THE FATES

11.狂気(1)

 ふと歩みをとめて、灰色に均された空を見あげる。雪国育ちの由稀にとって曇天は珍しくない。だが天水の空は揺らがない。震えない。真っ白い雪が降ることもない。何もない、光も影もない空だった。
 ため息をつくことすら気が重く、由稀はふたたび歩きだした。はじめのころは違和感のあった空も、今はすっかり慣れてしまった。
 手には包みが提げられていた。中には真新しい包帯と、簡単な食事が入っている。由稀はそれを瞬の部屋へ届ける途中だった。
 羅依が襲われた日から、三日がたった。あれから由稀と紅は梅詩亭へ移り、瞬だけが眠り続ける羅依とともに部屋に残った。彼女が目を覚ましたという連絡はまだない。
 あの悪夢のような日が、たった三日前のこととは思えなかった。もっとずっと前の、十日も二十日も昔のことのようだ。だが遠い記憶である実感とは裏腹に、ひどく鮮明にあの日のことを思い出せるのだった。
 あの日、桟楽の入口で瞬と別れた由稀は、信貴とともに東按のもとへとってかえした。由稀には東按の話がどれほど重要か理解できなかったが、瞬の判断を信じていた。彼が東按を守れと言うなら、それだけの価値があるのだ。由稀は信貴を置き去りにするように、先を走った。
 だが傾きかけた汚い小屋へついたとき、さっきまでなかった臭いに気がついて由稀は中へ入るのをためらった。あとから追いついてきた信貴が由稀を押しのけて小屋を覗きこむ。
「遅かったな」
 肩越しに振り返って信貴は続けた。
「死んでいる」
 はっきりそう告げられても、由稀は驚かなかったし実感もわかなかった。漂ってくるひどい臭いに顔を歪め、嗅いだことのあるものと頭の中で照らし合わせる。魚の腐った臭い、傷口が膿んだときの臭い、水に挿したまま饐えた花の臭い。どれも似通ってはいたが、どれも違っていた。いのちの焦げつきのような、死に切れなかった血が喘いでいる。その悲鳴がひどい臭いになって立ち込めていた。
 由稀はただ、音にならないかすかな声でそうかとこたえるだけだった。
 桟楽にとどまる理由はなくなった。むしろ長居するのは危険だ。信貴の言葉に促され、由稀は桟楽をあとにした。
 瞬と耶守との三人で歩いた地下水路を、ひとりで駆ける。足元には青い道が伸び、光の足りない天井は黒く閉ざされていた。音の反響から広い場所であることは予想がつくが、実際どれほどの高さがあるかはわからない。想像以上の高さかもしれないし、手を伸ばせば届くのかもしれない。そう思うと急に不安が押し寄せた。東按の小屋の臭いがよみがえる。胸のむかつきを走ることでごまかす。無意味に、声をあげた。一瞬、蜘蛛の巣のようなかすかな抵抗を感じたが、由稀は立ちどまることなく水路を駆け抜けた。道先に青の終わりが見えたころには、腰のあたりまでが水しぶきでずぶ濡れになっていた。
 これから、はたしてどこへ向かえばいいのか、由稀はぼんやりと考える。地下水路を抜けて地上へ上がったとしても、そこからどうすればいいのかがわからない。ひとまず梅詩亭へ行くべきなのか。それとも絆清会へ情報を求めるべきか。瞬ならどうするだろうか、紅ならどうするだろうかと考えてみるが、由稀には彼らと同じようにはできない。瞬のように天水を支配しているわけでもなく、紅のように学問に通じ移動手段があるわけでもない。青竜のように仕えるべきあるじがいるわけでもなく、久暉のように救いたい故郷があるわけでもない。羅依のように強くもなければ、詩桜のように歌えもしない。
 天水まで久暉と青竜を追ってきて、彼らと再会して事情を聞き、ともに歩み出すことで由稀自身も前へ進んでいるように思っていた。だがその動力は由稀にはない。それらは久暉や青竜の力によるもので、由稀は彼らの馬車に同乗しただけだ。
 はたしてどこへ行けば。そして何をすれば。
 振り返ると、ゆるやかに曲がりながら水路が続いていた。波紋は次第に水に溶け、隙間なく青と黒に塗りわけられる。混ざりあうことも揺らぐこともない、時をとめられた場所、そこは青く凍りついた天水の心臓だった。
 背後から足音が響いた。誰かが階段をおりてくる。由稀は東按のことをとっさに思い出し、陰に身を潜めた。人数はおそらくひとりだが、足音はひとつひとつが重く、体の大きな人物のようだ。由稀は腰にさしていた短剣へ手をかけて、足音のあるじを待つ。
 ぱしゃんと音を立てて、足音が水路へおりた。下からの光に照らされた姿を見て、由稀は間の抜けた声を出す。
「十和っ」
「おお、由稀! 探しにきたんだ」
 そこにいたのは、絆清会の十和だった。由稀は彼にも通じるよう、片言ながら天水の言葉で問う。
「探す、俺を?」
「そうだ。無事でよかった」
 十和はつぎはぎだらけの顔を笑みに歪めた。普段なら大らかなその表情も、いまは縫い合わせる場所を間違えたように引き攣っている。地上で何かあったことは、すぐにわかった。それが羅依に関わることであるとも。
「みんなのところへ案内してくれるのか」
 しかし十和は答えない。由稀は十和の腕を掴んだ。
「なあ、十和」
「俺は紅からお前の保護を頼まれた。勝手なことはできない」
 親しみやすい十和の瞳から、やわらかさが消えていく。冷たく厳しい、絆清会の顔になる。しかし由稀は引き下がらなかった。
「羅依に何かあったんだろ。頼む」
 由稀は体を直角に折って頭を下げた。そうするほかに、由稀ができることはなかった。そのままでしばらく息をとめていると、十和のため息が聞こえた。
「俺はお前がどんなふうに生きてきたか知らないが、おそらくこれまででもっとも悲惨な光景を目にするだろう。由稀、それでもお前はそこへ行くか」
「ああ、行く。連れていってくれ」
 顔をあげて由稀は低い声で言った。笑顔を浮かべる余裕はなかった。
「わかった」
 十和はゆっくりうなずいて、先に階段をあがっていった。

 絆景の道は細く入り組んでいる。一歩路地へ踏み込むと、大きな獣に飲みこまれたような気味悪さがあった。
 由稀は真っ直ぐ部屋へは行かず、細い路地を曲がった。手提げ袋の食事が傷まないか気にはなったが、深く考えることはしなかった。どうせ瞬は食事に手をつけないだろうし、梅煉もそれをわかっている。おそらくこれは真小太の食事になる。多少傷んでいようと真小太はきれいに平らげてくれる。問題なかった。
 道はふいに広がり、やがて行き止まりにつきあたった。そこにはもう、何もない。ただの行き止まりだ。だがじっと見つめていると、三日前の景色が浮かびあがった。

 十和に連れられて向かった先は絆清会の本館からほど近い、廃墟の多い一帯だった。道の舗装は剥げて土があらわになり、崩れかかった建物も珍しくない。人々の生活から長らく離れていたせいか、街の奥深い場所はすっかり朽ち果てていた。動きのない、色のない場所だった。だが最後の角を曲がった行き止まりで由稀が目にしたのは、それまでとは対照的な生々しい光景だった。
 自然と足がとまる。すべてが見渡せる場所で由稀は言葉を失った。背後に十和の気配を感じる。彼は何も言わずに由稀を追い越していった。
 高い壁に阻まれた行き止まりは、赤く塗り潰されていた。建物の壁にはぼろぼろになった服が剣で縫いとめられている。だが風が吹いても揺らぐことがない。なぜなら服の中には、人がいた。頭部はなく、脚も膝から下が見当たらない。壁を伝って流れ落ちた血が、いまだ地面を広がり続けている。由稀には不思議だった。死からあぶれてきたものが死など知らぬ素振り動いている。そこには死という生があった。
 ほかに、上半身と下半身がわかれてしまった死体や、中から破裂したように原形をとどめていない死体など、すべてで四人分の死があった。そのまわりを検分や処理のために絆清会の男たちが行き交っている。野次馬も相当数いたが、どれも建物の陰から覗き見るだけで出てこようとはしなかった。
 噎せ返るような臭いがかたまりになって押し寄せてきて、由稀は東按の小屋から我慢していたものを吐いた。濃い血のにおいと吐瀉物の臭いが混じって、さらに吐き気をもよおす。道端に膝をついて咳込んでいると、横から水筒を渡された。
「口をゆすぐといい」
 涙でかすむ視線の先には十和が立っていた。こうなることを見越して、水筒を取りに行っていたと言う。
「ありがとう」
 由稀はこぼれるのも構わず水を流し込み、苦味とともに吐き出した。むかつきは消えないが、中にこもった臭気はなくなった。
「血を見るのは初めてか」
「まさか。でもここは……」
 言葉を濁しても、十和がさらに聞いてくることはなかった。
 人の死に触れたことは、おそらくこの場にいる誰よりも少ない。しかもそのどれもが、家族や仲間に見守られ導かれたものばかりだ。同じ死でも、ここにあるものとは似つかない。
「立てそうなら、行ってやれ」
 十和が指差す先には、しゃがみこんだ紅の後ろ姿があった。そのすぐそばには、見慣れた革靴と傷だらけの脚がのぞいている。
「羅依……」
 彼女の顔は紅のかげになって見えない。最悪の事態が脳裏を掠めていく。近づいて確かめるのがおそろしかった。事実を知らずにいればこの震える心が救われることはないが、打ち壊されることもない。由稀は弱さにとらわれ、一歩あとずさった。背中に十和の大きな手がぶつかる。
「大丈夫だ、行け」
 仰ぎ見ると、十和は歯をのぞかせて笑っていた。由稀は無言でうなずいて歩き出した。
 体が軸を失って、歩くというよりは足を交互に出しているだけだった。片足を出したあと、ふらつくのをこらえようとして反対の足を前へ出す。その繰り返しだった。周囲の音も、風の手触りも、血のにおいも、広がる景色も、舌に残る苦味も、自分がいまここにいるのかどうかもはっきりとわからないほど、由稀の感覚は鈍化していく。数歩先の世界で突きつけられるかもしれない事実に、心が備えていく。失うときは突然で、ほんとうにあっけないものなのだ。いのちも、愛も、信頼も。
 紅の背後で立ちどまり、上から羅依を見おろす。顔は砂埃で汚れ、長かった髪は短くなっていた。何度も胸のうちで彼女の名を呼ぶ。羅依の胸元が不規則ながらもかすかに上下して、一気に感覚が戻ってきた。
 愈良と話していた紅が、羅依の上にできる影に気づいたのか顔をあげた。
「由稀。良かった、無事だったんだな」
「ああ、十和に無理言って来た」
「どうせこうなるってわかってたし」
「なあ……、羅依は」
 由稀の問いに、紅の顔がくもる。
「まだなんとも言えない。できるかぎりのことはしたけど、ここじゃ道具もままならない。動かそうにも、骨をかなりやられてるから下手にやると今度は内臓をやられる。いま絆清会のやつに城へ行かせてる。城付きの術者なら治癒法が使えるからな」
「治るのか」
「時間勝負だ」
 紅はすぐそばの血溜まりを指した。
「すでにあれだけの出血がある。止血はしたけど、中で出てないともかぎらない」
「そう、か」
「本当は俺が城へ行けば手っ取り早いんだろうけど、どうしてもここを離れられなかった。たとえこいつを助けるためであっても、こいつのそばを離れちゃいけない気がして。羅依にもしものことがあったら、そのときは俺のせ――」
「ちがう」
 由稀は紅の言葉を強く遮った。羅依のすぐそばにしゃがみこみ、彼女の乱れた前髪を整えてやる。いつになく青白い顔色をしていたが、その肌にはたしかに生きているぬくもりが感じられた。
「俺が同じ立場でも、ここから離れるなんてできない。羅依がきっと寂しがる」
「由稀」
「きっと間に合う。羅依は死なない。死なせない」
 笑顔を浮かべる余裕はなかった。だが由稀はそれでいいと思った。