THE FATES

11.狂気(2)

 行き止まりには、拭いきれなかった血が残っていた。知らなければ、はじめからあった模様のようにも見える。  建物の壁には剣の突き立っていた跡があった。手を伸ばして触れてみる。脆くなった石材が砂のようにこぼれた。手のひらを壁へ押しつけると、ぬるりとした感触がまだ残っているように思えて、由稀は顔をしかめた。
「おつかいか」
 突然の声に振り返る。そこには絆清会総統の清路がひとりでいた。彼はやや曲がった鼻筋にしわを寄せて笑う。由稀は持っている荷物をかるく上げた。
「新しい包帯と、食事を」
「なるほど」
「そっちこそ、何しに」
「まあ、一応見ておかないとな」
 無表情な笑みを浮かべたまま由稀の隣に立ち、清路はゆっくりと壁を見上げた。
「少年、彼女は?」
「羅依はまだ……」
「いや紫の彼女でなく、君の彼女。博路の混血殊来鬼だ」
「詩桜のことか」
「ああ。元気にしているか」
「こんな状況じゃ、誰も」
 由稀は壁へ寄せていた手を強く握りしめた。
「あの気丈なお嬢さんがね。それは残念だな」
 清路は笑みをひそめて煙草に火をつけた。冷たい、花の香りがする。
「うちの奴らには絆景を中心に市街の警備を徹底させているが、目立った不審者も異常もない。次の交易日までは継続するつもりだ。何かあったら十和か愈良を店まで走らせる」
「ありがとう」
「本部から目と鼻の先で好き勝手されたんだ。お前たちだけの事件じゃない。気にするな」
 清路は何かあったらと言うが、十和と愈良は見回りや他の仕事の合間をぬって、何もなかったことを毎日知らせに来てくれていた。そのことを清路が知らないはずはないが、由稀もまた彼にあわせた。
 じっとしていると、崩れた壁の隙間や角の吹き溜まりから死が忍び寄った。沈殿していた血のにおいが、ふと浮かびあがる。
 少年、と清路が由稀を呼んだ。
「俺は元気を出せとは言わない」
 足元に落ちていた石を拾い、清路は手の上でころがした。
「だが考えることをやめるな。はたらきかけることを怖れるな。果南の涙を、お前も覚えているだろう」
 石はまだらに色づいていた。
 由稀はうなずくことも相槌を返すこともなく、じっと清路の横顔を見つめていた。清路は気持ち悪がって口を歪める。
「俺の顔がそんなにおもしろいか」
「まさか励まされるとは思ってなかった」
「別に好意的に励ましているわけじゃない」
「だったらなんだ」
「そうだな……」
 しばらく考え込んで煙を吐く。
「きっと俺は鬼使が死ぬところをこの目で確かめたいんだろう。そしてそれを成しえるのはお前たちだと思ってる」
「俺が瞬を殺すとでも?」
 由稀の問いに清路はやわらかな笑みを返し、吸っていた煙草を路地へ投げた。火がついたままの煙草からは、冷たい花の煙が立ちのぼった。
 由稀の肩に清路の手が置かれる。
「ずっとずっと昔に、あの男は狂ってしまっている。それに引きずられてお前たちが傷つくことはない」
「あんたに何が……」
 わかる、と続けようとして言葉を飲みこむ。睨みつけることもできず、由稀は目をそらした。清路は由稀の肩をかるく叩いて路地から去っていった。
 その背中が角に消えていくまで見送って、由稀は足元へ視線を向ける。そこには血に染まった煙草がひとつ、あの日のまま落ちていた。
 辺りには清路の煙草の香りとかすかな血のにおいしかない。嗅ぎなれた瞬の煙草の香りを思い出せないのは、きっとそのせいだ。由稀は血色の煙草を踏みにじろうと足をあげたものの、結局できずにその場に座り込んだ。
「瞬……」
 胸に落ちるため息は、あの日の心を鮮明にした。

 瀕死の羅依を運ぶ手筈を整えると、紅はため息をついたきり黙りこんでしまった。由稀は着ていた上着を羅依へかけて、首をかしげた。
「どうした、紅」
「いや別に」
「あきらか何もなくないだろ」
「まあ、なくはないな」
 紅は羅依の手首を持って、脈を確認する。わざわざ今やらなければならないことのようには思えなかったが、由稀は黙って紅を待った。
 諦めたように目を伏せて、紅は短く息を吸った。
「お前んとこに、あいつ行った?」
「あいつって」
「この惨状の犯人だよ」
 紅は苛立ちをあらわにして、由稀を睨みつけた。
「瞬のことか」
「ほかに誰がいる。こんなこと、こんなむごいこと」
 ぎりっと、紅の歯軋りが由稀にまで聞こえてきた。彼の体は小刻みに震えている。気丈に見えていた紅も、ただそう振る舞っていただけなのだとようやく気づいた。
 紅は地面にべったりと座り込んで、深くうなだれた。
「俺は夕天橋を離れてから梅詩亭に行って、詳細を梅煉に話した。久暉たちも話聞いてくれて、有事のときにはあいつら守ってくれるって。だから急いで絆景まで戻って、上から羅依を探した」
 つらそうに唾を飲みこむ。
「そしたら鏡が……、鏡がひどく暴れた」
 胸元をきつく握って、紅は何度も息を継いだ。
「痛くて苦しくて、どうしようもなくて。スウィッグごと、絆清会の敷地に落っこちた」
「落っこちたって、体は大丈夫なのか」
「ああ。たぶん鏡に守られたんだと思う。スウィッグはしばらく再起不能だけど」
 紅はどこか投げやりで不謹慎な笑みを浮かべる。
「由稀、お前ならわかるんじゃないか。自分のなかに他人がいる状態って」
 普段の紅なら決してしないような表情で、決して口にしないような言葉だった。由稀は返事をせずに黙る。
 やがて紅は乾いた声で笑った。
「ありえないくらい苦しかったんだけど、頭ん中はやばいくらい冷静でさ、ああ、鏡のいうとおりにしたらきっと羅依見つけられるなーって、俺たぶん呼ばれてるんだなーって思った。だから偶然そこにいた十和と愈良に頼みこんで、一緒にここまで来た」
 紅は顔をあげて、路地の奥を見つめる。彼の新緑の瞳は、痛みをこらえるように細められた。
「でももう、あいつはいなかった」
「ほんとに瞬が?」
「あいつの煙草が落ちてた」
「そう、か」
「俺はさ、由稀、別に誰がどう死のうと俺に関係ないからいいんだよ。あいつら、俺の知ってるやつじゃないし、知らないやつにまで気を回してる余裕も器のでかさも、俺にはないから。でも俺は、どうしても割り切れない。こんなことできるやつにも子どもがいるってこと、それが自分だってこと。そして、羅依を置き去りにしたこと」
 壁にはりつけられていた死体が、絆清会の手によって地面へ下ろされる。そこから視線をそらして、紅は弱々しく両手を組みあわせた。その手は血で汚れて、錆びついてしまっていた。
「腹立つとか許せないとか、そういう感じじゃないんだ。すこし前なら当り散らしたんだろうけど。でも、今は違う。この気持ちに名前つければ、たぶんかなしいって言葉になる」
「何か事情があったんだ。じゃなきゃ、瞬が羅依を置いていくなんて考えられない」
「でも由稀、俺たちはあいつのことをほとんど知らない。あいつが生きてきた時間に比べれば、俺たちが知ってるあいつなんてほんの一瞬だ。なのに、その俺たちに何が言える」
「信じないのか、瞬を」
「これはもう……信じるとか信じないとか、好きとか嫌いとか、そういうことじゃねえよ。そんな次元の話が通じる相手じゃない。あいつに人の心なんてないんだ」
 出会ったころの紅は瞬に対して強い憎悪をかかえ、その重みに耐えかねて憎むことすら諦めようとしていた。いまもまた紅は、瞬を諦めようとしている。以前よりもずっと素直に爽やかに、瞬に対するすべての感情を、憎悪や嫌悪という負の感情ですら切り捨てようとしていた。
 由稀はあらためてすぐそばの惨状へ目を向ける。
 悪夢ですら、これほどの光景を見たことがなかった。しかし路地へ踏みこんだときの衝撃は次第に薄れ、不思議とこの状況に馴染みはじめている自分がいた。
 ここには決定的な何かが足りない。目に映る景色がいつまでも現実にならない。
 足りない何かを景色にさがす。
 ふと、桟楽で瞬が手にかけた男のことを思い出した。由稀は男の死を確認しなかったが、たとえ彼が生きていたとしてもそこは完全な死の世界だった。理由などなく、衝動と狂気によってもたらされた死だった。あらゆる不均衡も不自然ものみこんでしまう理不尽さ。鬼使の面影。
「ああ……」
 やはり足りない。真っ赤に染まった世界を統べる、神の姿が足りない。
 瞬が、いない。瞬の足跡が、残り香が、たしかにここにいたという残滓が見当たらない。
 由稀はふらっと立ち上がり、赤の世界へ足を向けた。
「おい、由稀」
 うしろから紅の声がしたが、振り返ることもしなかった。どうしても確かめなければならなかった。神の気配がすこしでも残されていないかを、由稀自身の目で見定めなくてはならなかった。
 神という名の狂気を。
 由稀は靴が汚れるのも構わずに、血の海へと踏み入った。まわりにいた絆清会の男らが引きとめるべきか迷いながら顔を見合わせている。由稀は壁際に横たえられていた死体のそばに立った。
 これがひとりでに動いて、話して、笑っていたとは思えなかった。はじめから死んでいたようだった。それは見知らぬ人の死だからではなく、由稀にとってはここにある死というものが生と結びつけられなかった。顔は生きているものにはできないこわばりかたをして、閉じきらない瞼からは天水の空を真似た灰色がのぞいている。腕は奇妙なかたちにねじれて、腹から下は形を成してはいなかった。
 小さな黒い虫が顔のうえを悠々と歩いていた。死体には払いのけることもできない。
 由稀は滲みだす笑みを抑えられず、人に見られないよう俯いた。込みあげてくるのは、生きているという優越感だった。
 死体の瞼がゆっくりとひらいて、乾ききったまなこがあらわになる。そのまなこが世界を捉えることはもうない。だがなにものも映さない眼差しは、あらゆる事象を見透かしているようでもあった。見えない目で、見られていた。
「あんたが見たのは瞬か」
 問いかけに死体がこたえることはなかった。由稀は瞼を押して目を閉じてやった。瞼はまだわずかにひらいていたが、もう見られることはなかった。
 死体は片側の肩が浮き上がっていた。下に何かある。由稀は口のなかですみませんと謝って、体を抱き上げる。上半身だけとはいえ、生きている人よりずっと重い。いのちの重みではない、死の重みだった。
 抱えながら覗き込むと、肘から下だけの腕があった。よく鍛えられた腕で、大きさから女のものだった。腕のなかの女には腕がついている。彼女のものではない。
 由稀はあたりにいた絆清会の男へ声をかけた。
「腕のない人って、いる?」
「いや、いないが。なんだ、それは」
 男は地面を覗きこんで眉を寄せた。由稀は抱えた死体をすこしずらして地面へ横たえる。
「欠けてないってことはさ、まだ他に」
「ここにはもう死人はないぞ」
 腹の底から重いため息を吐き出して、男は仲間のもとへ戻っていく。彼がきちんと報告をして腕以外の部分を探してくれるか気にかかったが、由稀はそのまま男に任せた。彼らから見れば、由稀は鬼使の仲間だ。関わりあいたくはないだろう。向けられる視線は冷ややかで、怒りと恐れと侮蔑が入り混じっていた。
 由稀は紅が追手は五人だと言っていたことを思い出した。つまりひとり足りない。
 内臓へ染みつくような臭いのなかに立ち、由稀は目を眇めた。路地は狂気に犯されながら、その実とても整然としていた。なにが人を怒らせ、悲しませるのかを知っていなければ、こんなにあざやかな狂気を演出することは不可能だ。
 鬼使には恐れがない。ためらいもない。振り切れてしまっている。だからこそ鬼使にこの舞台は用意できない。すべて瞬がしたのだ。正気のままに彼は狂気の淵へ手をかけた。その意図はわからない。だが由稀は腕だけの人を見つめて確信する。最後のひとりはきっとまだ生きている。
 腕の汚れを服で拭ってやり、横たわる女の腕に重ねる。謝罪の言葉はない。だが貶める感傷もない。
 由稀はただ静かに頭を下げた。