THE FATES

11.狂気(5)

 目覚めることで、いつのまにか眠っていたことに気づいた。あたりは暗い。由稀は体を起こして窓の外を見た。博路のあかりはほとんどが消えている。どうやら深夜のようだった。
 長く眠っていたせいか、頭のうしろには痺れたような感覚が残っていた。なにか夢を見ていた気がしたが、はっきりと思い出せない。見ていたかどうかもわからなくなってしまう。たしかなのは、ひどく喉が渇いていることだけだった。由稀は床へじかに敷いた毛布から立ちあがり、階段をおりた。途中、紅の部屋からあかりが洩れていることに気づいたが、声はかけなかった。
 地下の店舗階までおりると、話し声が聞こえた。無意識に足音をひそめて歩く。声は青竜と梅煉のものだった。
 厨房と接したカウンターには、青竜が座っていた。手本のような姿勢で書きものをしている。厨房側からは梅煉が頬杖をついて眺めていた。
「やっぱり合わないかい?」
「そうですね」
 ペン先で帳簿の数字を追いかけ、青竜はかるく息をついた。
「伝票と照らし合わせないと、はっきりしたことはわかりませんが」
「困ったねえ。伝票っていってもあんた、そこそこ多いよ?」
「どうしたの」
 由稀が声をかけると、梅煉は頬に手を当てて振りかえった。
「帳簿が合わないのさ」
「お店の?」
「そう。すぐに気づければよかったんだけど、今となってはどこがおかしいのかわかんなくてさ。私にはもうお手上げ」
 梅煉は深いため息をついて、両手をあげた。由稀は青竜へ視線を向ける。
「どうにかなりそうなのか」
「帳簿そのものの作りを変えてもう少し整理すれば、修正はできると思います。ですが」
 青竜は眉を寄せて渋面を浮かべる。
「明日の営業までというのは難しいです。数日いただけますか」
「まったく問題ないよ。お願いしていいかい」
「はい。させてください」
「はあー、よかった。頼りにしてるよ!」
 興奮した様子で、梅煉は青竜の肩を強く叩く。青竜はわずかに顔をしかめながら、やってみますと小声で言った。
「安心したらなんだか疲れたねえ」
「もう遅いしね」
「由稀あんたは大丈夫かい? あんまりよく寝てるからって起こさなかったみたいだけど」
「あ、うん」
 ずいっと顔を寄せられて、由稀は型通りの笑みを見せる。一瞬は疑わしげに目を細めた梅煉だったが、噛み殺しきれないあくびで気がそれた。
「悪いけど先に休むよ。まだ起きてるなら、最後にあかり消しといてくれるかい」
「わかった。おやすみ梅煉」
「おやすみなさいませ」
「ああ、おやすみー」
 梅煉が去ってしまうと、蝋燭の炎が空気を吸って不意に音を立てた。気味が悪いほど、静けさが増す。由稀は肌にはりつくような沈黙を嫌って、青竜に笑いかけた。
「なあ、なにか食べるか。作るよ」
「いえ、お気遣いなさらず」
「暇だし、なんでも言ってよ」
「そうですか」
 帳簿から顔を上げた青竜は、眉間を指で押したり回したりした。
「では、あまりきつくないものをお願いします」
「いいよ。つまみもいるだろ」
「できれば」
 遠慮がちに微笑む青竜は、普段よりずっと若々しく映った。由稀はカウンター越しに青竜の前に立ち、酸味の強い果実酒と蒸し鶏の和え物を用意した。自分のために濃い茶を淹れて、青竜のほうへと傾ける。
「おつかれ」
「ありがとうございます。いただきます」
 厚みのある器をかるくあわせると、鈍い音が落ちた。
「青竜はほんとになんでもできるんだな」
「まさか。そんなことはありませんよ」
「手先は器用だし几帳面だし、数字にも強い」
「でも酒には強くありません」
 手に持った器を見つめて、青竜はかろやかに笑った。これまで見たことのない明るい表情に、由稀は思わず言葉につまった。
 青竜は笑顔の影をいっそう儚くして続けた。
「由稀さんはきっとお強いでしょうね」
「え、なんで」
「兄が……、あなたのお父さんがとても酒に強かった」
 言ってしまってから後悔が押し寄せたように、青竜は喉を鳴らして酒を飲んだ。
 由稀はあたたかい器を両手で持ち、そっと口をひらいた。
「もう、青竜しか知らないんだよな」
 何を、とは言わなかった。それでも青竜には伝わったようだった。青竜は遠い過去を見やるように目を細めた。
「私がなんでもできるように見えるなら、それはすべて兄のおかげです。兄は武術には優れていましたが、それ以外はどれも苦手ですべて私が代わりにやっていました。できない、とは言えないのです。私がきちんとやらねば、兄の顔に泥を塗ることになりますし」
「理不尽な話だな」
「ええ。だから必死でしたよ。必死で本を読み、勉強したものです。そしてその成果を兄が父へ見せて、いつも褒められていました」
「誰も青竜がやったって気づかなかったのか」
「私たちと比較的近かった臣下らは当然気づいていました。けれど妾腹の子である私を守る理由など、誰にもありませんからね。わざわざ口にすることもないのですよ」
 痩せぎすの青竜の横顔に、悲しみや悔しさはなかった。どんなに想像をはたらかせても、青竜の抑揚のない表情が理解できなかった。
 互いの立場が、想像する自由を阻害した。
「青竜、俺はお前を憎むべきだったんだろうか」
 天気の話でもするように、由稀はさらりと呟いた。青竜は視線を由稀へ向けながら黙っていた。
「俺はお前を許したんじゃなく、そもそもそのような場所にいなかったんじゃないのか。許さない理由も許す理由もない。竜族の結末も両親の死も、俺にとってはどれもこれも他人事だ。それよりお前の抱えた痛みのほうが気にかかる。許した振りでいるのは、すこしでも和らげばいいと思ったからだ。でもそうすることでお前より優位に、そのために、俺は」
「由稀さん」
 強い語調とともに、肩を揺すられた。由稀は顔をあげる。
「なあ青竜、俺がおかしいのかな」
「違います。だってあなたは、もし安積や志位が傷つけられたら正気ではいられないでしょう」
 青竜の問いかけを何度も胸のうちで繰り返す。はたしてそうだろうか。怒りに駆られて、ほかの誰かを傷つけることも厭わなくなるだろうか。由稀には自信がなかった。
 これも偽善なのだろうか。
 そう思うと口にしたそばから言葉が濁ってしまいそうで、由稀は遠ざけるための笑顔を浮かべるしかなかった。
「ごめん、なんか雰囲気で酔ったみたいだ。俺もあんまり強くないかもよ」
「由稀さん」
 勢いよく立ちあがった由稀を見あげて、青竜は顔をくもらせる。由稀はぬるくなった茶を一気に飲み干した。大きく伸びをして、途切れがちに声を押し出す。
「うーん、やっぱりまだ疲れてるなあ」
「そうでしたか」
「青竜はどうする?」
「私はまだもうすこし、ここに。帳簿の整理もしたいですし」
「そっか」
 はじめはこの場から離れるための口実だったが、器を片付けていると気だるさに襲われた。すぐにも横になりたかった。
「がんばるよなあ、青竜は」
「もう、あまり時間がありませんから」
 声はたしかに届いたが、目をこすりながらの由稀に青竜の眼差しはうかがえなかった。由稀はじゃあと手をあげて、厨房を抜ける。
 由稀はそれから何度も、このときの青竜の表情を想像することになった。

 自分の寝所へもどると、毛布が奇妙なかたちに膨らんでいた。由稀は目を眇めて暗がりをさぐる。
 窓から漂う淡い夜が、輪郭をわずかに浮き立たせた。
「だれ」
 呼びかけに影が震える。由稀は毛布のかたまりに手をかけて、指先を掠めた感触に息をのんだ。
「詩、桜?」
 影はこくんとうなずいた。由稀はあわてて手を離し、壁際まであとずさった。
「なんでそんなに逃げるのよ」
「逃げもするだろ。何してんだよ、こんなところで」
「由稀こそどこ行ってたの。もう夜も遅いのに」
 詩桜は毛布を肩へかけなおし、髪を払った。
「地下。起きたら喉乾いてて」
「あ、そう」
 訊いておきながら興味の感じられない返事に、由稀は呆れるのを通り越してむしろ安堵を覚えた。笑いがこみあげてきて、口元をおさえる。
「なによ、笑うところじゃないでしょ」
 小声ながらも荒々しい詩桜の口調に、由稀はさらに腹を抱えた。詩桜のそばまで戻り、目の前に座り込む。
「だって詩桜、とんでもなくかわいいから」
「意味わかんない。言ってることもわかんないけど、だからって爆笑するとか頭おかしいんじゃないの」
 暗がりでもわかるほど頬を赤く染めて、詩桜は由稀を睨みつける。裏も表も剥きだしにした詩桜の感性が由稀にはひどくいとおしかった。
「うん、おかしいかも」
 力なく微笑んで、由稀は詩桜の肩に頭をもたせかける。長い髪の奥深くから、吐息のようにあたたかな香りが沸き立った。
「ちょ……、由稀」
 あわてて突き放そうとした詩桜の手を、両手で握っておさえこむ。
「おねがい」
 押し殺した声が掠れて、毒を帯びる。
「しばらくこのままでいさせて」
 毛布にくるまれていても、由稀には彼女の肩の細さがはっきりと伝わった。これ以上もたれかかれば壊れてしまうかもしれない。
 守りたい、壊したい。
 相反する気持ちが波のように交互に押し寄せては、ぶつかりあって白い飛沫になり霧散した。ただ触れているだけでも傷つけてしまいそうで、由稀は声にならない声で短く謝った。
 ややして詩桜が大きく息をはいた。
「由稀はほんとにばかね」
 詩桜が首をかたむけて、由稀の頭へそっと押しつけた。あわさった耳から雑踏にも似た血潮が息遣いとともに伝わってくる。
「甘えるのも意外にへただし」
「詩桜に言われたくない」
「私はちゃんと梅煉に甘えられるもの。常連のおじさんたちだって元気がないときは頭なでてくれる」
 握った手からすりぬけて、詩桜は由稀の髪を撫でた。冷えた小さな手がとても大きくあたたかく感じられた。
「謝るのは私のほう」
「なんで詩桜が」
「だって昼間、由稀にあんなつらい顔させちゃった」
「いや、あれは俺が」
「もっとあたりちらしていいんだよ。こんなときだもん、普通にいるほうが難しいのはみんな一緒。羅依があんなことになって、きついのは私より由稀でしょ。だから甘えていいの」
 髪を撫でていた詩桜の手が、由稀の耳をつかんだ。
「由稀は耳もあったかいんだね」
 ひんやりとした指の感触が心の奥まで伸びてきて、こごった熱を涼やかに清めていく。彼女の歌が指先から流れ込んでくる。心地よかった。
 このまま眠りにつけたならどんなに幸せだろうかと考えて、由稀は我に返る。
 いけない。楽になってはいけない。
 由稀は委ねたくなる心の手綱を握りなおし、体を離した。
「ごめん、もう大丈夫。ありがとう詩桜」
 言いながら、繋いだ手が離せない。離そうとしても指はこわばるばかりで、いっそう強く結ばれていく。
 ふたりの手の上へ、涙がひとつ落ちた。
「え」
 由稀は驚いて自分の頬へ手をやった。涙の跡がひとすじ、たしかにあった。
「なんで、俺」
 続く涙はない。それがただひとつきりの涙だった。
 毛布をかぶったままの詩桜に抱きしめられた。羽で包まれるようだ。膝で立つ彼女と座ったままの由稀では、詩桜のほうが頭半分高い。慣れない景色に、由稀は瞬きを繰り返す。
 詩桜は低い声でなぜか悔しげに呟いた。
「だからばかだって言ったのよ」