THE FATES

11.狂気(4)

 博路まで戻るころには、さきほどの瞬とのやりとりが本当にあったことなのかわからなくなっていた。ぼんやりとしていて、夢の中のことにも思える。店の常連や顔見知りとすれ違えば笑顔で手を振って、由稀は梅詩亭へと向かった。
 地下へおりる階段の脇に、人影があった。
「詩桜」
「あ、おかえり」
 由稀を待っていたことはあきらかだったが、詩桜は看板の汚れをはらう振りで偶然を装う。由稀はそのことにあえてふれず、視線で階段下をさした。
「お店は?」
「うん、もうお昼休み」
「そっか。おつかれ」
 低い位置にある詩桜の頭に手を置いて、由稀は笑顔を浮かべた。いつもならすぐに手を振り払われるはずが、いつまでたってもその気配がない。
「どうした詩桜、悪いものでも食べたか」
「それはこっちの台詞」
「へ?」
 腰をかがめて顔を覗きこもうとすると、勢いよく詩桜が顔をあげた。
「向こうで何かあった?」
「べつに」
「ほんとに?」
「うん、うんうん」
 由稀はまばたきも少なめに何度もうなずいた。詩桜は疑わしげに目を細める。
「だったらどうしてそんなに無口なの。怪しいんだけど」
「それは、まあ」
 詩桜の頭にのせていた手で自分の鼻先に触れ、指をかえして詩桜の頬に押し当てる。指はほとんど動かす必要がなかった。
「これだけ近けりゃ?」
「ひあっ」
 か細い悲鳴をあげて、詩桜は由稀を突き飛ばした。上半身だけを大きくそらして、由稀はにやりと笑う。
「詩桜、挙動不審」
「ば、ばか! すけべ! 変態!」
 真っ赤な顔をして詩桜は先に階段をおりていく。由稀は笑い声を抑えながら後ろに続いた。だが三歩進むと、由稀の顔から笑みはすべて消え去っていた。前を行く少女の後ろ姿に、救いをさがす。逃げ場所をさがす。たまらなく抱きしめたくなって、歯を食いしばる。
「詩桜……」
「なに」
 まだすこし棘のある声で、彼女は振り返らずに言った。由稀は叫びを噛み殺して、息を吐き出す。
「ううん、なんでもない」
 階段をおりきった詩桜が、眉をひそめて由稀を見あげた。
「変なの」
「はは」
「まあ、前からだけどね」
 得意げに髪を揺らして詩桜は店へ入っていった。扉が開いているうちに、由稀も店の中へとすべりこむ。カウンターの向こうには梅煉の姿があり、手前の卓では紅と久暉が向かいあって紙に文字を書き連ねていた。
「これが『こんにちは』で、こっちが『いらっしゃいませ』だから。わかった?」
「待て紅。ならば、おはようはなんと言う」
「おはよーとか店では使わないから、覚えなくてよし」
「しかし知らなければ、いざというときに対応が遅れる。とりかえしがつかなくなる。はじめの反応がなにより大事なんだ」
「あのさ、接客は斬り合いじゃないから。そこんとこわかってるかなー。あ、由稀」
 伸びをした紅が気づいて、手を上げた。由稀は応えるように手を振った。
「ただいま。何してんの」
「久暉が店に立ちたいってうるさいんだよ。言葉教えてくれって」
「そなんだ」
 卓上に広げられた紙には、アミティスの言葉と天水の言葉が並んでいた。
「表の人数は足りてるから、手伝うなら裏やってくれてもいいんだけど」
「だが紅は表に立ちたくないのだろう」
「まあ、な」
「同じようにはできなくとも、お前たちの力になりたい」
 書かれた文字を指でなぞりながら、久暉は呪文のようにぶつぶつと「こんにちは」を繰り返す。だが何度唱えても発音がままならない。
「言葉教える苦労に比べたら、いくらでも表に出るけど」
 紅は深いため息をついて、頬杖をついた。久暉がそっと顔を上げる。
「俺はそんなに覚えが悪いか」
「あー、ほら俺、教えるとか苦手だし」
「いいから本当のことを言え。はっきりと言ってもらったほうが互いのためだ」
 空色の瞳に力をこめて、久暉は卓の上へ身を乗りだした。勢いに押された紅は、身を引きながら視線をそらす。
「えっと、そのまあ、めんどくさいかな」
「そうか」
 久暉はうつむいて、見るからに落ち込んだ。紅が妙なうめき声をあげる。
「うわあ。なんだよ、俺のせいじゃん」
「違うのだ、紅。お前はよくやってくれた」
「なあ、お前ほんとに組織の中心なわけ。そんなにわかりやすくて大丈夫なの?」
「まあまあ、二人ともそのくらいにしてさ」
 由稀は二人のあいだに入って、それぞれの肩へ手を置いた。
「どっちも仲良くやろう、な。うしろの仕事だって結構あるし、手伝ってくれよ」
「そう、なのか?」
「由稀の言うとおり。それに、ひとり欠けて手が足り――」
 そこまで言って紅は口を閉ざした。煙草入れを掴み取って、席を立ってしまう。
「天水接客講座はおしまい」
「紅」
「俺、上にいるから。昼休憩終わったら呼びにきて」
 誰とも目を合わせることなく、紅は厨房を抜けて去って行った。彼の背中に透けて見える胸のうちは、素直なほどに傷だらけだった。由稀は呼びとめることすらできない自分に歯噛みする。
「由稀」
 久暉に名を呼ばれると、ときおり無性に泣きたくなった。強くあれと内から抱きしめて守ってくれた日々を思い出す。由稀は彼にすがりついて、赦しを請いたい思いに駆られた。
 いまだ何も持たず無力なままの自分が、申し訳なかった。
 ただ笑顔を浮かべているしかできない。
「大丈夫、久暉は悪くないよ」
「いや由稀、私は……」
「でも言葉は覚えて損しないし、俺でよかったら付き合うよ」
「そうか、わかった。ではまた明日頼む」
 紅に書いてもらった用紙を丁寧におりたたみ、久暉はそれを上着へと差しこんだ。それ以上は何も言わず、ほうきを持って店を出ていってしまった。
「待ちなさいよ、あんた目立つんだから帽子!」
 詩桜が帽子を片手に、久暉を追って店を飛び出していく。久暉の空色の頭へ強引に帽子をかぶせる様子を、由稀は扉の硝子越しに見つめていた。漏れ聞こえてくる詩桜の声はあいかわらず騒々しいが、久暉はとくに気にすることもなく階段をあがっていった。
 ふと、目に映る日常が信じられなくなる。今にも眼前の景色が真っ赤に染まってしまいそうだった。本当はすでに死に飲み込まれた世界かもしれない。記憶のまだ浅い部分から、腐臭がたちのぼってくる。吐き気がこみあげて、由稀は口元をおさえた。
「ほんっと久暉ってマイペース」
 文句を言いながら詩桜が戻ってきて、由稀は曖昧な笑みを作る。
「そう、だな」
「悪い人じゃないけど、変な人」
「詩桜と同じだ」
「なによ、それ。……ん、由稀なんか顔色悪い?」
 背伸びをして、詩桜は由稀の前髪に触れた。冷たい指先が額をかすめる。由稀はあわてて一歩下がった。
「気のせいだよ」
「なんか、様子おかしいよ。やっぱり瞬のところで何か」
「それはない」
 低い声で短く、詩桜の言葉を遮る。彼女の眼差しを受けとめることができず、由稀は視線をそらした。
 逃げるように立ち去ろうとすると、上着の裾を引っ張られた。
「由稀」
 振りほどきたい。泣きつきたい。ふたつの思いが由稀の心で渦巻いている。
『それを偽善っていうんだ』
 瞬に言われた言葉がふと耳によみがえった。
 この手を振りほどいて詩桜を傷つけることも、胸のうちをすべて聞いてもらうことも、何もかも自分が楽になりたいからだ。自分の無力を棚上げにして、被害者の顔をして、善良な口ぶりで、またきれいごとを話すのだろう。
 たとえそのきれいごとが本心だったとしても、今だけは楽になってはいけなかった。それだけが、何もできない由稀にできる、唯一のことに思えた。
 由稀はそっと詩桜の手をとって、ゆるく握った。
「ごめん、疲れたからすこし休ませて」
「あ、じゃあ、あとで呼びにいくよ」
「いらない。勝手に起きるから」
 静かに手を離す。努めていつものように笑いかけたが、心はひどく冷めていた。