可愛がることと、同情は別ものだわ。だって、かわいそうと涙を流しても結局食べるんだもの」
「彼女らは、人だ」
「それは表層。あなただって本当はわかっているんでしょう。だってあなたも、私と同じだもの」
 凍馬は思わず黙り込んだ。結蘭の言うとおりだった。心の片隅に、彼女の理論に納得している自分がいたのだ。そのことに気づいてしまった。
 熟れた果実の皮が裂けるように、斬られた胸がひらいている。綾紐を持った手で押さえつけると、血がどくどくと溢れた。
「結蘭。残念ながら、俺の首は晒せないと思うよ」
「それでも身内の不名誉は消さなくてはね。それにあなた、昔から目障りなの」
「目障り……」
「そう。あの男から力を奪ったり、怪我を治したり、あげく死んでもらったはずなのに半分生きていたり。もう、消えてほしいの」
「つまり俺を消すことを、欲してるんだ」
「そういうことね」
「わざわざ、自分の手で」
「楽しそうなんですもの」
「それは光栄だ」
「だからまだ消えないでちょうだいね。期待外れは何より嫌いよ」
 整った面差しに笑みが戻る。隻腕で剣を構えて、姿勢を正す。左右に偏りのない、美しい構えだった。自信に満ちた眼差しは敗北を寄せつけないだろう。彼女が地に伏す姿など想像がつかない。
 その結蘭から腕を奪った瞬は、やはり凍馬には敵わない存在だ。
 凍馬は手元の綾紐に目を落とした。諦めるには、まだ早い。講じられる手段があるうちは、もがくしかない。綾紐はじわじわと渇きを潤すように血を呑みこんで、やがて元の色を失った。
 結蘭が走り出すのと、凍馬が印を組むのは同時だった。