THE FATES

10.絶景(8)

 中は人がひとり寝転べるほどの広さしかなかった。明らかに他の家より狭い。ひどい臭いがして、胸がむかついた。足元には変色してすり切れた布が敷かれているだけで外と大差ない。食べ物らしきものは見えたが、糞尿と見分けがつかなかった。
 部屋に窓はないが、天井には人の顔ほどの大きさをした穴が開いていた。その真下だけが黒い部屋の中にぼんやりと照らし出されている。壁の板には隙間があり、そこからも細い光が淡く滲んでいた。
 部屋の奥に、いっそう黒いかたまりがある。先に気づいたのは由稀だった。
「瞬」
「ああ」
 瞬は眼鏡を外し、かたまりのそばへ近づいた。
「先生」
 声は掠れて、囁きになった。瞬は喉へ唾を押し込み、もう一度口をひらいた。
「東按先生」
 瞬の声が届いたのか、かたまりが震えた。衣擦れの音に紛れて、かすかに声が聞こえる。瞬は膝をついて服を引っ掴んだ。
「ご無沙汰しています。玉兎(ぎょくと)です」
 黒いかたまりの中から、薄汚れた顔が覗いた。老いて皺だらけになり、両の眼には真っ暗な穴が埋まっていたが、それはたしかに東按だった。
 すきま風のような音を鳴らして、東按は息を吸った。
「いま、何と」
「玉兎です、先生」
「ぎょ、く……」
 瞬の名を繰り返して、ようやく東按は思い出したようだった。声にならない悲鳴を洩らして、瞬の手を振り払った。少しでも瞬から離れようとして、座り込んだまま壁伝いに体を引きずる。
「わ、わしを殺しに来たか……、わしを断罪しに……」
「そうじゃありません、落ち着いてください」
「来るな、来ないでくれ……!」
 狭い部屋のなかに逃げ場所などない。東按は見えない目を補うように手当たり次第をさぐり、部屋の隅で出口を求めて壁を引っ掻いた。
「なんと罪深い……。玉、お前はやはり悪魔の子だったのだ」
 呪いでもかけるように、東按は低い声で呟き続けた。
「龍仰鏡は凶兆だ。やはり生かしておくべきではなかった。名前を授かるより早くに、お前の命を取り上げておれば良かったのだ」
「ちょっと、爺さん」
 東按へ歩み寄ろうとした由稀を手で制し、瞬は立ち上がった。
「先生は悔いているんですね」
「当然だ。鬼使などという罪深い化け物を見過ごした。龍羅飛の名を汚してしまった……」
 今にも崩れそうな壁を突き破ることもできない、非力な老人だ。瞬は怒りを覚えるよりも、胸に痛みを感じて黙り込んだ。
「玉兎、わしは後悔している。お前をあのとき始末しておかなかったことを、そしてあの日、街へ戻るお前を引き止めなかったことを」
「先生が気に病むことじゃない。すべて俺の責任です。本当なら先生を手伝って――」
「ちがう、違うのだよ、玉兎。わしはあのとき、ひとりで逃げたのだ……」
 東按が言うあの日とは、龍羅飛が天水王家に攻められた日のことだ。またその日は、瞬の成人の儀が行われる日でもあった。瞬にとって忘れたくとも忘れられない日のことだ。
 思い返されるのは、焼け焦げた人のにおいだ。瓦礫と化した街のなかで、そのにおいだけが生々しく息づいていた。
 あのとき高台にあった学舎から街を見下ろし、東按は退路を確保して皆を誘導すべきだと言った。瞬はすぐに街へ引き返したため、東按がどうしたのかを知らない。だが誰にも愛され尊敬されていた東按は、必ずや皆を逃がすために最後まで残ったと信じていた。
 東按は瞬に向き直り、ひれ伏した。
「すまない、……ゆるしてくれ」
「先生はあのとき、退路を確保してひとりでも多くの者を救うと、そう言った。それは逃げ延びて体制を立て直し、あらためて王家へ異議を唱える。そういうつもりではなかったのですか」
「ああ、ああ。そうだ、そのつもりでいた。そうするべきだと思っていた」
「ならば、なぜ」
 尋ねるのは愚問だとわかっていた。だが今の瞬にはその愚を冒すことさえ止められなかった。それほどに、東按の裏切りに傷ついている自分がいた。
 体を震わせながら、東按は口をひらく。
「死にたく、なかった……」
 東按は瞬の靴に額を乗せ、懺悔を、赦しを乞うようにして泣いた。
「お前たち兄弟が行ってしまったあと、王家軍がすぐ近くまで迫っているのが見えたんだ。皆を裏道へ誘導していては気取られると思った」
「だから見捨てたと」
 裏道への入口は、学舎裏にあった。普段は施錠されていたが有事には師範の判断で開放することになっていた。
「お前のように街へ戻ればよかったんだろう。そうすれば、両眼を失い、こんな醜い姿になるまで生きることもなかった。だが、それでもわしは、今でも死にたくないと思うのだ……」
 何かに追われるように、東按はしわがれた声で言葉を重ねた。
「鬼使の存在を知ったとき、わしはすぐにお前だとわかった。お前が鏡を取り戻し、憎しみのまま天水王家を滅ぼさんとしているのだと」
 靴の上に乗せられた重みは、人とは思えないほど軽かった。たやすく風に吹き飛ばされてしまう、薄布のような存在だった。だが東按が抱えてきた罪や悔恨や懊悩は、爪先が痺れて感覚がなくなるほどに重かった。
 瞬は奥歯をきつく噛みしめた。そうしなければ、瞬は薄汚いかたまりを衝動的に蹴り飛ばしてしまいそうだった。
 自分がやってきた罪を棚にあげて……。
 瞬は自らを憫笑するように、口を歪めた。
「残念ながら、滅ぼしていませんがね」
「いいんだ、それでいいのだ。滅ぼしてはならない。王家は倒すべき相手ではない、守るべき相手なのだ。わしはそう教わったし、そう教えてきた。だが心が言うことをきかない。心のどこかで、わしはお前の行為を讃美した。もっと殺せばいいと願ったのだよ」
 東按は泣きながら笑い、笑いながら嘆いた。
「世界はずるい、王家も嘘ばかりだ。だが何より自分の魂が醜かった。鬼使だけでない、私の心の持ちようこそが、一族の歴史を汚してしまったと思った。あの日、堂々と戦って死んだものに対して、わしはもう顔向けができん。向こうへもいけない、死ぬこともできない、そして心底死にたくもない。死ぬということが、恐ろしくてたまらないのだ。こんな腐りきった場所で、生きているのか死んでいるのかもわからない日々を送りながら、それでも……」
 東按は激しく咳込んで、地面に何かを吐き出した。臭いですぐに血だとわかる。それでも東按は話すことをやめようとはしなかった。何かにとり憑かれたように、息を継ぐ。
「あのときお前を殺しておれば、あのとき皆を率いて逃げ延びていれば、きっと鬼使が生まれることはなかった。わしはお前を狂気へと導いてしまった。生にしがみついて、取り返しのつかないことをしてしまったのだ」
 おそらく東按はもう長くはない。本人もそれをわかっているのかもしれない。命の終わりを嗅ぎ取って、東按は安らぎを求めているのだろう。仕方のないことだとは思ったが、瞬の落胆は大きかった。記憶の中にいる東按は、いつでも正しく強く大きく、あたたかかった。その思い出までが黒く塗り潰されていく。
 光を怖がるように東按は暗がりに身を沈めて、両手で顔を覆った。
「お前ひとりに多くのものを背負わせてしまった……。すまない、本当にすまないことをした。許してくれ、玉兎」
 かつての瞬なら、東按を責めたかもしれない。怒りのままに殺したかもしれない。だが今は、静かな心で小さくなった東按を見下ろすことができた。殺しても後悔はしないだろう。いくらか心も晴れるだろう。ただ、それでは何も解決しないことを知っていた。
 瞬がいまなすべきことは、龍羅飛と竜族の関係性を調べ、天水とアミティスの繋がりを探し、由稀らの力になることだ。そしてできれば、神域の狭間についての考察を深めて、仁支の墓前に供えたい。
 天井にあいた穴から灰色の空を見上げる。
「俺のような罪人が先生を許す資格は、ありません」
「玉兎……」
「自分が楽になりたいのなら、死んでください。それが嫌なら生きて苦しんでください。先生にはその二つの道しかない」
 いびつな円に切り取られた空は、手を伸ばせば不思議と届きそうだった。瞬は思わず上げかけた手をとめ、逡巡ののちに煙草を取り出した。
 煙草の煙が、空と同化して見えなくなる。甘い香りだけがあたりに立ちこめた。
「まあ、死ぬなら俺の用件が終わってからにしてほしいんですが」
「用件?」
「今日は先生に聞きたいことがあって来ました」
 二つ折りにした紙幣の束を東按のそばへ投げる。東按はとっさに金を掴んで、言葉を詰まらせた。
「あ、いや。わしにわかることなら、なんでも答えよう」
「なら、龍羅飛の歴史を」
「歴史か。しかしお前は得意だったろう。今さら――」
「知りたいのは、俺が習うことのなかった歴史です」
「え……」
「あるでしょう。司祭と師範にしか伝えられていない、龍羅飛の過去が」
「なぜ、そんなことを」
 今さらと言いたげに、東按は穴のあいた目で瞬を見上げた。
 瞬はいっそあどけない東按の眼差しを見つめ返して、力なく微笑んだ。
「いつか、この目に映る世界が絶景であるように」