THE FATES

10.絶景(15)

 十日間眠っていたと瞬は言った。いつ目覚めるかわからないなかで、羅依が起きたそのときに瞬がそばにいたのは、決して偶然ではないはずだ。そっと触れた肩は、少女のように頼りない。
「瞬、ちゃんと寝てた?」
 問いかけに、瞬は額を当てたまま首を横に振った。
「じゃあ、ちゃんと食べた?」
 しばらく間があって、また同じように首を振る。
「子どもみたいだな、瞬は」
 思ったことがするりと口をついて出た。言ってしまってから、すぐに後悔する。
「ご、ごめん、えっと……、悪意はないんだ。ただ、その」
「わかってるよ。それに、正しい」
 瞬は顔をかたむけて、口元に笑みを浮かべた。裏表のない、委ねきった微笑みだった。こんなにも安心しきった瞬を見るのは、はじめてのことだ。羅依は全身の体温が一気に上昇するのを感じた。瞬を形容するには不釣合いかもしれないが、羅依は素直にかわいいと思ったのだった。
 いつからこんなに魅かれていたのだろう。考えてみたが、すぐにそのくだらなさに気づく。いつでもいい。いまがこんなにいとおしい。
「瞬、あたし……」
 胸が高鳴って、自分の声すら遠く聞こえる。乾いた息がもれるばかりで、言葉が声にならない。それでも羅依は諦められなかった。あのとき胸に沈んだ想いを、いま伝えるのだ。
「あたし、瞬のこと、……えっと、あの……」
 ふと肩が軽くなったと思うと、唇に何かが触れた。それが瞬の唇だと気づくまで、それほどかからなかった。
 羅依はあまりに驚いて、声をあげることすらできなかった。瞬きを繰り返し、目の前の瞬を見つめる。
 瞬は触れあっていただけの唇を離して、鼻先を寄せ合った。
「羅依」
「う、うん」
「俺のそばにいてくれないか」
 すこし掠れた低すぎない声が、吐息まじりに囁いた。砂糖菓子のように甘く、煙のようにやわらかいささめきだった。羅依の心は温められた砂糖粒のように溶けて、熱に焦がされていく。
「俺は愛なんて信じていない。でもお前を手放したくないこの気持ちを、見ない振りはもうできない」
 蜜に濡れたような眼差しは、浅く伏せられ翳っている。長い睫毛の影が冴え冴えとして肌に落ちていた。
「ずっとそばにいてほしい、羅依」
 言葉は最後まで続かず、やわらかい口づけに消えた。さらに奥深いところへ瞬が踏み込もうとして、羅依は瞬の体を押し返した。
「あ、あたし、瞬のこと守りたいんだ! 守らせてほしいんだ!」
「羅依……?」
「お前を生かすのも殺すのも、あたしだけだから、だから、他の誰にも手出しさせたくない。あたしだけが、瞬の、瞬の……」
「ああ、いいよ。お前のものにしてくれよ」
 そう言って微笑むものの、瞬の言葉は曖昧に漂った。
「瞬?」
「だから、もう無茶はするな」
 瞬は羅依の腕を掴んで、声を詰まらせた。それはあの鉄籠手を嵌めた女に折られたほうの腕だった。羅依は短く首を振った。
「無茶じゃない、大丈夫。今度は負け――」
「俺から、もう何も奪うな」
 はっきりと主張をするときでも、瞬はほとんど声を荒げることがない。口調はいつも静かだった。その彼が、抑圧した声で語調を強めた。きっと、泣けない彼が泣いているのだ。羅依は瞬の頬に指先で触れた。
「瞬……」
「ひとりに、しないでくれ」
 離れていた短いときを惜しむように、ふたつの唇が吸いついた。先ほどよりも深く、強く、押し当てられる。瞬の唇は、あの海で重ねたときと同じで乾いていた。砂まじりの口づけは、羅依が瞬に呼びかけるばかりのものだったが、いまは違う。包みの紐をゆるゆると解くように、瞬の舌先が羅依をひらかせていく。これまで味わったことのない感触が広がり、羅依は水へもぐるときのように息をとめた。
 未知の森へ踏み込むときは、いつだって怖い。けれど大切な誰かがそばにいてくれたなら。剣よりも、彼の手を握っていられたなら。
 何も、こわくない。
 はじめて会った日からずっと、彼の背中を追ってきた。どんなに手を伸ばしても届かず、たとえ近くに見えても決して彼には触れられなかった。そこには誰も寄せつけない、深い溝があったのだ。
 ひとりで生きられないくせに、ひとりになろうとする。傷つけたくない、傷つけられたくない。そのために自ら傷を負い続ける。彼の静かな自傷行為は羅依をも傷つけていたと、彼は知っているのだろうか。
 息苦しさに耐えかねてわずかに口をひらくと、瞬がさらに奥まで咬みついてきた。抱きしめられたまま寝台に倒れこみ、毛布に沈む。互いの両手を強く握り合わせ、飢え続けた心を癒すように何度も何度も繰り返し口づけた。
 腕で、髪で、唇で、瞬を感じとる。ふと目を開けると、瞬と目が合った。
「あ……」
 途端に頬が熱くなり、羅依は顔をそむけた。体中が心臓になったように、激しく鼓動が高鳴っている。全速力で走ったときのように息が弾み、首筋には汗が滲んだ。そこへ、瞬の唇が触れた。汗をかくほど火照った羅依より、もっとずっと熱い舌先だった。何か別の生き物のように、羅依の肌を這う。ざらついた感触が動くたび足の指が小さく跳ねて、耳朶を咬まれると声にならない息がもれた。
 繋いでいたはずの瞬の手が不意に離れ、羅依の胸元に触れた。服越しに、手のひらのぬくもりが伝わってくる。心地いい。だが羅依は慌てて体を起こし、瞬の手から逃れた。
「だ、だめ……っ」
「どうして?」
 瞬は払われた手をそのままにして、首をかしげた。羅依はためらいながら口をひらく。
「その、あたし、全然女の子らしくないから。手だって大きいし、剣握るからタコとかできてるし……、む、む、胸だって――」
 鼻先に口づけられ、羅依は言葉を飲み込んだ。そろりと瞬を見上げると、額にも唇が添えられる。
「かわいいよ」
 そう告げる瞬のほうがずっとずっと可憐に笑う。羅依は瞬きも忘れて彼に見とれた。
「羅依の手も、唇も、耳も、頬も、髪も、首筋も、胸も、爪の先まで全部、かわいいよ。いとしくて、たまらない」
「瞬」
「うん?」
「ずるい、と思う」
「なにが」
「瞬のほうがずっときれいでかわいいのに……」
 自分の体を見おろして、羅依は消え入りそうに呟いた。瞬が小さく首を振る。
「同じだよ」
「え?」
「羅依が思うように、俺も羅依のことかわいいって思ってる」
 本当か問いかけようとすると、ふたたび寝台へ押し付けられた。下唇を甘咬みされて、熱に酔う。腹の上に瞬の手が触れて、思わず体がこわばる。
「楽にして」
 噛んで含めるように囁かれ、肩を軽く撫でられる。それだけで、不思議なほど力みが抜けた。服がはだけて、涼やかな夜に肌があらわになる。恥ずかしさが掠めたが、決して逸らされない瞬の眼差しに身を委ね、羅依はきつく目を閉じた。
 ささやかな胸に瞬の手のぬくもりが広がる。その体温はやがて濡れて、波打っていく。瞬の唇と指先と眼差しが、羅依を時化の海へと導いていく。嵐のなかを泳ぐような激しさと、大波にあおられる小舟のような不安定さが羅依を奥底から揺り動かす。必死になって理性という櫂にしがみつくが、大海原はそれを嘲笑うように深海へと引き込んだ。
 目の端に涙が浮かんで、視界が歪む。羅依は溺れながら腕をいっぱいに伸ばし、瞬の首に抱きついた。甘い、砂糖菓子のような香りと、互いの体から滲むしずくが混ざりあって、大きく吸い込むと噎せ返るようだった。あくどい色をした大輪の花のように、生々しいにおいだ。人を切ったときのにおいにも似ている。生きることも、死ぬことも、変わらないのだろう。生きようとすれば死が、死のうとすれば生が邪魔をする。体をあわせることは、生死のあいだをたゆたう行為に思えた。
 一体どのくらい、そうやっていたのかわからない。天水の時間が本当に止まってしまったように感じられて、羅依は思ったままを瞬に話した。瞬はそれならそれで構わないと返し、さらに赤裸々に求めた。そうやって溶けあい、夜にあふれた。
 瞼の上を光がそよぐ。羅依はうっすらと目をひらいてまどろんだ。いつのまにか眠っていたらしい。天井は朝の光で白く染まり、ときおり水面のように揺れて輝いた。
 毛布の端を口元まで引き寄せ、羅依は隣で眠る瞬を見つめた。窓に背を向けて羅依に抱きつき、少し体を丸めている。ともに旅をしてきたが、はじめて見る寝顔だった。整った顔も、眠っているとあどけない。普段の瞬ならば羅依の気配を感じて起きるだろうが、その様子もなかった。安心しきっているのが全身からわかる。頼られていることがひしひしと伝わってきて、羅依はそっと瞬の腕に口づけた。
 体中に、瞬の触れた感触が残っている。指や唇はもちろん、彼の肌も汗もすべて羅依とまざりあってわかちあった。羅依の体は瞬のものでもあり、瞬の体は羅依のものでもあった。
 閉ざされた深緑の瞳を思って、飽きることなく寝顔を眺める。瞼にかかった髪を指ですき、乾いた唇を指でなぞる。頬をつつくと、嫌がってわずかに眉を歪めた。
 瞬の体は傷だらけだった。浅いものから深いものまで、数え切れない。皮膚が引き攣れているものもあり、見ているだけで痛々しい。これが瞬の生きてきた道のりなのだ。傷つけて、傷つけられて。そうすることでしか、人と関わってくることができなかった。羅依は肩口の傷を撫でて、頬を寄せた。自分とは異なる体温を抱きしめると、深い眠りにも似た安らぎが生まれた。
 喉に渇きを覚えて羅依は体を起こした。毛布で胸元を隠しながら、服を探す。しかし床に落ちているのを見つけるより先に、羅依は視線を奪われて動けなくなった。
 壁いっぱいの窓に、天水の景色が広がっている。灰色の空と、地平をわける淡い砂漠と、そして天水王家の象徴である水輝城が佇んでいる。
 そこに瞬のもっとも深い傷があった。
 瞬ならば、窓に映る景色をいくらでも操作できたはずだ。できなくとも、わざわざここに住む理由はどこにもない。おそらく彼はあえてこの景色を眺め続けたのだ。
 一族の仇である、王家の旗を。
 羅依はすぐそばで眠る瞬を見おろした。
「瞬……」
 端整な横顔に、苦悶の色はない。彼はいま、穏やかな眠りのなかにある。この絶景に背を向けて、彼はどこへ行こうとしているのだろう。
 薄い雲から光が透けて、城の壁面に伝い落ちる。それが反射して揺らめいた。水輝城という名の由来に思い至る。
「きれいだろう」
 声がしたので見遣ると、瞬が肩越しに城を見つめていた。
「瞬、どうして」
 問いに瞬は答えなかった。ただその顔には、人形のような冷たさが張りついていた。羅依は重ねて尋ねることはしなかった。
 そうまでして瞬が背負ったものを思うと、景色が美しいほどに心が引き裂かれてしまいそうだった。
 羅依は瞬の顔を自分のほうへ向けて、たどたどしく口づけた。瞬は目を丸くして驚いたが、しばらくしてから匂いたつような笑みを浮かべた。
「ああ、ここにもっときれいな人がいた」
「なんだよ、それ」
 二人は笑いあって、夜を繰り返すように指を絡めた。

 いまが永遠になればいい。永遠が一瞬になって続けばいい。
 天水のように。ずっと変わらないときを過ごしていたかった。

 しかし時は進む。天水の時間は止まっていても、人は生き、老い、死ぬ。
 羅依はふと、あの日の五人の追手がどうなったのか気になったが、途切れることのない口づけにとらわれ、機会を逸した。
 結局、羅依が瞬に尋ねることは二度となかった。

10章:絶景・終