THE FATES

10.絶景(7)

 振り返ると、もうずいぶん歩いていた。先に続いている青い道と比べてみると、半分は来たようだった。そこで瞬は思わず足をとめた。
「どうかしたのか」
 隣を歩いていた由稀が行き過ぎて振り返る。耶守もまた、怪訝そうに瞬を見上げてくる。瞬は取り繕うように笑みを浮かべた。
「いや、なんでもない。なあ耶守、例の老人の居場所はどうなってる」
「大丈夫、この先にいる見張りが案内してくれる手筈になってるよ。伝言、お店の人に残したと思うけど。伝わってないか」
「ああ、そうだった。すまない」
「うん、いいけど……」
 不審げに首を捻りながら、耶守は先に歩きだした。由稀は特に何か言うこともなく、前を行く。瞬は二人の背中をしばらく見つめてから、一歩を踏み出した。
 爪先が違和感を突き破る。結界だ。
 息詰まるような、煮詰められてどろどろになった空間に、瞬は顔を歪める。強力な結界だ。桟楽には天水王家の意向で結界が張られている。それは瞬が時間操作をする以前からあったものだ。そのため桟楽は瞬の干渉を受けないが、特に時間操作の妨げになることもなかったため、長く放置していた。ただ、水路からすでに結界の範囲内とは知らなかった。
 深く息を吸うと、内側から爛れそうな《気波動》だった。さきほどまで水路に満ちていた、聖性すら感じさせる清浄とは程遠い。瞬はこの澱みに覚えがあるように思って記憶を遡ってみたが、あまりに濃密な臭気に思考はまとまらなかった。
 当然、結界の外のことはわからなくなった。いつもなら手に取るようにわかる街の様子が一切感じられず、世界への呼びかけは返ってこない木霊のように虚しく散った。
 ずっと重荷に感じていたものが唐突に取り払われると、途端に落ち着かなくなった。せめて羅依や紅を連れてくるべきだったと後悔する。
 できる限り早くこの結界から出るしかない。そのためには龍羅飛という噂のある、両目のない老人から必要な情報を聞き出さねばならない。
 両目のない老人、いや、師範・東按(とうあん)から。
 瞬は少しでも気持ちを落ち着けようと、煙草に火をつけた。嗅ぎなれた煙草の香りに意識を委ね、足を速める。やがて青い道は途切れて、のぼり階段へと繋がっていた。
 階段をのぼりきると、洞穴のような場所に男がひとり座っていた。耶守が近づいていき、耳打ちをする。男は金を受け取ると、立ち上がって長い槍を肩に担いだ。
「お前が鬼使か」
「そうだ」
「わかっていると思うが、この先では絶対に素顔を晒すなよ。爺さんのところまで案内はするが、面倒はご免だ」
「ああ、わかっている」
 眼鏡をかけて、瞬はゆっくりうなずいた。腰をかがめて、耶守に視線をあわせる。
「お前は戻るんだ」
「え、俺も行くよ。桟楽にも一度入ってみたい」
「やめておけ。いいか、水路を出たら梅詩亭へ行ってくれ」
「伝言?」
「そうだ。暗くなっても戻らなかったら、城へ入るよう伝えてほしい」
 耶守のまだ小さい手を取って、そこに金を握らせる。
「頼んだぞ」
「……わかった」
 皺だらけになった紙幣を見つめて、耶守は消え入りそうな声でうなずいた。すぐにきびすを返して、来たばかりの道を戻っていく。
「鬼使にも一応の常識はあるようだな」
 男もまた耶守の背中を見送って、自らは信貴(しぎ)と名乗った。
 信貴に続いて洞穴を出ると、眼下には桟楽の掃き溜めのような町並みが広がっていた。身を寄せ合うように密集したあばら家からは、人が生活している様子は感じられない。とっくの昔に打ち捨てられた町のようだ。崖を吹き上がってくる風は、汚泥の臭いがした。
 車輪の音に気づいて見上げると、夕天橋が真上にあった。工場区から毎日運びだされる荷物のため、橋の裏側にはいくつもの亀裂が走っている。要の鉄材も、荷車が通るたびにたわんで揺れていた。この橋ももう長くない。
 洞穴から下へおりる階段や梯子は見当たらない。飛び降りるにはこの洞穴はやや高さがある。屋根へおりることはできそうだったが、そうすると屋根が抜けてしまいそうだった。
 由稀が淵に腰をかけて飛び降りようとする。
「まあ、待て」
 信貴は由稀の腕を引いて下がらせると、持っていた槍をさらに長く伸ばして勢いよく真下へ投げつけた。崖からは、ほんの少し槍の柄が覗いている。
「伝っておりる、ってこと?」
「多少、左右に振れる。気をつけろ」
「だろうね」
 苦笑をもらしながらも、由稀は身軽に槍を伝って下へおりていった。瞬もそれに続いておりようとする。
「おい、鬼使」
 槍の柄に片足をかけたところで、信貴に呼びとめられる。
「なんだ」
「もうひとつ、忠告しておく。ここでは、ほぼすべての術式が使えないものと思え。どんな術もこの結界に吸い取られる。気をつけろよ」
「お前の今の術式は平気なんだな」
「ああ。だから俺はここの見張りをやってるのさ。桟楽ができた頃からな」
「なるほど。丁寧にどうも」
 口を歪めて礼を告げ、瞬は槍を伝っておりた。術が使えないことには、結界へ踏み入ったときからわかっていた。すでに移動法を使おうとして、一度弾かれていたのだ。
 瞬に続いて信貴もおりてきて、槍は元の長さに戻った。
 地面は舗装されていない、むき出しの岩盤だ。すこしやわらかく、長い年月をかけて砂がかたまってできたもののようだった。その上に、風で運ばれてきた砂が堆積している。
 先に町へおりていた由稀が、無言で道先を見つめていた。視線を追って、道端に薄汚れたかたまりを見つける。砂をかぶった襤褸の隙間から、痩せ細った足が覗いていた。およそ人の肌とは思えない色をした、枯れ枝のような足だった。この町では死体は腐り落ちるのではなく、涸れて、乾いて、蒸発して、やがて砕けて砂になる。還る土もなく、風に吹かれて延々と漂うのだ。
 瞬には由稀の思いはわからない。由稀にとって死がどれほど遠いものか、もしくは近しいものかなど知りようがない。けれど道端の死に黙するのは、ひとつの正しさに思えた。
 生きている限り、死は想像でしか近づけない。しかし生きている限り、死はもっとも近い場所に潜んでいる。死を恐れるなら、死ぬしかない。そんな矛盾のなかにある。
 もしも生きながら死に寄り添えたなら、死はいつか生になるだろうか。
 瞬は道端の見知らぬ死を横切って、いつまでも消えない死への憧れに自嘲した。どこまで生に執着する気かと。
「こっちだ」
 いつの間にか隣に並んでいた信貴が、小声で告げて角を曲がった。瞬は肩越しに由稀を振り返り、信貴のあとを追った。
 桟楽の道はどこも狭い。二人並べば、もう道幅はいっぱいになる。道の両脇には上から見たとおりのあばら家が並び、戸のない暗がりからは獣じみた視線が向けられた。
 ときおり家の中から、人の悲鳴や怒声が洩れ聞こえてくる。複数人のものもあれば、ひとりでずっと喚き散らしているものもあった。決して気持ちのいいものではない。だが瞬には平和で穏やかな景色よりも、ずっと居心地がよかった。自分の中にたしかにある、鬼使としての狂気が慰められるようだった。
 何度か角を曲がり、ずいぶん歩いたところで信貴は立ち止まった。
「この奥だ」
 指差した先には、崩れかけの小屋があった。これまで見てきたあばら家とは違って、入口に布がかけられていた。
「俺は外で待っている。なるべく早く出てきてくれよ」
「わかった」
 瞬はうなずいて、由稀とともに小屋へ入った。