THE FATES

10.絶景(9)

 昼を過ぎ、交易日で慌しかった梅詩亭にもようやく落ち着きが戻った。
「羅依、あんたの犬、腹すかせて待ってるだろ。持っていってやんな」
「え、でもまだお皿が……」
 積み重なった皿を指差し、羅依は語尾を濁した。梅煉はにこりと笑って、手提げ袋を押しつける。
「いいから。そのくらい、どうってことないよ。紅のスウィッグで戻りゃ、大して時間もかからないだろ」
「うん。でもいいの? 人手足りるのか」
「何言ってんだい。紅のひとりやふたり減ったって、影響ないよ」
「それって、いてもいなくても一緒ってことだよね」
 羅依の指摘に、それもそうだねと豪快に笑い、梅煉は表へ戻っていった。やりかけだった作業に区切りをつけて、羅依も裏の厨房を出る。けだるそうに注文を取っていた紅に声をかけると、彼は迷うことなく仕事を詩桜に押しつけて、羅依を引っ張って店を出た。
「はー、助かった。あいつらの訛り半端なくて、まったく聞き取れねえんだよ」
「だからって、あれは無気力すぎだろ」
「大丈夫。どうせみんな詩桜目当てだから、客足には響かねえよ」
「ふうん」
 階段の脇に停めてあったスウィッグにまたがり、紅が羅依を振り返る。
「お前も少しくらい店に出ろよ。つか俺と代われって」
「む、無理! だってあたし、言葉わかんないし。紅が聞き取れないような訛り、あたしにわかるはずない」
「どうにかなるだろ。由稀だって最近は表やってるんだし」
「それは……、由稀が器用だからだよ」
 スウィッグの後部に乗り込んで、羅依は紅の腰に腕を回した。それを待っていたように、足元がさらに浮き上がる。紅はあくびを噛み殺しながら、スウィッグの握りをひねった。
「まあ、それもそうか」
 機械音が鋭く響いて、発進する。体が後ろに置いていかれそうで、羅依は紅にしがみついた。この感覚にはいつまでたっても慣れそうになかった。
 交易日の博路は人が多く、スウィッグで走るより歩いた方が早い。それをわかっている紅は、いつもなら遠回りになる道を選んで絆景へ向かっていた。細い路地や、突然あらわれる階段を飛び越えて、紅は自在に街を走り抜けていく。
 近頃、紅は忙しそうだった。毎日朝早くから夜遅くまで、梅詩亭の手伝いをしながらあらゆる文献を調査している。彼は漣と謳われた天水の空を取り戻そうとしているのだ。相変わらず愚痴や文句は多いが、それでも自分で決めたことを、決めた以上の早さでこなしている。
 由稀もまた久暉と意見を重ねて、これからどうしていくかを話し合っているようだ。
 みな、それぞれのやるべきことを見つけて、前へ進んでいる。自分ひとりが置いてきぼりだ。
「いいな。紅も、由稀も」
「あ? なんか言ったか」
「ううん……、なんでもない」
 紅の背中へ額をこすりつけるようにして、羅依は首を振った。それ以上、紅はしつこく聞いてこようとはしない。何事も適当に受け流してくれる紅の性格は、普段はとても気楽だが、ときおり無性に寂しくなる。
 いつから自分はこんなに弱くなったのだろう。
 桟楽へ向かうと言って、瞬と由稀は連れ立って出て行った。羅依も行くと言ったが、それはふたりに拒まれた。危険だという一言で。
 悔しかった。もどかしかった。だが重ねて頼み込むことは、どうしてもできなかった。
 武器の手入れも鍛錬も、羅依は一日たりとも欠かしたことはない。本気で戦えば、由稀に勝てる自信もある。それは羅依だけの認識ではない。おそらく由稀もそう思っているだろう。それでも瞬とともに桟楽へ行けるのは、羅依ではなく由稀なのだ。
 瞬も由稀も口にはしなかったが、理由はひとつしかない。
 羅依が女だからだ。
 心配されることは、こそばゆくて嬉しい。女の子として見てもらえることも、最近は悪くないと思えるようになった。だが同じくらい頼られもしたいのだ。守られるのではなく、大切な人を守れる自分でありたい。これは、贅沢なのだろうか。
 瞬のことを思うと、ただただ泣きたくなる。彼の力になりたいのに、守られている自分が情けない。望んでいたのは、こんな関係じゃないはずだった。瞬は羅依にとって憎い相手で、愛しい相手だ。嘘のように美しく強い彼は、誰よりも儚く脆い。そんな彼を守れる自分になりたい。彼のすべてに関わって、影響して、できるなら言葉ひとつで彼を壊せるようになりたい。
「あのさー」
 突然、紅に話しかけられ、羅依は声を裏返らせた。
「な、なに」
「や……、なんていうか、怨念? みたいなものが、びしびし伝わってきて怖いんだけど」
「あ、ごめん」
 紅の腰へ回した腕に、うっかり力がこもっていたようだ。羅依は息を抜くように、腕を弛めた。
 頬をあてた背中越しに、紅のため息が聞こえてくる。
「お前さ、いい加減どうにかした方がいいよ」
「え」
「瞬との関係だよ」
 ためらいも気遣いもなく、紅はきっぱりと言い放った。
「俺が口出すことじゃないと思うけど、そろそろお前、あいつにぶち切れていいだろ。なんでそんなに我慢してるわけ」
「別に、我慢とか……」
「はっきりさせた方がいいって。あいつ、お前に甘えてるだけだと思うから」
「甘える?」
「ああ。態度保留して、だけどお前を手離さないで。それってお前の気持ちに甘えてるだけだろ」
「そう……なのかな」
 甘えられているということは、頼られているのだろうか。羅依は思わず頬をゆるませた。
「なに、そこ喜ぶところじゃないけど」
「ち、違う。そんなんじゃない。ていうか、前向いてろよ!」
「はいはい」
 あきれて首を振りつつ、紅は前へ向き直った。羅依は長いため息をついて、あまり見慣れない景色の中に視線を転じた。様々な装束の隊商が入り乱れて、街はさながら手つかずの花畑のようだ。商人たちは情報交換に余念がなく、真っ赤なスウィッグがすぐそばを通り抜けても見向きもしない。今にも事故になってしまいそうで、羅依は紅の袖を引こうとした。だが、その手がとまる。
 視線を感じて見遣った隊商の中に、こちらを見ているものがいた。女だ。羅依と目が合うと、女はかすかに笑って人混みに消えた。直観的に危険を悟った。
「紅、紅!」
「なんだよ」
「道変えて」
「はあ?」
「いいから。なるべく人の多くて、でもちゃんと走れる道。そこから路地に入って、とにかくたくさん道曲がって」
「いきなりなんだよ。理由は」
「よくわかんないけど、嫌な予感がするから」
「予感、ねえ。当たるのか、それ」
 不審げに呟いて、紅はただ首をひねるばかりだった。羅依はなるべく平静を装いながら、声をひそめた。
「外れたらお店の手伝い、表と代わってあげるから」
「……二言はないな」
「ない」
「よし。忘れんなよ」
 嬉しさに満ちた声で返事をすると、紅は路地の手前で反転して大通りへと向かった。
 大通りから一筋入った小路を、スウィッグは違反速度すれすれの速さで駆け抜けていく。小路では店の外に置かれた卓で休息をとっていたり、荷車から荷物をおろす商人がいたりなどして、大通りの喧騒はないが人の姿が絶えずあった。
 羅依は紅にしがみついたまま、肩越しに背後を振り返った。街の人々に紛れるようにして、五人の人影が真っ赤なスウィッグについてきていた。その中には、さきほどの女と思しき姿もある。何が目的かはわからないが、たしかにつけられていた。
 神経を尖らせている羅依に気づいたのか、紅はもう疑う素振りは見せなかった。ただ普段と変わらない様子で、スウィッグを操縦している。それが羅依にはありがたかった。
「おい、羅依。絆景に戻っていいのか」
「え」
「なんか、ついてきてるんだろ。だったら他の場所へ行った方がいいんじゃねえか」
「たとえば?」
「いっそ市街を出るとかさ」
「ううん、それはしないほうがいいと思う。向こうが手を出しづらい状況のほうが安全だから」
「そっか。わかった。じゃあ城側から大通り抜けていいか」
「ありがとう」
 スウィッグはゆるやかに角を曲がり、大通りへと走り出た。水輝城の正門を間近に見上げて、羅依は以前この門をくぐった日のことを思い出した。あれからまだ半年も経っていないのに、もうずっと昔のことのように思えて、羅依は唇を噛みしめた。あの頃のほうがずっと瞬に近かった気がしたのだ。
 門前まで広がった人の波を抜けて、大通りから絆景へ向かう。人の姿はすぐに疎らになり、ほとんどなくなるまでそう時間はかからなかった。紅は熟知しきった道を何度も器用に曲がりながら、絆景の表通りまで辿り着いた。羅依は追跡者が追いきれなくなっているのを見て、紅の袖をひいた。
「待って、ここで止まって」
「どうするつもりだよ」
「とにかく瞬に知らせないと」
「それをどうやるのか聞いてるんだよ」
 反射的に紅も考えてと言いそうになって、羅依は言葉を飲み込んだ。それは羅依が考える領分だ。羅依にスウィッグが操縦できないように、紅には戦闘の経験がほとんどない。
「二手にわかれよう」
「はあ? お前、相手の狙いもわからないのに、そんなこと……」
「だからだよ。どっちを追ってくるのか見極めるんだ」
 起動したままのスウィッグから身軽におりて、羅依は真小太の食事を紅に預けた。しかし紅はなかなか受け取ろうとしない。
「さすがの俺でも、それがどれだけ危険かくらいわかるんだけど」
「でもこのままじゃどこにも知らせにいけない。もしかしたら片方が相手を引きつけられるかもしれないだろう。そうしたら自由になったほうが桟楽へ知らせに行ける。特に紅にはスウィッグっていう機動力があるんだ。ただ逃げまわるためだけに使うのはもったいない」
 さいわい二人とも絆清会の総統に顔が利く。騒動を聞きつけた絆清会が味方をしてくれる可能性も高かった。そちらから桟楽へ連絡をつけることもできる。
「そりゃまあ、お前が言いたいことはわかるけど」
 紅は眼鏡の奥の瞳を歪めて、荒っぽく頭を掻いた。やがて頑固な羅依に根負けして、ため息とともに袋を受け取る。
「わかった。俺は直接、桟楽を目指す」
「ありがとう。あたしは絆景で撹乱させるから」
「調子乗るなよ」
「なんだ、それ」
 羅依は首元に巻いていた薄布を袋の中へ押しこんで、束ねた髪をさらにきつく結わえ直した。紅はその様子を黙って見つめたあと、親譲りの端整な眉を歪めた。
「無茶、すんなよ」
「うん」
 元気よく返事をした羅依に舌打ちをして、紅はふたたび大通りを抜けるため城方面へと走り出した。
 それと同時に、羅依もまた走り出す。紅とは真逆の、絆景の奥深くへと向かって。