THE FATES

11.狂気(3)

 絆景の視線は日増しに露骨になった。誰もみな、鬼使の動向が気になるのだ。由稀は視線に惑わされながら、数日前まで寝起きしていた建物を見あげた。
 あの日、羅依の治療が終わったころに瞬はふらりと戻ってきた。
 紅は殴りかからん勢いで問いを重ねたが、瞬は答えなかった。返り血のせいで表情もわからない。絆清会本部の一室は奇妙な沈黙に包まれ、やがて瞬がぽつりと呟いた。
「お前らは梅煉のところへ行け」
「はあ?」
 疲れて床に座りこんでいた紅が声をあげた。さらに言い募ろうとするのを制して、由稀はゆっくりと切りだす。
「梅煉や詩桜に迷惑がかからないか。久暉と青竜の面倒も見てもらってるんだ。これ以上世話になっていいのか」
「今日中に移れ」
 瞬は寝台で眠る羅依の背中へ腕をさしいれ、毛布ごと抱えあげた。
「なあ瞬、お前は大丈夫なのか」
 ささやかに輝きはじめた瞬の足元を見て、由稀はあわてて彼の肩を掴んだ。瞬は見るものの息をとめてしまうほど冷たく透き通った目をして、由稀を振り返った。しばらくは無言で由稀の顔を見つめていたが、感慨なく手を振り払いその場から消えてしまった。
 そのときの、男にしては細い肩と研ぎ澄まされた眼差しを思い返し、由稀は建物へと踏み入る。
 暗い廊下が続いた。ふと、部屋へ立ち入ることができるのか不安になった。荷物を取りに来たときも廊下へすでに出されていたので、部屋へは入っていない。もしかすると長く暗い廊下をこのまま歩き続けることになるのかもしれない。振り返ってもすでに入口は見えず、闇が広がっている。由稀はぼんやりとした壁を頼りに進むしかなかった。
 心の隅に、このまま辿り着けなくてもいいかもしれないという弱さがある。瞬に会うのが怖かった。
 やがて道先に青い光で四角く縁どられた扉が浮かびあがる。由稀は光にそっと触れた。扉は以前と変わらずすんなりとひらいた。
 三日ぶりに訪れた部屋は、ひどく空気がよどんでいた。天井で動いていたはずの空調扇がとまっている。部屋には窓がない。空気がこもってしまうのも仕方なかった。
 部屋は雑然としていた。汚れているわけでも散らかっているわけでもない。そもそも散らかるだけの物のない部屋が、由稀の目には落ち着きなく映った。
 由稀の来訪を知って瞬が自室から出てくる。由稀は軽く手をあげた。
「よお」
「ああ」
 かろうじて返事をし、瞬は長椅子へ腰をおろす。よほど疲れているのか、細い体はずぶずぶと沈みこんでしまいそうだった。シャツには茶色くくすんだ汚れがついている。あの日の服のままだった。
「着替えればいいのに」
「ああ……」
 言われてはじめて気づいたように、瞬は自分を見おろした。
「そうだな」
 瞬の言葉は緩慢として、抑揚もない。心がここになかった。
 由稀は持っていた荷物を瞬の前に差し出した。
「包帯と、あとメシ。梅煉が」
「ああ」
 返事はするが荷物を受け取ろうとしない。由稀はしばらくそのまま持っていたが、諦めて卓の上へ置いた。
 座らずに、距離を保ったまま瞬を眺めた。底の見えない川を思わせる澄みながら濁った深い瞳は、目には見えない何かを追ってゆらゆらと揺れている。
 こんなにも弱りきった瞬を見るのは、はじめてだった。由稀は瞬の強さも弱さも知っているつもりでいたが、浅はかだった。いざもぐってみると、川は川岸から想像したものよりずっと深かった。いくばくかの落胆が濡れ鼠になった心に沁みる。凍えるような痛みのぶんだけ、あの日見た凄惨な景色が現実感をともなって感じられた。
 今もまだ、瞬からは血のにおいがした。いのちから切り離された生々しさは、枯れて粉々になり、風が行きすぎるたび砂埃のように舞いあがった。瞬の肌は青白く、それはまるで彼自身の死臭のようだった。
 ただ、それでも彼は美しかった。それだけは変わらずたしかだった。
 骨ばった指先で、薄い唇で、染みついた甘い香りで、深淵の瞳で。この世界を生かしながら、彼は殺す。道徳も倫理も越えて、悠然といのちを指差す。誰にも侵せない、脆いひとひらだ。
 彼の神威はここにある。
 景色に足りなかった欠片がやっと埋まる。由稀はある種の清涼感を胸に感じた。いつか自分は瞬を心底から憎むようになるかもしれない、そんな予感めいたものでもあった。
 いつも羅依が使っていた中二階から、真小太が顔を出した。由稀は小さく手を振った。
「どう、羅依は」
「なにも変わらない」
 瞬の顔にようやく表情めいたものが浮かんだ。歪みもまた、彼においては甘い微笑みのようだった。由稀は羅依の顔が見たいと言い出せなくなった。
「もう三日もたつのに。瞬の目から見てどうなんだよ」
「こんなとき、あいつがいれば」
 会話は噛みあっていなかった。由稀は瞬にあわせて問いかける。
「あいつって?」
 瞬は煙草に火をつけた。
「凍馬が」
「ああ、そうか。そうだな」
 由稀は長椅子の肘掛けに腰かけ、かつて凍馬に治してもらった脚に触れた。傷跡はなにひとつ残っていない。傷ついたときのことを忘れてしまえば、傷があったことすらわからなくなるだろう。
 凍馬の力があれば、羅依はもっと早く回復したはずだ。
「大丈夫だよ、羅依はきっとすぐよくなる。それに凍馬さんはああいう人だし、そのうちひょっこり来てくれるよ」
 最後に会ったとき、凍馬はどこか寂しげに微笑んでいた。行き先がわからないのは気がかりだったが、由稀はそこに触れず話題をかえた。
「清路が、いまのところ不審者はいないって」
 瞬は火をつけた煙草をろくに吸うこともなく、ぼんやりと天井を見つめていた。由稀は足元へ視線を据えて続ける。
「次の交易日までは続けるって、監視。俺もなるべく様子見てるから安心して。もし何かあったときにはちゃんと連絡する」
 相槌すらなかった。由稀はかろうじて苦笑混じりのため息をついた。
「瞬もすこしは休んだほうがいい。顔色もだいぶよくない。どうせ食ってないんだろ。梅煉がメシ作ってくれたから、これでも食えよ」
 由稀は立ち上がって、持ってきた荷物をあけた。野菜の煮物や焙り鶏などがぎっしり詰めこまれた器を瞬へ差し出す。包みから出すと香りが強くなったのか、中二階から真小太の控えめな鳴き声がした。
 瞬は一瞥することもなく、天井を見あげたまま口の端を歪めて笑った。
「なんのつもりだ」
「え」
「由稀、お前も行ったんだろう、あの場所に」
「あ、ああ」
「だったらどうして俺の体調なんて気遣える」
 由稀は持っていた器を思わず取り落としそうになる。瞬の横顔はあまりにも冷たく、知らないもの同士のようだった。
「当然だろ。俺たちずっと一緒にやってきたんだし」
「仲間だとでも?」
「そうだ」
「は……ははっ」
 瞬は乾いた笑いをもらしながら、肩を揺らした。吸いかけの煙草から、小枝の雪が落ちるように灰が散る。
「仲間なんて、俺にはいない。いらない」
 いっそ穏やかとも言える眼差しで、瞬は由稀を見あげた。
「アミティスで初めて会ったとき、お前は言ったな。俺に居場所をやると。だがもう無用だ。その場所は退屈すぎる」
「なんだって」
「俺は生まれながら殺すようにできている。壊すようにできている」
 煙草を持ったほうの指先で、頭を二、三度たたく。
「ここがはじめからそうなっている」
 微笑みは邪気がなく、ただただ美しい。
「久しぶりに、生きている心地がした。血を浴びて、悲鳴を聞いて、のたうちまわりながら助けを乞う手を切り落として、途切れていくいのちをただ眺めて。ああ、ここが俺の居場所だと確信した」
「うそだ」
「嘘じゃない。由稀、お前だって薄々そう感じてるんじゃないのか。俺があの女どもの死をすこしも気にかけていないと。むしろ楽しんだと」
「ちがう、そんなのちがう。だってお前は誰より傷ついて、誰よりはかなくて」
 眩暈がして、由稀は額をおさえた。梅煉の料理をつめた器だけが、由稀の冷静を支える。
「瞬、本当のことを言ってくれ。何か意図があったんだろう。羅依を守るためだけじゃなく、ああすることで何か――」
「あるはずないだろう、意図なんて。俺は楽しいと思えることをしただけだ。ゆきずりのセックスに意味はないのと同じ、ただの快楽だよ」
「快楽、だと」
 笑い飛ばそうとして顔が歪む。由稀はやわらかく瞬を睨みつけた。
「本気で言ってるのか。なあ、瞬」
 すっかり短くなった煙草を灰皿へ押しつけて、瞬は悠然と由稀を笑う。
「由稀、お前にもそういう顔ができるんだな」
「どういう意味だ」
「どんなに馬鹿にされてもにこにこといい顔ばかりで、心の奥にある汚らしい部分とは無縁のような態度で、きれいごとしか知らない口先で、いつもお前は人の気持ちを踏みにじっていくだろう。お前を見ていると、こっちがみじめになってくる。いらだって、でも諦めて、そのうちむなしくなる。お前みたいな人格が成立するはずがないんだ。誰だって、ぐちゃぐちゃになりながら、どろどろになりながら、這いつくばって生きてる。なのに、なのに!」
 混沌の瞳が光った。ねばりけのある、きらめきだった。眼差しが重い。
 瞬は手負いの獣の目をしていた。
 足を組みかえようとして靴先が卓にあたり、瞬は乱暴に卓を蹴り飛ばした。置いてあった包みから包帯がこぼれて、床の上をころがっていく。ほどけていく包帯を見つめて、瞬は小さく首を振った。
「何もかも受け入れて、自分の親兄弟を殺した男まで許すことで、お前は他人の弱音も、そしてお前へ向けられるべき一切の非難も拒絶している。それがわからないのか、由稀」
「俺は別に、誰のことも、弱音も否定しない。むしろ聞いていいなら話してほしいって思ってる。それに、俺が間違ってるときにはちゃんと教えてほしい」
 ただ誤解をときたい一心で、由稀は言葉を重ねた。
「瞬、俺は」
「またそうやって善人ぶるのか」
 煙のようにゆらりと瞬は立った。真正面から向かいあうと、いまはもう由稀のほうがわずかに背が高い。だが由稀は見おろされている気がしてならなかった。
 瞬は片方の頬にしわを刻んで口をひらいた。
「さっきの顔、してみろよ」
 由稀の顎をつかんで、瞬はさらに続ける。
「見せろよ、お前のその奥を。あるんだろ、この下に隠してるんだろ。じゃなきゃ、お前こそが化け物だ」
「はな、せ……」
「許すのは許されたいからか。信じるのは信じられたいからか」
 深緑の瞳が、美に歪む。
「それを偽善っていうんだ」
 囁きで告げて、瞬は突き放すように手を離した。よろめきを噛み殺し、由稀は持っていた器を床へ投げつけた。
「じゃあ、あとひとりをどこへやった! 意図がないって言うんなら、どうして生かした!」
「生きているなんて、どうして言える。別の場所で死んでいる可能性のほうが、ずっと高いとは思わないか」
「生きてないなら、どうしてあそこに死体がない!」
 血で汚れたシャツの胸倉を掴んで、由稀は声をあらげた。どうしてと何度詰め寄っても、瞬は揺らがない。視線をそらすことすらしない。泥濘のような眼差しで、じっと由稀を見つめ返すだけだった。
「瞬、お前には羅依を襲った犯人がわかってるんだろう」
「まさか。何を根拠にそんなこと」
「俺にはお前が意味もなくあんなことをするようには思えない。鬼使なんて、もう過去だ。いまのお前は瞬、お前だけだろう」
 掴みあげたシャツに縋りつくようにして、由稀は言葉を絞りだす。
「そうだって言ってくれよ!」
 脳裏から、あの日の光景が離れない。血のにおいは瞬から漂っているのか、それとも記憶から滲みだしたものなのか、由稀にはもう区別がつけられない。
 さまざまな理由をつけて、惨状を正当化しようとしていた。瞬を信じていたかった。
「瞬」
「帰れ」
 シャツに絡まった手を振りほどき、瞬は由稀の体を強く押した。されるがまま、由稀は後ろへ後ろへと下がっていく。
「なあ、瞬。俺はどうすればいい。どこへ行けばいいんだ」
「さあな」
「教えてくれ、俺には何ができるんだ」
 背中に壁の感触があたる。肩越しに振り返ると、扉があった。
「それは自分で考えろ」
 さらに強く肩を掴まれて、由稀は壁へ押しつけられた。その瞬間、扉がひらく。支えを失った由稀は、部屋の外へ転げ出た。
「瞬……!」
 扉は、音もなく閉まる。刹那、隙間から見えた瞬は、氷のように冷たく鋭い目をしていた。
 暗がりのなかに浮かんでいた、扉を縁どる青い光が消えていく。やがて扉はなくなり、由稀の前後には暗い道だけが続いていた。部屋へ入ることはもうできない。
「偽善、か」
 胸が締めつけられるようだった。由稀自身にそんな意識はなくとも、相手にそうと受けとめられていたなら、否定することはできなかった。
「くそ……っ」
 掠れた声をこぼしながら、地面を殴りつけた。指の背や関節がひりひりと疼く。それよりも目には見えない、血のない傷のほうがずっと痛かった。
 だがどんなに胸が痛んでも、涙は出てこない。
 どうやら自分は、いつのまにか歪んでしまっていたらしいと気づく。光のあるほうへとあらぬ角度で腕を曲げて、光が光とわからぬようにすべての影をかき消して。
 いつからだろうと記憶に問いかけると、光のような白さをもってリノラ神殿が粉々に崩れていった。それは故郷に降る雪のようでもあった。
 由稀は立ちあがって顔を撫でた。暗闇のなかでは、笑みも歪みも同じに感じられた。