THE FATES

11.狂気(8)

 新しく作り直した帳簿を卓上へ置き、青竜は梅詩亭を出た。
 天水の夜明けは美しかった。どんよりとした空にもわずかな光が満ちて、今日という日が生まれたことを誰へともなく感謝したくなる。
 晴れやかな朝だった。
 上着のふくらみに手を入れると、髪飾りを包んでいた袋が出てきた。女物だからと早合点した店のものが、おまけするからと言って勝手に包み紙をつけたのだ。贈り物には違いないのでそのまま久暉へ託してもよかったが、繊細な花模様がむず痒く剥がしてしまった。彌夕は包装があろうとなかろうと、おそらく喜んでくれるはずだ。
『どこにも行かないで』
 幼かったころの彼女の声が、にわか雨のように不意に降ってくる。それは彌夕が青竜に拾われてはじめて放った言葉だった。
 彌夕は、怒るかもしれない。そして誰にも知られないところで泣くだろう。悲しみを帯びた珪月はいっそう深い音色を奏でて、聴くものの心をとらえるに違いない。だが青竜が聴くことは叶わない。
 丸めた包み紙を道端のくずかごへ投げ捨て、市街の門へ向かって歩きはじめた。歩いているだけではわからないほどゆるやかに、道はくだっていた。
 人通りはまだ少なく、朝の早い老人らが家の前に出した卓上で盤戯をしていた。静かな時間に、駒を盤へ置くときの音が響く。喜怒哀楽も会話もなく、時を刻むように淡々と遊戯は続いた。その横を通りすぎ、しばらく背後に音を聞いていたが、やがて辺りには静寂がおりた。振り返ると老人らはともに煙草をふかして翳っていく空を見つめていた。
 たとえば生きてきた最後の日に友と一服できたなら、それは幸福なことだろう。青竜は心のうちで礼をして、前へ向き直った。
 次第に人通りが増えていく。今日は十日に一度の交易日だ。
 民族衣装の隊商がすれ違う。青竜はそのなかに、赤と黄色の糸で編んだ帽子の一団をさがした。市街で一泊していく隊商も多いなか、彼らだけは決まって昼までに門を出ていた。梅詩亭で世話になってからずっと観察を続け、わかったことだ。
 この日を、待っていた。
 久暉の体力はほとんど復調したようだった。もうなにも、心配することはない。彼には由稀がいる。アミティスへ戻れば比古や志位もいる。あとは施した術式を完成させるだけだ。そのためにも、青竜は街から離れて遠くへ行きたかった。
 はじめて天水の砂漠を目にしたとき、ここで術式に終止符を打とうと決めた。砂の海にのまれて、水分を失い、からからに枯れて、砂になれたらいいと思ったのだった。
 ずっと遠くへ。街から出て遠い場所へ行きたかった。
 博路の端までくると、さがしていた隊商をようやく見つけた。彼らは土地を持たない民のようで、交易をしながら世界を旅しているらしい。ひとつひとつの隊商は家族で構成されている。鮮やかな色合いの帽子は散り散りになって暮らす民のあかしだ。
 荷車は他の隊商よりひとまわり大きく、幌もずいぶん汚れていた。青竜は上着の胸元をかきあわせて体を小さくすると、人込みにまぎれて荷車へ乗り込んだ。中には木箱が重ねられ、さらに奥には食糧と思われる包みが積み込まれていた。荷車が門へ向かって動きはじめるまでは、荷物を押しやってできた隙間へ身をひそめた。
 膝をかかえてひょろりとした体を丸めていると、まだ十代の少年だったころ、城の下働きをしていた少女と隠れて待ち合わせたことを思い出した。会うのは決まって倉庫の奥だった。青竜よりふたつ年上だった彼女は、城付きの料理人をしていた彼女の父に連れられ働きはじめたところだった。
 夕食の際、青竜が水を残して退出すれば、それが会おうという合図だった。彼女から承諾の合図を受けとることはない。だが彼女が来なかったことはない。ただ一度、遅れてきた以外は。
『ごめんなさい、ゆるして慶栖』
 それからまもなく、彼女は王の子を身ごもった。
「よし、出発しよう」
 荷車の幌があけられ、新しい荷物が積み込まれる。奥へと押し込まれ、さらに手狭になる。青竜は息をつめて待った。
 馬がいななき、車輪が軋む。荷車はときおり大きく揺れながら石畳の道を進み出した。青竜は荷物のかげから出て、遠ざかっていく景色を幌の隙間から眺めた。ほんのわずかのあいだだが、この街で過ごした日々はとても穏やかで幸せなものだった。時間をとめられたいびつな世界でも、人々の生活はふたつとない、替えのきかない瞬間で彩られていた。
 隙間から、城の尖塔がうかがえる。青竜が生まれ育った城とよく似た様式の建物は、灰色の空を睨みつけるようにそびえていた。
 門で一度停まり、簡単な手続きが行われる。荷車のなかをあらためられることはなかった。それはすでに調べがついていたことで、青竜はふたたび訪れる揺れに悠然と身をまかせた。
 車輪が大きくたわむような振動があり、やがて浅瀬をいくようにゆっくりと荷車は牽かれた。指先で幌をひらくと、白く細かな砂が吹き込んできた。
 市街の門が、小さくなっていく。青竜は荷車から飛び降りたい衝動に駆られた。
 あの向こうには久暉がいる。その事実が、ここから離れがたくさせる。久暉を生かすためだと、久暉が歩く道の礎になるのだとわかっていても、衝動はもっと単純な心から溢れた。
 彼のそばにいたかった。いのちのそばに在りたかった。
 久暉のために死ぬことは厭わない。そのときを目前にして、心にはたしかな充足感もある。だが青竜の目に映る景色は、彼のために生きることを渇望させるものだった。
 本当に、他の方法はなかったのか。
 青竜は自分の胸に問いかけた。それはこの術式を行ってからはじめての迷いだった。
 手に、天地の杖をとりだす。一見するとなんの変哲もない木切れだ。ただ、異様なほど黒い。杖は青竜のいのちを貪り、滴り落ちそうになっていた。
 不意に、杖が笑った気がした。なんと愚かで無力な男かと。
 細く切り取られた景色に、市街のかげはもうない。砂の上には馬の蹄の窪みと荷車の轍が残っていた。手にしたままの杖を握りしめ、息苦しさに目を細める。高みを鳥が旋回し、短く啼いた。
 荷車に揺られていると、時間感覚は鈍くなった。景色には目印もなく、市街からどれほど遠い場所まで来たのかわからない。隊商がとまり休憩をとる前に、荷車からおりなければならない。青竜はあたりの気配をうかがった。
 遠くから、かすかに音がする。どこかで聞いたことのある音だった。すぐにスウィッグの駆動音だと気づく。紅かもしれない。青竜は幌の隙間から赤い機体をさがした。
 砂の稜線に物影が浮かぶ。隊商が進むよりずっと早い速度で、それは近づいてきた。乗り手の顔まではわからないが、スウィッグはよくある黒い機体だった。紅ではない。青竜は身構えていた心を一度といた。いつでも荷車からおりられるよう中腰になり、幌にはりつく。
 スウィッグに気づいたのか、隊商がゆっくりと停まった。隙間からのぞいても、見える範囲にスウィッグの姿はなかった。スウィッグの駆動音が消えて、風音だけが荷車に響く。耳を澄ますとやりとりが聞こえたが、あまりに早口でその内容までは聞きとれない。だが青竜はその声に聞き覚えがあった。
「詩桜、さん」
 思い違いかもしれないと疑ってみるが、歌が得意だという彼女の声には不思議な魅力がある。このような美しい声がまだ他にもあるとは思えなかった。詩桜で間違いない。
 青竜はなぜ彼女がと考えるより、どの機を狙ってここから出るかということだけを考え始めた。荷車から出てきた男が青竜だとわかれば、詩桜はスウィッグで追ってくるだろう。市街へ戻って久暉らを連れてくるかもしれない。そうなる前に彼女からスウィッグを奪いたかった。
「それはどうも丁寧にありがとうございます」
 隊商の代表と思われる男が、静かな口調で言った。頭を下げた様子だった。
「今度からは忘れないでくださいね。大事な商品なんだもの」
「はい。他に積み込んだ荷物も念のため確認してみますね」
「手伝うわ」
 ふたりの声が近づいてくる。荷台へ向かってきているようだった。青竜は商人らが街で積み込んだ荷物をその場からさがした。それは青竜のすぐ足元にあった。声の方向から考えて、ふたりは幌を青竜がいないほうから開けるだろう。だが荷物が足元にある以上、見つかるのは時間の問題だ。
 幌をあけて覗きこむ、その瞬間しかなかった。顔さえ見られなければ、詩桜がスウィッグで追ってくる可能性は低い。だが商人は荷台から盗人が逃げ出したと思い、追いかけてくるだろう。起動音が消えたところから、スウィッグの停まっている場所を推測する。そこまで走れるだろうか。
「すこし待っていてくださいね。木箱をおろしますから」
 商人の声がして、幌の隙間から男の指が差し込まれる。だが詩桜の返事はすこし離れた場所から聞こえた。出て行けば、彼女に見つかってしまう。
 男の手首までが中へ入ってきて、幌があげられる。あざやかな帽子がわずかに視界に映り、青竜はしかたなく荷台から飛び出した。
 外にいた詩桜と、示し合わせていたように目があう。
「青、竜……?」
 詩桜は呆然としながら呟いた。青竜は無防備な彼女へ駆け寄って、急所を強く打った。詩桜は小さなうめき声をもらして気を失い、青竜の腕におさまった。子どものように小柄な彼女は細腕の青竜でも抱えることができた。
「何者だ!」
「あなたたちに危害を加えるつもりはありません」
 はたして言葉が通じるのかわからなかったので、あいたほうの手をあげて何も盗んでいないことと武器を持っていないことを示す。
「その子に何をするつもりだ! 離してやれ!」
「ただ、そのスウィッグだけは頂いていきます」
 会話が噛みあっている様子ではなかった。青竜はスウィッグを指差して、そちらへ歩き出した。
「とまれ!」
 大声で商人が叫んでいたが、誰も青竜を取り押さえようとはしなかった。
「とまらないと撃つぞ!」
 若い声がした。制止の言葉であることは伝わった。だが青竜は歩みをやめなかった。さらに一歩踏みだしたところで体に衝撃が突き刺さった。
 声がしたほうを見やると、少年がいた。手には弓を持っていた。青竜は感覚のない脚を見おろす。腿に矢が刺さっていた。だが視界が正常なことから、毒はないらしい。急いで抜く必要もない。青竜は片脚をひきずりながら歩き、スウィッグへ乗り込んだ。
 動かし方をきちんと知っているわけではないが、紅が乗っているのを何度も見ている。大体の要領はわかっていた。詩桜を肩に担ぎなおし、青竜はスウィッグを起動させた。
 弓で射られても平然としている青竜を気味悪く思ったのか、隊商の誰もが声をあげなかった。
 青竜は片手でスウィッグを操作して、その場を離れていった。
 轍の続きを描くように。
 もっと遠くへ。