THE FATES

11.狂気(7)

「由稀」
 呼びかけられてのろのろと顔をあげると、ぶあつい氷に覆われた冷たい眼差しがあった。
「お前が自分を偽善者だというなら、そう、お前がお前の笑顔を信じられないと言うなら、それは志位や安積を貶めるということだ」
「だけど二人は」
 他人だと続けようとしたが、言葉は声にならなかった。口にしてしまえば、壊してはいけないものを壊してしまう気がした。
 目には天水の空を映しながら、意識のうちで雪を眺める。途端に目の前の景色は故郷になる。
 腕っ節の強さが自慢だった志位はいつも近所の家の雪下ろしを手伝って、自分らの家は後回しだった。あまりにも体が重いので屋根を突き抜けたこともあったが、町のみんなは喜んでくれていた。また料理が得意だった安積は、出稼ぎで親がいない子の食事を気にかけていた。吹雪がひどくなると店へ泊まらせることもあった。
 たとえ血は繋がっていなくとも、二人の子どもであることが誇らしかった。家族で過ごす時間が大好きだった。それは今も変わらない。
 その気持ちまでも偽善だなどと、由稀は誰にも言わせたくなかった。
 瞬にも、自分自身にも。
「なぜ慶栖があの二人をお前のそばに置いたのか、俺にはよくわかる。こちらで奪っておきながら勝手な話だが」
 微笑みでごまかすことなく、久暉はまっすぐ由稀を見つめた。志位や安積と同じ目だと由稀は思う。きっと彼らが愛し、憧れ、信じた眼差しなのだ。
「ほんとに勝手だ。勝手すぎる」
 文句をこぼしながら、不思議と由稀はすがすがしく思っていた。
 かつて刻印があらわれた場所へ、手を添える。いまはもう影すらない。元通り、久暉の胸にあるのだろう。由稀は刻印の正体を知らない。だが刻印を目にしたときの青竜なら、はっきりと覚えている。
 懐かしむような、悼むような、勝ち誇ったような、なにより安堵に満ちた目をしていた。あのときはわからなかった青竜の思いが、いまならわかる気がした。
 青竜が叶えなければならなかった、なんとしても繋ぎたかったいのちがここにある。
 それは青竜が生きた証しだ。
「久暉は許したのか。青竜のこと」
「許すも許さないも、私が言える立場ではない」
 久暉が漂わせる冷たさは、冷酷さよりむしろ気品と呼ばれるものだ。近寄りがたい、侵しがたい品位を感じさせる。
 久暉は頭を壁へもたせかけ、目を閉ざした。
「俺は慶栖を守れなかった。慶栖の故郷も守れなかった。すべて失ったあいつのために、俺はあいつのすべてになる」
「久暉……」
「あれは不器用な男だ。自分だけは傷つかないと思っている」
 鼻で笑って、久暉はおだやかに微笑む。
 傷つかないなど、青竜の思い上がりだ。ただ青竜は、自分なら傷ついてもいいと思っているにすぎない。
「慶栖はいつも何かと闘い、世界に逆らい、無謀な計画を企てて。そうしていないと生きていられない、安らぎや満ち足りることとは無縁の男だ」
「お前はどうなんだ」
 由稀の指摘に、久暉はゆっくりとうなずく。
「かつては俺もそうだった。だからわかる。やつの魂の空洞が」
「だけど青竜にはお前がいる。空洞なんかじゃないだろ」
「俺ごときで満たされる男ではないよ、慶栖は」
 気のない声で笑い、久暉は窓の外を見やった。澄みきった空色の瞳は、晴天を写し取ったやいばのようだった。
「もしも慶栖の満足するときがくるなら、それはあいつが……」
 そこまで言って、久暉は黙りこんだ。窓の外へ視線を投げたまま、他人事のように口をひらく。
「最近の慶栖をどう思う」
「どうって」
 また何か思惑があるらしいとは言えず、由稀は考える振りをしてみせる。久暉は頬を歪ませた。
「俺にはあいつが、陽光のように感じられる」
「陽光……」
「押し殺し続けた本当の顔が、ときおり垣間見えるんだ」
 青竜の本当の顔といわれ、由稀の記憶にひっかかるものがあった。だがうっすらと靄がかかって、判然としない。
 息をひそませ、久暉が呟く。
「胸がざわついて仕方ない」
 由稀は思わず、あっと声をあげそうになった。
 数日前、青竜の晩酌につきあいながら、由稀は彼の兄の話を聞いた。神殿で竜族の話をしたきりだったとは思えないほど饒舌に、青竜は思い出を語っていた。あんな青竜を見たのは、初めてだった。
 青竜は言った。
『もう、あまり時間がありませんから』
 じきに天水を離れることをさしているのだと思っていた。だがあらためて思い返してみると、ひどく奇妙だ。羅依がこのような状態で誰も急いでアミティスへ戻ろうなどとは考えない。おそらく時間は充分にある。では、いったい何の時間がないのか。
 あのとき。
 青竜は笑ったのだろうか。それとも仮面のような無表情だったのだろうか。もしくはわずかに怒っていたりしたのだろうか。思い出せと何度も自分を責め立てるが、茫洋として何も見えない。由稀の願望や思い込みで、青竜の表情はいかようにもなりえた。
『今はまだこの命を差し上げるわけにはいかないのです』
 ばらばらに散らばっていた欠片があつまり、ひとつの絵になっていく。それぞれで回っているように見えていた歯車が、見る角度を変えれば噛みあっていく。
 久暉の胸のざわつきが由稀にも伝染した。
「青竜はいまどこに」
 問いかけてから、久暉がここへ来たときの第一声を思い出す。
『慶栖は来ていないか』
 ざわつきは、より鮮明な予感へと変わっていく。
「久暉……!」
 由稀は久暉の腕をつかんだ。だが何も言えず、腕にこもった力が空回りする。
 久暉は銀細工の髪飾りを上着からとりだした。鮮やかな石が嵌まっているわけでも、凝った意匠でもない、質素だが丁寧なつくりの一品だった。
「昨夜、俺のところへ置いていった。あいつにはお前よりいくらか年長の養女がいるんだが、彼女へ渡してくれと頼まれた。もちろん自分で渡せと一度は断った。だが、照れると。そう言って、笑ったんだ」
 予感が確信へと研ぎ澄まされていった。
「あんな顔、見たことない」
 眉を寄せて息をついた久暉は、笑っているような泣いているような目をした。
「あれがまた何かするようなら、俺は今度こそ慶栖を生かしてはおけない」
 それは久暉もまた生かされるべきではないということだ。言葉にしなくとも、由稀は肌で理解する。
 誠実ならば善か。ひとりよがりなら偽善か。
 計算づくなら偽善か。下心がなければ善か。
 自分の行いを善であると言いきることは難しい。口にしてしまえば、それはすぐにも善に似たものへ成り代わってしまうからだ。偽善であることすらできなくなる。
 それならそれでいい。
 由稀がしたいのは、善でも偽善でもない。
「わかった。じゃあ俺はその邪魔をする。命懸けで」
 記憶の雪がきらめいて、かすかな光が射す。
 それは闇のなかにぼんやりと、感傷の土で汚れた指先を浮かび上がらせた。