THE FATES

10.絶景(14)

 夢を見ていた。何もない、小石すらない道を歩く夢だった。まわりはただ白いばかりで、果ては見えない。道はほんの少し灰色がかっていたが、意識をした途端に白へ消えた。
 歩けども歩けども、前へ進んでいる手ごたえはない。目印がないので、いまいる場所とさっきまでいた場所の区別がつかない。それでも羅依は歩くしかなかった。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのかわからない。いまの彼女には歩く以外に生きる方法がなかった。
 強い風が横から吹きつけて、羅依は髪を押さえた。だが、いつもなら首筋にまとわりつく長い髪はなく、顔をふちどる髪が頬を掠めただけだった。指先に髪を絡めて思い出す。そうだ、髪は切り落としたのだ。逃げるために、生きるために。
 白い世界がぼやける。瞬きをすると、涙がひとつ落ちた。
 羅依は立ち止まり、両手で顔を覆った。髪などまた伸ばせばいい。惜しいものではない。そう心に言い聞かせても、涙はとまらなかった。あとからあとからあふれてきた。頬に触れても、手を握っても、体温を感じられない。ただ、とまらない涙だけが熱かった。受けとめる手のひらが溶けそうなほど、熱かった。
 何かの軋む音がする。顔をあげると、白い空がひび割れて剥がれていた。向こうには闇が潜んでいる。破片が落ちてきては地面に大きな穴をあけた。
 声をあげようとすれば、出たかもしれない。歩こうと思えば、歩けただろう。世界の崩壊はそれで止まったに違いない。だがそのことにどれほどの意味があるのか。
 黒く塗り変わっていく景色を眺めて、羅依は小さく嗚咽をもらした。

 息苦しさに目を覚まし、羅依はそっと瞼をひらいた。頬に触れると涙のあとがあった。こわばっていた全身が、溶け出すように弛緩していく。どうやら自分はまだ生きているらしかった。
 暗い部屋の天井が、ぼんやりと目に映りこむ。
 寝台のようだが、見知らぬ場所だった。だが不思議と危険は感じられない。自然と体が和らいでいく。羅依はやわらかな枕に顔をうずめ、胸元までかけられた毛布を無意識に引き寄せた。ほのかに甘い香りがする。
「あ……」
 驚きだったのか喜びだったのか、羅依は掠れた吐息をこぼした。かすかに痛む腕で、懸命に毛布を抱きしめる。胸が破裂しそうなほど、香りを吸いこむ。瞬だ、瞬のにおいがする。
 額にそっと手が置かれ、羅依は薄闇に慣れてきた目で見上げた。そこには、寝台に腰かける瞬がいた。
「羅依」
 ずっと聞きたかった声が、名を呼ぶ。羅依は毛布から顔を覗かせ、瞬を見つめた。窓に滲む夜の灯りが邪魔をして、彼の表情がよく見えない。笑っているようにも見えるし、怒っているようにも見える。だが、それはもう、どちらでもよかった。
「瞬、あたし……」
 思うように声が出ない。羅依は大きく息を吸い込んだが、激しくむせるだけだった。瞬の指先が、羅依の唇に触れる。
「無理に話さなくていい。十日間も眠ってたんだ。体力も落ちてる」
「え……」
「覚えて、いないか」
 ささやかな光に彩られ、瞬の薄茶色の髪がほのかにきらめく。羅依はゆるく首を振った。何の話をしているのかわからない。
 瞬は指の背で羅依の頬を撫でて、かすかに笑った。
「それなら、それでいい」
「全然、よくない。教えてよ」
 起き上がろうとすると、瞬にとめられた。だが羅依はその手を振り払って、上半身を起こした。
 なかばもたれかかるようになりながら、瞬の深緑の瞳を見つめる。闇も澱みも飲み干した、深い眼差しだった。何ものにも染まらない孤高の美しさがそこにある。強く脆い、至上の艶めきだ。その美しい色彩が歪められる。どうかしたのかと問いかけるより早く、羅依は強く抱きしめられた。
「お、おい、瞬……?」
 身じろぎをするが、瞬は離れようとしなかった。羅依は腕のなかに閉じ込められ、息をひそめた。
「応急処置は紅がした。それからすぐ、王族付きの術者を呼んで治療をしてもらったんだ。術中、お前は何度もうなされていたから、てっきり意識があるものだと思っていた」
 ひとつ言葉を紡ぐたび、瞬の吐息が肌に触れた。同じように瞬に自分の吐息が当たるのかと思うと、自然に呼吸をすることもできなくなった。息苦しい。だがそれ以上に恥ずかしい。
 あらためて腕から逃れようとすると、瞬は寝台へあがり、さらに深く羅依を抱きしめた。
「もう、起きないかと思った」
「だ、大丈夫、あたし頑丈だから」
 慌てて喋りだしたせいで、舌を噛みそうになる。羅依はそれをごまかすように言葉を重ねた。
「ほら、紅よりずっと体力あるし、久暉みたいな訳ありでもないし、体だっていつも鍛えて……」
 笑おうとすると、涙が出た。自分の涙かと疑うほど、何の前触れもなかった。路地でのことを思い出そうとすると、ひどい頭痛がする。だが今はもう、痛いことも悲しいこともない。むしろあたたかく心地いい。なのに、なぜ。
「やだな、別に、もう平気なのに――」
「羅依」
 何度も笑おうとする羅依の言葉を遮って、瞬はすこし体を離した。両手で頬を撫でられ、耳を塞がれる。羅依は瞬の手から逃れられず、されるがままに額をあわせた。目をそらす隙間もないほど近くに深緑の瞳を見つめ、羅依は目眩を覚えた。きつく目を閉じる。
「羅依」
「うん」
「羅依」
「ん……」
「悪かった」
 瞬の指先が、羅依の短くなった髪を優しく掴んだ。壊れそうな硝子細工を扱うように、すぐにはじけて消えてしまう泡を包み込むように、優しく甘い手つきだった。その手に癒されて、溶かされていく。
 羅依は顔をしわくちゃにして、子どものように声をあげて泣いた。恐怖、孤独、無力、押し込めていたものが、一斉に溢れだした。
「瞬っ、あ、あたし、あたし……」
 伝えたいことがたくさんあるが、どれも言葉にならなかった。路地でしたように、瞬の名を呼んで泣くしかできない。しかし今は、応えてくれる声があった。名を呼び返してくれる彼がいた。羅依は瞬の服にしがみついて、肩を震わせた。瞬は羅依の頭を抱き寄せて、何度も髪を撫でた。
「遅くなってごめん、羅依」
「瞬のせいじゃない。あたしが、弱かっただけ」
「そのことだけじゃない。覚えてるか、前に俺が言ったこと」
 羅依が腕のなかで顔をあげて首をかしげると、瞬は寂しげに微笑んだ。
「あの海で」
「うみ……」
 耳の底に、アシリカの潮騒がよみがえる。
 海は、青黒く揺れていた。
『まだ礼は言わない』
 服は濡れて重くなり、肌は海水でべたついて、体はひどい倦怠感に襲われた。だがそんな不快感を嘲笑うような、かなしい言葉だった。感謝されるために助けたわけではない。彼に頼まれたわけでもない。助けたのは羅依自身のためだった。だが、彼に生きる意志がないことを知って、たまらなくなった。どうせなら、なぜ助けたともっと責められたかった。ずっとずっと、顔をあわせるたびになじられたかった。そうすることで、彼をこちら側へ引き止めたかったのだ。
 生きているほうの世界へ。
 手を伸ばせば触れられる景色のなかに。
 羅依は小さくうなずいた。
「覚えてる。忘れるはずない」
「よかった」
 花が綻ぶように微笑んで、瞬は羅依の肩に額を押し付けた。しがみつくように体を寄せて、息を継ぐ。
「ありがとう、俺をここへ連れてきてくれて」
「瞬……」
 羅依はしばらく逡巡してから、瞬がしてくれたように彼の髪を撫でた。薄茶色の髪は赤ん坊のようにやわらかく、天水の砂のようにさらさらと指の間をすりぬけていく。髪の一本までが彼のすべてなのだと思うと、羅依はいとしさに胸が震えた。