THE FATES

10.絶景(12)

 こんなに走るのはいつぶりだろう。早まる動悸を聞きながら、瞬はぼんやりと考えていた。他に考えねばならないことがあるはずだが、気がつくとただ走ることに集中している自分がいた。
 空から降る花を、桟楽の住人は神からの恵みのように欲し、奪い合った。花では空腹を満たせず、すでに傷んでしまって売り物にもならない。それでも彼らは殴りあい、殺しあいながら、花を求めた。
 地面に這いつくばって花を掻き集めていた女のそばに、刀を持った男が立ち、おもむろに女の首を落とした。勢いよく吹きだした血飛沫が瞬の横顔を濡らす。眼鏡があったので目には入らなかったが、頬や髪には赤い花が咲いた。生々しい、命のにおいがする。
 手のひらで血を拭い、握りしめる。あたたかい。誰かと手を繋いだように、ぬくもりが広がる。瞬は足をとめて、死んだ女のもとへ引き返した。
「おい、瞬!」
 呼び止める由稀の声も無視をして、瞬は刀を持つ男の前に立った。男は歯をがちがちと鳴らし、こぼれんばかりに目を見開いた。奇声を発するばかりで、言葉はない。刀は古い血がかたまって錆び、輝きを失っていた。この刃でどうやって首を斬り落としたのか、疑問は疑問のまま瞬の思考を流れていく。
「瞬!」
「くるな」
 振り返らずに告げると、由稀はそれ以上引きとめようとはしなかった。何を言っても無駄だと悟ったのだろう。
 瞬は血のついた手で男の口元をおさえて、強く掴んだ。徐々に力をこめる。痩せ細った男の骨は脆く、手の中で軋む感触があった。
「手向けの花は、これでいいだろう」
 顎を反らして、頬に散った血を見せつける。男は脚を震わせて、やがては失禁した。その隙に瞬は男の手から刀を抜き取り、力任せに喉に突き刺した。瞬が手を離すと男はうしろへ傾いでいき、刀が地面につかえてしりもちをついた。まだかろうじて息があり、空気が洩れるような叫びをあげながら男は喉をかきむしった。
 瞬は男を見届けることなく背を向けて、ふたたび走り出した。少し遅れて、由稀と信貴がついてくる。信貴は横に並んで非難めいた視線を送ってくる。だが二人とも、理由を訊いてはこなかった。それは瞬にとってはありがたかった。瞬にもなぜ男を殺したのか、わからなかった。そうせねば収まらない衝動が生まれたとしか答えられなかった。
 地に落ちた花を拾い集めていた住人は、瞬を恐れてあばら家へ戻った。町には静寂が戻り、道は花で飾られて美しかった。乾ききった町に、瑞々しい花の潤いが染み渡る。住人が花を求めたのは本能だったのだ。渇きを潤すように、花を欲した。
 それは、瞬が羅依の心を手放せないのと同じだ。
 なぜ紅の隣に羅依の姿がないのか、それがずっと気にかかっていたのだ。そのことに瞬はようやく思い至った。
 頬に張りついたままの女の血が、乾いて死んでいく。袖口でこすると、瞬の肌もすり減ってしまいそうだった。
 信貴の力を借りて洞穴の入り口まであがり、瞬は眼鏡を外した。紅は瞬や由稀の姿に気づき、橋から身を乗り出す。瞬の血を見て、声をあげた。
「お前、何やられてんだよ!」
「返り血みたいなものだ、気にするな。それより羅依はどうした」
「それが」
 紅は声を張り上げることに疲れたのか、激しく咳込んでからふたたび姿を現した。
「つけられたんだ。店から絆景に戻ろうとしたら。羅依は女が五人って言ってた」
「だから、羅依はどうしたと聞いている」
「あ、いや、それが。二手にわかれようって、羅依が……」
「二手に? 一体なんのために」
「お前らに知らせようと思って……」
 次第に声が小さくなっていき、何を言っているのか聞き取れなくなった。それまで黙っていた由稀が紅を呼んだ。
「なあ、紅。あいつさ、自分が引きつけるみたいに言ったんじゃねえの。お前にはスウィッグがあるからって」
「お、おう……」
「やっぱりな、羅依が言い出しそうなことだよ」
 由稀は肩をすくめて笑う。瞬は眉を寄せて由稀の説明を待った。
「瞬、俺さ、前に言ったよな。羅依は守られるばっかりの女じゃないって。なのに、その意味をお前はわかってない。本当にあいつを大事にしたいなら、あいつの力を信じて、もっとあいつに頼るべきだったんだ。そうすれば、こんな無茶はきっとしなかった」
 澱みのない眼差しを細めて、由稀は静かに続ける。
「あいつはただ、お前に認められたいんだ」
 瞬は由稀の言葉が理解できず、反射的に小さく首を振った。
 羅依のことは認めている。彼女の強さもよく知っている。それを維持するために彼女が日々努力していることも、生活をともにしていれば嫌というほどわかる。その一方で、瞬は羅依を決してひとりで外出させず、必ず由稀や紅と一緒に行動させた。
 いくら瞬が羅依を認めていようとも、彼女の目に映る瞬の行動はそうではなかったのだ。いまさら、羅依をひとりきりにしなかった理由を話したところで、もう遅い。
「認めてるさ」
 瞬はため息を吐き出すようにこぼして、額を押さえた。
 羅依をひとりにしなかった理由、それはあのとき龍羅飛跡で感じた視線だ。絡みつくような、背中を焼くような憎悪の気配だった。息苦しくなるほどの濃さをもって、地を這う蛇のように音もなく忍び寄ってくる、そんな《気波動》でもあった。
 瞬はふと息をとめた。空を見上げて、愕然とする。
 桟楽の結界は、あの視線と同じにおいがした。
「そうか……」
 ここは結蘭の結界だ。
 なぜ踏み入ったときに気づかなかったのか、瞬は自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
『羅依は女が五人って言ってた』
 結蘭が直接、天水市街へくるとは考えにくい。五人は結蘭の配下に違いない。瞬が桟楽へ入ってしまえば、市街の監視はなくなる。結蘭はこのときを待っていたのかもしれない。
 羅依は強い。だからこそ、彼女はこれまで全力で戦うことをしてこなかった。せずとも勝てた。殺さずとも死なずに済んだのだ。しかしそれでは結蘭の配下には勝てない。殊来鬼の女は、甘くない。
 一刻も早く、この結界から抜け出て、羅依の元へ向かわねばならない。念のため、東按の身の安全も確保したほうがいい。話はまだ終わっていないのだ。
 瞬は汚れた眼鏡を投げ捨てて、由稀を見た。
「お前は先生のところへ戻ってくれ」
「連れ出さなくていいのか」
「先生の様子じゃ無理だろう。あちらが片付くまで、頼む」
「わかった」
「信貴、すまないがこいつと一緒に行ってくれ」
 追加の金を手渡し、瞬は夕天橋を見上げた。
「紅! 羅依とはどこでわかれた!」
「絆景だ! 青壁の奥の細い道なんだけど」
「大体わかる。そこからお前は城側を走ってきたんだな」
「そうだ!」
 紅が城の前を通って桟楽まで来たとしたら、羅依は紅と反対方向へ走り出した可能性が高い。その方向には絆清会の本館もある。いざというときは、助けを求めるつもりなのだろう。
「紅は梅詩亭へ行って、店を閉めさせろ! そして暗くなっても俺が戻らないときは、全員で城へ行け!」
「って、お前、羅依の居場所わかるのかよ! 俺が空から探すけど!」
 その提案は魅力的だったが、紅をもう一度絆景へ近づけるのは危険だ。殊来鬼は天水王家との関係をこれ以上悪化させないために、宮名を持つ紅は襲わないだろう。だが、それは絶対ではない。
 瞬は口の端をあげて笑った。
「大丈夫だ、俺を誰だと思ってる」
「はいはい、わかりましたよ! 梅詩亭ね、りょーかい!」
 紅は苛立ちをあらわにして欄干から離れる。直後、スウィッグの機械音が響いた。
 瞬は由稀とうなずきあって、ひとり水路へと走り出した。幅が狭い階段をもどかしく思いながら駆けおりて、水を跳ね上げながら走る。周囲の闇に青い光が飛び散って、星が舞う。服は次第にずぶ濡れになったが、構わなかった。
 茜が逝って、これ以上喪うものはもうないと思った。ひどく自由で、同じぶんだけ寂しい感覚だった。だがこの寂しさがいつまでも続くものではないと、はっきりと頭でわかっていた。それが何よりさみしかった。
 いつか瞬は茜を忘れていく。茜との思い出を懐かしむようになって、過去になる。それを寂しいと思うことも、なくなっていく。その時には、瞬はもう茜のもとにはいないのだ。死が別れではない。本当の別れはあとからやってくる。
 いくつもの死を見送って、慣れないながらに受け入れてきた。相手の死を受け入れるということは、相手との未来を捨てることだ。これから築いていくであろうすべての未来を放棄して、今ある形に満足することだ。
 弾けていく青い光を視界の隅にとどめて、瞬は結界の繋ぎ目を見据えた。腕を伸ばせば触れられるところで立ち止まり、呼吸を整える。はたしてこの結界からすんなりと出られるのか、瞬にはまだわからない。だが出なければならないのだ。
「羅依……」
 差し伸べられる手から目を逸らし続けたのは、もう何も喪いたくなかったからだ。身を斬られるような喪失感を、二度と味わわないためだった。けれどその努力はむなしい。瞬はもう知っていた。彼女の少し乾いた手に、救われた自分がいることを。
 あの海で、息を継いだのではない。瞬はあの海で一度死に、彼女の息吹でまた生まれたのだ。
 瞬には、羅依との未来を放棄することなどできない。
 今のままでは、満たされない。このままでは、世界への希望を込めてあげた産声が、明日を知らないまま枯れてしまう。はじまりが終わりになってしまう。羅依との景色を、あの海で終わらせることなどできない。
 指先でそっと結界に触れる。抵抗はない。ぐっと押すと、水飴のなかに手を押し込んだような重みがあった。少しずつ、結界にむらができ、押したところが薄くなる。手のひらが焼け付くように熱い。やがて熱は痛みに変わり、瞬は眉を揺らした。力が震えて、反撥している。《気波動》の相性が悪いせいだ。さらに腕を押すと結界に穴があき、指先が外へ出た。瞬はそのときを逃がさずに、指を鳴らした。耳をつんざく破裂音がして、結界が破損した。衝撃で水が吹き上げられる。瞬の目の前には青く輝く壁ができた。
 結界から一歩出て振り返る。あいた穴はすでに修復が始まっており、水路の水がおさまるころにはすっかり元に戻っていた。瞬は水の壁によって濡れた髪を押しやって、ふたたび走り出す。
 取り出した煙草が濡れていないことに安堵して、羅依の居場所をさぐる。
 瞬は水路に波紋を残して、すぐに消えた。