THE FATES

10.絶景(11)

 途切れることのない風に、粗末な小屋が軋む。今にも崩れそうだが、壁の隙間がうまく風を通して力を分散させているようだった。
 由稀は瞬の背中を、そしてその向こう、黒く塗り潰された部分を見つめて息をのんだ。
 東按が、閉じていた瞼を揺らして顔をあげた。
「もうずっとずっと昔の、神話の時代の話だ。我々龍羅飛は神に愛され、人の世界にありながら神に近いものとして、ある役割を担っていた」
「天水王家を守ることではなく?」
「それはずっと後になってからのことだ。元々我らは神の眷属、神の使いとして世界と世界を繋げていたのだ」
 想像の範疇を超えた話に、思わず瞬は黙り込んだ。東按はそれを予想していたのか、穏やかに笑った。
「驚くのも無理はない。民族の起源は、神が剣を望んだときに生まれたと教えていたからな。それも間違いではないのだが、さらに踏み込んだ言い方をするなら、龍羅飛は神の子と言える」
「神の子、だと」
 瞬は鼻で笑って言い捨て、続けた。
「この世界のどこにも神なんていないのに」
「そうだな。ここはもう神の死んだ、神に見捨てられた世界だ。そしてその原因を作ったのが、龍羅飛なのだよ」
 東按は天井の穴を仰いで、目を細めるように眉を寄せた。
「世界はすべて神の意志によって繋がっている。そしてその繋がりを維持しているのが神の眷属、天水では我々龍羅飛だった。特に深い繋がりを有していたのが、そちらの子の世界、アミティスだ」
「え、なんでわかって……」
 由稀はまだ、アミティスから来たとは話していなかった。東按は得意げに口元を歪めただけで、由稀の疑問へは答えなかった。
繋紲(けいせつ)の塔、光陰は千切れず土に眠り、朝日は絶えず塔に登る。二つの世界はとこしえに睦みあう、片輪と片輪。表は裏へ、裏は表へ」
 東按は瞬を指差し、うなずいた。瞬が掠れた声で続きを諳んじる。
「光携え、闇従え、我ら世界を均しゆく。共鳴せし天命、共栄の繋鎖、共和の讃歌をここに。繋紲の塔、浄火より生まれし銀砂の塔」
 それは龍羅飛の塔に刻まれていた文言で、子どもらは必ず覚えさせられるものだった。
「さすがは玉兎。完璧だ」
「これに一体、何の意味が」
「アミティスと天水は、かつては双子のような存在だった。しかしあるときをさかいに、その関係が崩れる」
 黒いかたまりだった東按は、体を引きずって光の真下へと進み出た。ひどく汚れた襤褸と顔が、闇から這い出て陰影を持った。
「龍羅飛の男とアミティスの女のあいだに子ができた。その子が最初の龍仰鏡を持って生まれた。神の威光を宿した鏡はそれぞれの大地に大いなる恵みをもたらし、子が生まれてから数十年のあいだは互いに栄えた。それまでは交わることに抵抗があったものも、進んで関係を持つようになり、種は乱れに乱れた。一族の半分近くがアミティスへ移り住み、龍羅飛とアミティス側の眷属、二つの種族の差異はほとんどなくなってしまったという。そして龍仰鏡が現れてから百年後に、今度は羽毛に覆われた杖を持った子が生まれたのだ」
「それって……」
 由稀の呟きに瞬が振り返った。青竜がかつてリノラ神殿で持っていた杖を思い浮かべて、二人はうなずきあった。
「おそらく天地の杖だ」
「名前までは知らん。それはこちらへは伝わらなかったのでな。その杖が現れてからというもの、アミティスは大地が割れんばかりに荒れ狂い、空は真っ赤に染まったという。龍羅飛もまた疫病で多くのものが死に、植物は枯れ果て、大地は痩せ細って、世界を繋ぐ力も失ってしまった。残されたのはほんの一握りの麦と、民と、忌まわしき龍眼だった」
 東按は肩を落とし、ため息に言葉をのせる。
「よほど神の怒りを買ったのだろう。天水は他の世界との繋がりもすっかり失い、孤独な、閉ざされた世界となった。じわじわと、人には感じられないような緩やかさをもって、世界は崩壊へ向かって動き出したのだ。はじめは一枚の木の葉が音もなく散るような、そんな小さなものだったかもしれない。しかし崩壊は長い時間をかけて世界に根を張って、やがて芽を出した。それがお前だよ、玉兎」
 よれた頬に皺を刻んで、東按はひどく穏やかに微笑んだ。
「俺が……?」
「そうだ。水甕へぽつりぽつり、ひと雫ずつ滴っていた崩壊が、お前の誕生で、龍仰鏡の再来で一気に加速したのだ」
「まさか、そのせいで天水は」
「おそらくそうだろう。さらにお前がアミティスへ行くことで、世界はさらに刺激された。閉ざされていたはずの道がこじ開けられ、突然吹き込んだ風はいっそう天水を苦しめたのだ」
「そんな、馬鹿な話……」
 瞬は壁を拳で叩きつけ、深くうな垂れた。小屋全体が揺れて、天井から砂がはらはらと落ちた。由稀はそんな瞬を見守るしかできない。無為にあげた手が、壁の隙間から洩れる細い光に切り裂かれた。
「皮肉な話だろう、玉兎。わしはお前の鬼使という名を耳にしたとき、腹の底からこみあげる笑いを抑えられなかった。誰がつけたか知らないが、なんと的を射た名だろうか。喝采に値する」
 東按は肩を揺らして、喉の奥で低く笑った。
「そして、私の罪だ」
「先生」
 壁に押しつけたままの拳をさらにきつく握りしめて、瞬は崩れそうになる体を必死に支えていた。見かねた由稀は瞬の腕を掴んで、壁から拳を引き剥がした。瞬は目を瞠って振り返る。
「由稀……」
「しっかりしろよ」
「あ、ああ。すまない」
 暗がりでもわかるほど青褪めた顔で、瞬はかろうじて微笑んだ。
 石を打ち合わすような、硝子が鈍くひび割れるような、どこか乾いた音がして、新しい煙草に火がともる。甘ったるい、舌にまとわりつくような香りが、由稀の追及をさらに封じ込めた。
 瞬は東按を見おろしながら、冷たさを増した声で丁寧に言った。
「先生は、神域の狭間をご存知ですか」
「神域の狭間か、知らないこともないが」
 考え込むような素振りを見せてから、東按はあらためて口をひらいた。
「玉兎、お前は禁を破って塔へのぼったことがあったな」
「はい。成人の儀の前に。随分と叱られました」
「お前はあそこで何を見た」
「何を?」
 瞬は煙草を持った手で唇を撫でて、首をかしげた。東按は物乞いをするように瞬を仰いで答えを待った。
「たしか最上段までのぼると扉があって、そこをあけると、強くて白い光が溢れてきて……。まさかあれが?」
「わしはあの扉を動かすことすらできなかったからな、はっきりとしたことは何も言えん。だがあの塔こそが天水とアミティスを繋げていたと言い伝えられていた。龍仰鏡を持って生まれたお前なら、扉を開けられたはずだ」
「けれどあの時は、まだ」
「ああ、鏡は金烏が持っておったな。だが関係ない。あの子は一族きっての術者だったが、あれは鏡の力ではないのだよ。金烏は素晴らしい力の持ち主だった。そうでなければ龍仰鏡を預けられん」
 それはつまり、鏡はどこにあっても本来の持ち主にのみ忠実に従うということだ。他の誰にも、瞬の許可なしに鏡を操ることなどできないのだ。
 では、紅はどうなるのか。瞬の龍仰鏡はいま、彼のもとにある。由稀は脳裏に友人の顔を思い浮かべた。
「そうでしたか」
 水の上へそっと浮かべるように、瞬は静かに呟いた。それは瞬がときおり見せる、ささやかで純粋な喜びのかたちだった。
 天井の穴から、小さな花びらが雪のように舞い込んでくる。淡い紅色を滲ませた、可憐な花びらだ。由稀はふわりと落ちてくる溶けない雪を目で追って、首をかしげた。
 なぜ空から花びらが降るのか。周囲に花などなかったはずだ。風に乗ってどこか遠くから運ばれてきたにしては、花はまだ瑞々しい。
 花に気づいたのか、瞬も空を見上げて首をひねった。
 にわかに、小屋の外が騒がしくなる。外で待っていたはずの信貴が、中へ飛び込んできた。
「大変だ」
「何の騒ぎだ」
「夕天橋に、いかれた奴がいる」
「はあ?」
「瞬、ちょっと様子見てみよう」
 由稀は瞬の肩をたたいて、先に小屋を出た。
 黄色い花が逆さになって目の前を落ちていく。あたりには色とりどりの花が散乱し、家に篭っていた桟楽の住人はあばら家から這い出てきて、何事かと空を仰いでいた。
「見てみろ、橋の真ん中だ」
 信貴が指差す先には、夕天橋がある。桟楽の外れから見上げると、橋は空に浮かんでいるようにも見えた。その橋のちょうど真ん中あたりから、花が撒き散らされている。よく聞き取れないが、叫んでいるような声も聞こえてくる。由稀は目を眇めて、花の雨を降らす人物を見つめた。
「なんだ、これは」
 小屋から出てきた瞬が、そう呟いて花をよけた。由稀は橋の上の人物に絶句して、瞬を振り返る。瞬も気づいたのか、苛立たしげに煙草を踏み消した。
「何やってるんだ、あのばかは」
「紅、なんか言ってる。もしかして俺たちのこと探してるんじゃねえか」
「とにかく水路の入口まで戻るぞ。あそこなら橋から近い。話くらいできるだろう」
 大きなため息をついてから、瞬は信貴に声をかけて走り出した。由稀も二人の背中を追って走る。
 見上げた灰色の空は、花の彩りに染まって軽やかに揺らいでいた。