THE FATES

11.狂気(6)

 首からさげた羽根飾りを手のひらにのせる。玲妥にもらったときから比べると、羽根はすっかりくたびれてしまった。これではもう飛べそうにない。
 由稀は与えられた寝床から外を眺めていた。交易日のためいつもより人通りの多い街路は、華やかであざやかだ。すでに街は動きだし、すこし特別な日常がゆるやかにはじまっている。
 だが由稀はまだ日常へ帰れずにいた。
 瞬から連絡がないまま、襲われてから初めての交易日が来た。羅依の治療をおこなった術者の話では、もういつ目覚めても不思議ではないらしい。
 目を閉じると、血の気の引いた羅依の顔が浮かんだ。かつて由稀が鬼使と対峙したとき、羅依が今にも泣きだしそうな顔をしていたことを思い出す。きっと彼女もこんな気持ちでいたのだろう。
 灰色の空は今日も変わらず凪いでいる。本当に時はとまっているのだと不意に実感した。
 階段をあがってくる足音があった。振り返ると、久暉が顔をのぞかせていた。
「慶栖は来ていないか」
「いや、いないけど」
 ここは先日まで青竜が布地の整理をしていた場所だった。片隅には片付け終えた木箱が重ねられている。あとから木箱をのぞいてみると、青竜らしく几帳面に布が揃えられていた。色相の順に並んでいる布地も、どこか誇らしげだった。
 久暉は階段をあがって、由稀のそばへ腰をおろした。先ほどまでの由稀を真似るように、街並みを見おろす。
「こんなに静かな交易日は、ここへ来てはじめてだ」
「そっか。お店、閉めてるんだよな」
 昨夜十和と愈良が店へ訪れ、明日の交易日だけは店を閉めてほしいと言ってきた。これまで開けてこられたのは絆清会や久暉らの協力のおかげだからと、梅煉はそれをすぐに承諾した。急ぎでない仕入れは次へまわし、残りは絆清会に手伝ってもらうことになった。
「詩桜はさっき、十和という大男と買い出しへ行ったぞ。よかったのか」
「十和なら安心だよ。荷物持ちにも最適だ」
「だが詩桜はお前が起きるのを、今かと待っていた」
 空色の瞳が、にやりと笑む。由稀は窓枠に頬杖をついて、目をそらした。誰より久暉にからかわれるのがいちばん気恥ずかしい。かつて魂が寄り添っていたからか、彼には由稀自身も気づいていないことまで知られている気がするのだった。
「ときおり無性に、お前のなかに帰りたくなる」
 子守唄でも聞かせるように、久暉はやわらかく目を細めた。由稀は意図を汲みかねて、続く言葉を待った。
 窓に映る青天の瞳は、灰色の空に浮かぶ水たまりのようだった。
「なかから、触れてやりたいと思う」
「久暉……」
 由稀は生身の久暉を見やった。久暉もまた由稀を見つめて、眉を寄せる。
「ひどく傷ついた顔をしている」
「ちょっと疲れてるだけだよ」
「慶栖のことではないのか」
「え、いや」
『お願いします、久暉様には何も言わないでください』
 青竜の懇願を思い出し、由稀は言葉を濁した。
「図星か」
「すこし、考えていたんだ」
 否定するよりも話を合わせたほうが、青竜との約束は守れる。由稀は頬杖をついた手で額をおさえた。
「竜族のことは、思い悩んだところで時間が戻るわけでも元通りになるわけでもない。もう何もできない。俺が俺の心だけで片付けるべき問題だ。さいわい俺は竜族のことを知らない。竜樹にも行ったことがない。青竜自身よりずっと整理はつけやすいと思うんだ」
 話しているうち、胸に虚無感が飛来する。嘘やごまかしのせいとは思えない、暗く重く冷たい心の狭間だった。
 これは澱みだ。由稀の心の底にたまり、伸ばした指先さえ見えなくさせる。東按の両目にもあった、ひかりのない空洞だ。
 心がかき混ぜられて浮かびあがっては、茶葉のように底へ沈んでいく。この重みが憎しみによるものなら、どんなによかっただろうと由稀は思う。
「だからかな、青竜を責める気も、もちろん久暉を責めるつもりもない。でも……」
 狭間をのぞきこむと、偽善という言葉が鈍く光っている。
「でも?」
「それなら俺が、どちらも背負うべきなんだと思った」
「どちらも、とは」
「責めない責めと、許す責めを」
 由稀は、覚悟とは言わなかった。言葉にすると糸がたわんで、ようやく保っている平静が崩れてしまいそうだった。
 翳ってしまう顔を見られないよう、由稀は静かに微笑んだ。その頬を、久暉に平手ではたかれる。
「それでもお前は、偽りのない、ひかりの場所を目指して歩くのだと思っていた」
 派手な音こそしたが、叩かれた頬はさほど痛くない。だが由稀の胸はちりちりとあわ立った。奥歯を噛みしめながら息を吐きだす。
「もう……、もうそんな白々しい夢は見られない」
「夢、か」
 久暉の声はぬくもりの欠片もなく冷たい。
「由稀、お前はわかっていない」
「なんだって」
「羅依があんなことになって平気なものなど、ここには一人としていない。だがみんな、お前に支えられている。頼りにしているんだ」
 由稀は大声で違うと言ってやりたかった。わかっていないのはお前のほうだと怒鳴り散らしてやりたかった。青竜のそばにいながら、どうして青竜の思惑に気づかないのか、と。
 恍惚とさえした、あの張りつめた思惑に。
 衝動をぐっとこらえ、由稀は声を低くする。
「そんなこと、どうして言える」
「届け物をしに行ったろう、あれから数日たったときに。あのとき、なぜ梅煉がお前に荷物を託したかわかるか」
 言われてはじめて、由稀はなぜと胸に問うた。たとえば紅なら羅依の症状を見極められたかもしれない。たとえば詩桜なら羅依の着替えを手伝ってやれたかもしれない。たとえば梅煉なら瞬の話をもっと聞いてやれたかもしれない。
 なのになぜ、自分だったのか。
 由稀にはわからなかった。髪をかきやり、首を振る。
「わからない。そんなのわかるわけない。みんな俺になに期待してるんだ。俺、誰かに頼ってもらえるようなこと、なんにもしてないのに。いつだってみんなにあわせてるだけで、俺自身はずっと空っぽのままで」
 ずっと、空っぽ。
 心のなかで繰り返し、はっとする。
 久暉が内からいなくなったあと感じていた、砂を噛むような喪失感は、きっとずっと昔からあったものだった。穴が大きくなって気づいただけだ。
 物心ついたころから、生みの親を知らなかった。自分が何ものであるかわからず、ただぽつんとこの世界に立っていた。
 亜須久に誘われるままアシリカを目指し、惰性のままに竜族を調べてみたものの、彼らはすでにこの世にはいなかった。
 体は自分だけのものではなく、唯一自分らしさを感じていた空色の髪と瞳は贋物で、唐突に夜の海のように黒い髪と瞳を与えられた。普段は気にならないが、久暉を見ているとときおり自分が目の前にいるような気持ちになった。だが自分がいままた空色を手にしたところで、それはすでに由稀ではなかった。
 周りに押し出されるようにして、久暉と青竜を追いかけてここまできた。彼らの罪は重い。その罪とともに背負った願いは大きく、非難することなどとてもできなかった。比古や志位や安積もふくめて、彼らの願う未来が訪れればいいと思いはするが、地に足のつかない、どこかうわずった気持ちでもあった。
 現実味が足りない。痛みが足りない。由稀はいつも世界との見えない壁を感じていた。久暉に肉体の主導権を奪われたときの感覚が、ずっと続いているようだ。
 詩桜は言う。由稀はあたたかくて優しいと。
 だが由稀は思う。それは拠る場所がないからだと。背景をもたない由稀は自分以外の何かに左右されることがない。そのときの感情のまま無責任に、他人に優しい言葉をかけられるのだ。それはなんとも不安定で、脆い。いままさに由稀は足を踏み出す場所を見失い、片足のままぐらぐらと揺れている。
「たったひとりで投げ出されたら、俺はどうすればいいかわからない。どこへ行けばいいのか、何をすべきなのか。何をしたいのかさえ」
「迷うことは必要だ。むしろ迷わないものを信じることなどできない」
「ちがう、そんなんじゃない。俺は本当にわからないから」
「わかっている。何も否定など――」
「俺は、偽善者にはなりたくないんだ!」
 由稀は声をあらげて久暉の言葉を遮った。
 はたして本当にわからないのか、それとも信じてもらうため、同情を煽るためにわからない振りをしているだけなのか。どちらとも言い切れなかった。
 いまさら、はたかれた頬が焼けつくように痛かった。