THE FATES

10.絶景(5)

 血に染まった綾紐で、凍馬は自分の周りに無数の針を作り出す。血色をした針は束になって結蘭へ襲いかかり、虫のように大群になって結蘭を包み込んだ。その間に凍馬は次の綾紐をほどく。
 この結界のもとでは使える技に限りがある。それだけではない。凍馬の体力も、もう底を尽きそうだ。おそらくこれが最後の術式になる。
 口を使って綾紐を結び、宙に投げた。
「憑依、凍雲」
 綾紐は結界の手前で弾けて、薄い氷の膜となって内側に張りついた。結界を凍らせたのだ。
「氷矢」
 霜柱を踏むときのような音をたて、氷にひびが入る。結蘭を覆う針は、もうほとんどが払われていた。
 今度こそ、最初で最後の勝機だ。
「発」
 ひび割れた氷が澄んだ矢になって結蘭に一斉に降りかかる。ひとつひとつは涼やかでも、それが数え切れないほど寄り集まると響きは重く鈍くなった。風が起こり、砂の上を冷気が這ってくる。傷口がひどく凍みたが、汗が冷えて心地よかった。研ぎ澄まされた冷たさは、凍馬の《気波動》の個性だ。普段あまり使わないのは、凍馬自身がそれほど寒さに強くないからだった。しかし無茶がきく。
 結蘭がいた場所は隙間なく氷の矢で埋まり、氷山になっていた。時おり氷が軋むが、術が破られる様子はない。
 凍馬は肩で息を繰り返した。これで終わりとは思えなかったが、目の前から結蘭の姿が消えると、急に気が抜けた。うしろへ下がりながら距離を取っていると、斜面に引っかかってしりもちをついた。そのまま砂丘の裾で寝転がる。
 風に吹かれ、細かな砂が手の上を転がっていく。焼け爛れた指先には砂ですら痛かったが、それもなぜか愛しく思えた。
 死んでいるわけでも生きているわけでもない状態を、やはりどこかで疎んでいた。気にしていないと笑いながら、どこにも寄り添えない自分を卑下していた。だが今はそれを自分のすべてで受け入れて、胸を張って言える。
 俺は、生きている!
 たとえ肉体が失われていようとも、姉を犠牲にしていようとも、どんなにいびつな在り方だとしても、凍馬が生きていると言えば、生きている。生きられる。生死は自分で決められるのだ。
 空を見上げると、波打つことのない灰色が佇んでいた。生きている、その感触だけで代わり映えのしない空が燦々と煌めいて感じられる。この目が映すものは、自らの心なのだ。すべてを諦めるのではなく限りなく受け入れたなら、いつかこの空も凍馬にとって本当に穏やかなものになるかもしれない。そんな日が来ることを待ってもいい、そう思えた。
 いつまでも報われない思いは、いつまでも朽ちない果実になればいい。そうすればきっと、空だけではなく、日々もまた輝くのだろう。痛みや苦しみを何度も味わいながら、それでも生きている手触りに喜びながら。
 生きたい。もし琉霞が術返しの前に倒れても、それでも生きたい。生きて、瞬と明日を見たい。
「生き――」
 鈍い衝撃とともに、目の端から細い涙が流れた。
「え……」
 凍馬は自分の腹から突き出たものを見つめて、首をかしげた。剣だ。剣が背中から腹へ貫通していた。
 これはなんだ。なぜこんなところに。一体どうして。
 剣の切っ先には、白い布の切れ端がかすかに引っかかっていた。それは綾紐のなかでももっとも強力な、白の綾紐だ。そして凍馬の存在を支える、核の役割を担っているものだ。
 凍馬は大量の血を吐き出した。
「ぐっ……」
 体を地中から串刺しにされ、動くことができない。吐いた血は口から溢れて耳の下まで流れていった。あまりの苦しさに剣を掴むが、押しても引いても動きそうにない。まるでそこに根を張った木のように、誇らしげに空を見上げていた。体中が痺れて脈打っている。
 小枝を踏むような音に気づいて首をめぐらせると、氷山が崩れはじめていた。砂の上に積み重なった氷がぶつかって、さらに砕けていく。それは悲鳴のようだった。すでに声をあげることも難しい凍馬の悲鳴でもあった。
 術式が破られていく。凍馬はそれをただ見ているしかできない。
「く、そ……」
 まだ残っている綾紐に手を伸ばし、髪ごと引っ掴む。だがもうほとんど力が入らない。手から綾紐がすべり落ち、凍馬は限りなく音のない声をもらした。
 近づいてくる足音が砂を介して伝わってくる。こすれあった砂が何重にも音を膨らませて、凍馬の全身へと響き渡る。それは耳を両手で塞いだときの鼓動によく似ていた。
「少し、ずれたわね」
 真横に立った結蘭が、剣の切っ先を見てこぼした。凍馬はさきほど封じられた紅い綾紐を思い出した。
「まさか……、砂にも、結界を」
「ええ。あなたが寝転がってくれてよかった。おかげで核を見つけられた」
 核とは、凍馬の人格や記憶をこの世に繋ぎとめているもので、白い綾紐は凍馬が死んだときに身につけていたものだった。かろうじて燃え残り、琉霞はここへ凍馬を宿した。
 もしこれが他者の手に渡れば、もしこれが壊されるようなことがあれば、凍馬はもうこの世界に留まり続けることはできない。
 もう一度、死ぬのだ。
 結蘭は凍馬の髪を優しく撫でて、目を細めた。
「いつまで経っても振り向いてもらえず、悶え狂ってしまったのはあなたのほうよ」
「なんだ、と」
「健気ね。あんな男のために二度も死のうというのだから」
 指をすべらせて、結蘭は凍馬の腹の上に手を乗せた。
「凍馬、あなたとはもっと話がしてみたかったわ」
 強く手を押しつけて、腹の中へめり込ませる。凍馬は喉が千切れそうな悲鳴をあげた。結蘭の手が腹の中をまさぐる。白い綾紐をさがしているのだ。水が湧き出るように、口から血や体液が溢れだす。凍馬の体は激しく痙攣を起こし、剣を揺らして涼やかな音を鳴らした。
 意識が遠のいていくのがわかる。これもかつて経験したからだろう。見上げた空は涙で滲んだ。
 やがて痛みや苦しみもなくなった。耳はもう何も聞こえず、肌は風をとらえず、血の味すらもわからない。視界はほぼ光に覆われ、妙に眩しい。天水の空ではありえないほどの光だった。きっと漣の空が戻ったのだ。
 ただ、香りだけがあった。
 これはまだ天水が呼吸をしていた頃の、草原のにおいだ。光に蒸されて、命に濡れて、胸に吸い込むと涙が溢れてくるような、懐かしい草のかおりだ。
 凍馬は想像の中で胸いっぱいにその香りを吸い込む。土と草と光のにおいが、体中に行き渡る。あたたかい。満たされる。何もないが、すべてがある。そう感じた。
 浮かぶのは、幼かった日のことだ。あの頃はその日が人生のすべてだった。昨日も明日もない。今日だけがそこにあった。そのことを体で素直に感じ取っていた。
 できるならもう一度、やわらかいばかりの草のなかに寝転んで、あの日々のように瞬と空を眺めたかった。
 凍馬はそっと目を閉ざし、真っ暗な闇の中に落ちた。

 結蘭は凍馬の腹をあちこちさがしたが、綾紐は見つからなかった。凍馬はすでに意識が朦朧としているようだ。結蘭は急がずゆっくりと綾紐をさがした。
 そのとき、不意にどこからか馬のいななきが聞こえた。
 結蘭は凍馬の腹に腕を突き立てたまま、何もない一点を凝視した。
「なに……」
 眉をひそめた瞬間、結界にひびが入った。隙間から青臭い風が吹き込んでくる。いや、これはただの風ではない。何者かの《気波動》だ。
 結蘭は腕を抜いて、とっさに結界を作りなおそうとしたが、あまりの強風に術を発動させることもできない。あたりは朝靄のように霞み、気がつくと結蘭は他人の結界に取り込まれていた。
 風で舞い上がった砂が落ち着くのを待って、そっと目をひらく。そこには馬に跨った女がひとりいた。手には白い綾紐を持っている。
「琉霞」
 結蘭は奥歯を噛みしめて、馬上を睨みつけた。しかし琉霞は包帯の隙間から目を細めてさらりとかわし、手の中の綾紐を見つめた。
「結蘭、あなたをめちゃくちゃにしたいわ」
 そよ風のように囁いて、琉霞は馬首を返す。そのまま彼女は馬とともに走り去った。
 結蘭は追うことも術を仕掛けることもなく、ただそれを見つめていた。