THE FATES

10.絶景(13)

 絆景の裏道は、細く入り組んでいる。目印らしいものも少なく、人通りもない。普段ひとりで出歩くことのない羅依は、不確かな記憶を頼りに角を曲がる。その度、行き止まりでないことに胸を撫で下ろした。
 紅とわかれて走り出すと、五人の気配はすべて羅依を追ってきた。宮名を持つ紅なら追われる理由があるかもしれないが、よそ者の羅依には心当たりがない。スウィッグもなく、また女だからだろうか。だとしたら、後悔させてやらなければと、羅依は体中に隠し持った武器を頭に浮かべて確認した。
 いつまでも逃げまわれるとは思っていない。できれば早々に振り切って、絆清会の扉を叩いたほうがいい。そのためには、いくらか敵の足をとめる必要があった。五人をせめて二人に減らしたい。
 直角に角を曲がって、窓枠に掴まりながら壁をよじ登る。屋上から伸びる雨樋で体を支えて、指の間に小刀を三つ挟んだ。息を整えながら、追手を待つ。
 風の音に掻き消されそうな、かすかな足音が近づいている。羅依は口元に手を寄せて、まじない代わりに口づけをした。
 羅依を見失って、女が道の真ん中で立ち止まる。さらにもうひとりが、女のそばへ駆け寄った。羅依はあとひとりを待ったが、二人の足が戻ろうとしているのを見とめて、腕を大きく振り下げて小刀を投げ飛ばした。三つのうち二つが、ひとりの肩と脚に命中する。羅依は舌打ちをして、雨樋からおりた。そばにいた女が、仲間に気を取られることなく羅依を追ってきた。
 少しずつ、距離が詰まっていく。肩越しに振り返ると、女は笑っていた。それを見て、羅依も笑う。羅依は唐突にとまり、体を低くした。女は急にはとまれず、羅依の上を飛び越えた。その隙に、両脚に短刀を突き刺した。女は低くうめいて、道に転がった。羅依は息つく間もなく、ふたたび走り出した。
 背後から、三人の女が風のように近づいてくる。先の二人より、動きが鋭い。羅依は腰に下げた短刀を抜いて、それを道先の低い壁へ投げた。短刀は羅依の目線の高さに突き刺さり、余韻に震えた。さらに速度をあげて、短刀を足がかりに壁を越える。
 着地の衝撃を膝でやわらげ、顔をあげる。しかし羅依は、進む方向に思わず迷った。
 壁の向こうに三人の気配がある。今は短刀を見ているようだが、すぐに壁を越えてくるだろう。それまで落ち着いていた呼吸が不意に荒くなって、羅依はいっそう焦りを覚えた。ここに長居はできない。走り出すしかなかった。
 道は左右と前に分かれている。羅依は乱れる息に鞭打って、正面を選んだ。すぐに道なりに横へ逸れていく。ゆるやかな曲がり角を回りながら、後ろを確認する。
 その刹那、何かが頬を掠めた。雨粒大に凝縮された《気波動》だ。直後、頬に鋭い痛みを感じる。かわしきれていなかった。
 方向感覚を失い、意識していないところで走る速度が落ちていた。何度も襲ってくる《気波動》をよけていると、あっという間に距離は縮まり、気づけば羅依の前には壁が立ち塞がっていた。先ほどのように足がかりを作って越えられるような壁ではない。高い、絶望的な壁だった。
 壁を見上げて、羅依は奥歯を噛みしめた。あの《気波動》は羅依を袋小路へ追い込むためのものだったのだ。
「抵抗しなければ、命までは取らない。とりあえず、今はね」
 三人のうち、もっとも年若い女がおもむろに口をひらいた。年は羅依と変わらないように見える。羅依は呼吸を乱さないよう、ゆっくりと振り返った。
「あたしに何の用」
「恨むなら鬼使を恨んで」
「瞬をどうするつもり」
「さあ、あなたには関係のないこと。あんな男の心配をするより、自分の身を案じるべきだと思うけど」
 樹液のように黒ずんだ褐色の髪が、胸元にかかる。女は首をかしげて、うっすらと笑ったようだった。羅依は他の二人の女にも目をやって、腰に下げた小刀や短刀の重さを確かめた。大丈夫、戦える。羅依は自分を鼓舞した。
 手前に立つ女は両手に大きく反った刀を持っていた。後ろの二人は何も持っていないが、ひとりは術者で、もう一人は手に嵌めた鉄製の籠手から体術を使うと思われた。
 術者へうかつに手出しすると、罠にかかる危険がある。まずは間合いの不利な手前の女から倒すべきだろう。羅依は靴先をほんの少し、そちらへ開いた。
 その瞬間に《気波動》が打ち込まれ、羅依は立っていた場所を離れた。一気に手前の女との距離を詰め、両手に握った短刀で手首を切る。斬り落とすようなことはしない。だがもう二度と、刀を握ることはできないだろう。女は顔を歪めたが声を上げることはせず、羅依を睨みつけながら刀を落とした。横をすり抜けようとすると、女は地面に落ちた刀を足で踏んで跳ねさせ、羅依へと飛ばした。上半身の動きだけで刀をよける。羅依は飛び上がって女の顔を蹴り飛ばし、宙に浮いた状態から壁際で震えるばかりの術者の肩へ短刀を投げ込んだ。
「きゃっ……」
 甲高い声で短い悲鳴をあげて、地面にうずくまる。反射的に短刀を抜こうとするが、ぽろぽろと涙を流すばかりだった。
 着地した羅依の目の前を、蹴りが掠める。体を仰け反らせてかわし、ねじって振りあがった脚で蹴りつける。だがそれは読まれていたのか、軽やかにいなされ、脇腹に突きをくらった。
 かろうじて骨はかばった。とっさの判断だったが、まともに受けていれば肋骨を砕かれていただろう。もちろん、それほどの衝撃を受ければ、内臓は無事ではない。体の中が一瞬で攪拌されるような痛みと気持ち悪さが、羅依を襲った。ひどい目眩が起こり、視界が歪む。それでも羅依は小刀を指に挟んで投げた。
「こざかしいっ!」
 鉄の籠手ですべて薙ぎ払われ、膝で腹を蹴り上げられる。とっさに腕で防御をすると、今度こそ骨の折れる感触がした。後ろへ飛びのいて、そばに落ちていた敵の刀を投げつける。籠手の女はそれを真っ二つに折りながら払って、道に立ち塞がった。
 羅依は腰に手をやって、舌打ちをもらした。短刀がもうない。小刀はまだいくつかあったが、先ほどの様子では気を引く程度にしかならない。考えている間にも、女は一歩ずつ羅依へ近づいていた。痛みが泥のようになって、羅依の体を重く鈍くする。体中が熱くなり、妙な汗が額に浮いた。だが背中だけがうすら寒い。
 背後で、刀を持っていた女の動く気配がする。なるべく顔を動かさないようにして、周囲を見渡す。もう一振り、刀があったはずだ。あの女が蹴り上げた刀が。
「よそ見とは、余裕だな!」
 鉄の籠手が目の前に迫る。羅依は地面に転がるようにして回避し、壁際に落ちていた刀に飛びついた。先が欠けていたが、ないよりずっといい。刀にもたれるようにして立ち上がり、ゆっくりと切っ先をあげた。
 狭い袋小路には、術者のすすり泣く声が響いている。籠手の女が仲間を睨みつけた。
「だからお前は連れてきたくなかったのだ。泣いてばかりの女など、殊来鬼の恥だ」
「でも、でも、とっても痛いんだもの」
「惰弱な!」
 羅依へ向かっていた女は立ち止まり、術者へと腕を振り上げた。
「ひゃっ」
 か細い声をもらして、術者は片腕で頭をかばった。だが彼女がぶたれることはなかった。術者が顔をあげると、籠手の女は腕を上げたまま動きをとめていた。拳の隙間から血が滲み出す。ゆっくり手をひらくと、そこには羅依の小刀が突き刺さっていた。手首や手の甲は籠手に守られていても、手のひらは剥き身のままだった。
「紫の。こういうときは黙って成り行きを見守るものだ」
「ごめん。でも仲間割れはよくないよ」
「そちらには関係ないことだろう。弱いのがいけない」
「それは、違う」
 羅依は砂の混じった唾を吐き捨て、片手で刀を構えた。長い髪が首筋にまとわりつく。痛みがみるみる膨れあがっていく。だがそれがどうした。羅依は泣き言をもらす体に鞭打って、女を見た。
「他人の弱さは悪じゃない。悪なのは、自分の弱さだけだから」
 どこまでも強く強くなりたい。そうして守りたい。彼を守れる自分になりたい。そうやって、彼のそばに在り続ける理由と自信がほしかった。
 衣擦れの音がして、首筋に風が触れる。
「私の刀、返して」
 剣士の女が立ち上がり、羅依の背後に立っていた。女は反射的に羅依の腕を掴もうとしたが、腱を切られた手ではどうにもならない。
「いいよ、返すよ」
 羅依は刀を逆手に持ち替え、女の脚に突き立てた。
「きさま……!」
 力の入らない腕で羅依を殴りつけようとするが、前に踏み出した脚が痛んで、女はたまらずうずくまった。鋭い眼差しで羅依を睨みあげながら、女は泣いていた。腕も脚も、どちらの傷も命を奪うほどのものではない。だが彼女の剣士としての命はすでに絶たれている。
 彼女の涙を冷たく見おろし、羅依は迫る鉄の拳をかわした。間合いさえ詰められなければ、致命傷は受けない。だが攻撃から逃げ出すことは、できそうになかった。無理に離脱しようとすれば、その隙を狙われる。休む間のない拳から逃げつつ、ただ待つしかない。
 女の拳が鈍る気配は微塵もない。彼女の最大の武器は、むしろこの無尽蔵な体力だ。しかしだからこそ、これについていけば、必ず女のほうから痺れを切らすはずなのだ。骨の折れた腕をかばい、気力だけで痛みを押さえ込む。
 それは呆れるほど長い時間だったかもしれないし、瞬きをするあいだの短い時間だったかもしれない。だが、その時がきた。
 乱れることなく拳を打ち込み続けた女は、眉を歪めて高く足をあげた。踵が空から降ってくる。羅依は思い切って女の懐に入り込み、体を低くして軸足に飛びついた。肩の上に踵が落ちてくる。だが女の蹴りは拳に比べると軽かった。だからこそ、腕は骨が折れる程度で済んだのだ。
 羅依は一緒になって地面に倒れこみ、すぐに弾かれるようにして飛び起きた。そして一気に走り出す。
 この体でどこまで走れるかわからない。そもそも道だってわからない。できる限り時間を稼いで、できる限り彼女らから離れるしかない。
 ほんの少しの気の緩みで、足がもつれそうになる。後ろから追いかけてくる気配はないが、振り返って確認する勇気はなかった。がむしゃらに走るしか、そのときの羅依にはできなかった。
 苦しくなった息をこらえて、角を曲がる。だがその先に広がっていた光景を目にして、羅依は呆然とした。
 そこには、先ほどの袋小路があった。
「うそ……」
 たとえ道がわからなくても、同じところへ帰ってくるようなへまはしない。この袋小路から離れるために、ここを起点にした地図を頭に思い浮かべながら走っていた。
 女が仁王立ちになって、笑っていた。
「おかえり、紫の」
「なんで……」
「殺さなかったのが、失敗だったな」
 壁際で寄り添う剣士と術者を指差し、女は続けた。
「あれは二人でひとつの術者なのだ。どちらかを殺していれば、この迷途の術から逃れられたものを」
「迷途の、術……?」
「ここからは、もう逃れられないのだ。紫の」
「まさか」
「そう思うなら、もう一度ここから逃げ出してみたらどうだ。どうせまた、ここへ帰ってくることになる。こいつらを殺さない限りな」
 腹に響く低い声で笑って、女は羅依へ近づいた。とっさにうしろへ下がる。逃げるために彼女らを殺すことは、どうしてもしたくなかった。それは自分の信念や流儀を曲げることになってしまう。
 逃げるしかない。結局、ここへ戻ってくるのだとしても、走るしかない。そう思いはするが、羅依の足は重かった。走れ、逃げろと体に呼びかけるが、ゆっくり近づいてくる女に合わせて後退するばかりだ。膝が震えて、走り出すことができない。
「くっ……」
 羅依は残っていた最後の小刀を自らの脚に突き刺して、倒れそうになりながら逃げ出した。だがすぐにつまずいて、道に転がった。立ち上がって、ふたたび走り出そうとするところで、長い髪を掴まれた。
「こんな長い髪、男を誘うしか役に立たんな」
「は、なせっ」
 力任せに引っ張られ、羅依は束ねた髪の根元を押さえた。頭が皮膚ごと剥がされそうな痛みだった。
「お前は鬼使をおびき出すための大切な駒だ。我々とともに来てもらう」
「瞬は、瞬はあたしのために、なんて、動かない」
「それはどうかな。噂は聞いている。滅多と女連れで歩かないあの男が、お前だけは違うらしいじゃないか。一緒に住んでいるんだろう」
「ちがう、ちがう」
 否定しながら、羅依は胸のうちに広がっていく苦いものに顔を歪めた。
「瞬はこない、絶対に。そんなの、来るはずがない!」
 口にすると、涙がこぼれた。
「あたしは、あたしは、あいつにとって……!」
 羅依は革靴の底を剥いで、中に仕込んであった短刀を手に握った。
「あいつにとって……っ!」
 髪を束ねた根元にあてがって、勢いよく髪を切り落とす。引き止めていたものがなくなり、羅依の体は前方へ投げ出された。地面に転がると、頬に短い髪が触れた。涙と汗で、肌にはりつく。
 逃げなければと思うが、体が動かない。体を動かすための心が、もう動かないのだ。ただただ、涙が溢れてくる。
 瞬、瞬、瞬、と名を呼んだ。助けてほしいのではない。助けたいのだ、どうか無事であってほしい。そしてできれば、呼びかけたぶんだけ呼んでほしかった。彼の低すぎない声で、ためらうような眼差しで、羅依、と。
 すぐそばに人影が落ち、羅依は観念して瞼を閉じた。口の中に取り残された呟きが、胸の奥へ落ちていく。
 好きという、その一言が溶けていく。
 世界が闇に染まる瞬間。
 砂糖菓子のように甘い、いとしい煙草の香りがした。