THE FATES

11.狂気(11)

 部屋の壁に埋め込まれた、青く光る画面へ手を伸ばす。指が触れると画面には波紋が生まれ、読みとれない速さで文字が流れはじめた。それがとまるのを待つあいだ、瞬は煙草に火をつける。
 ソファの背もたれにかるく腰かけ、螺旋状に立ちのぼる煙を目で追う。煙草を口元へ近づけると、指先から女のにおいがした。青く、生々しい。無防備な確からしさがそこにはあった。
 自室へ背中を向けたまま、瞬は寝台で眠る少女を思う。愛しているとかいないとか、それは瞬にはわからない。
 ただ彼女を抱きたいと思った。それ以上でも以下でもない。彼女の肌にいつまでも触れていたかった。彼女の視界に映って、彼女のすべてを舐めとって、彼女の吐息を奪いつくして、この指先だけで彼女を支配していたかった。狂おしいほどに彼女の体がいとおしかった。
 瞬は思わず失笑した。
 それを人は、愛しているというのかもしれない。
 青い画面を流れていた白い文字がとまり、最後の一文字が点滅していた。画面には操作の確認が表示されている。瞬は一瞬のためらいののち、指先で承諾してそこから離れた。
 自室へ戻ると、羅依が体を丸めて眠っていた。短くなった淡紫色の髪に触れる。せめてきちんと切り揃えてやればよかったといまさら思う。きっと由稀が彼女に似合うよう整えてくれるだろう。そうやって仕上がった姿を鏡で見るとき、羅依は恥ずかしげにうつむくに違いない。
 そんな彼女をこの目で見たかった。
 羅依と呼びかけようとして、煙草の灰が落ちそうで無言のまま離れる。床に投げ出していた上着を拾って、窓の外へ視線を向けた。
 夜明けのきらめきが嘘のように、光も色もない世界が広がっていた。もう、ずっと昔に見飽きた景色だ。かつては憎しみや怒りを募らせていたが、今は瞬に何の感慨も与えはしない。ただ、朝日の一瞬に美しいと呟くだけだった。
 家族を喪った。一族を貶められた。文化は死に絶え、残されたのは欲望を呼び寄せる龍眼と、鬼使という化け物だけだ。今ではそれも運命だったのだろうと思えるようになった。龍羅飛の運命、瞬の運命として。
 だが、いまこの手にあるものまで失うつもりはなかった。
 上着をはおって、自室から出る。瞬は中二階を見あげた。
「真小太」
 呼びかけに、真小太が顔を出した。獣の勘がはたらくのか、すぐにはおりてこない。
「真小太」
 扉をあけて中へ促すと、真小太はおりてきて瞬の足元でとまった。記憶へ刻みつけるように、しきりに瞬の服をかいでいる。
「お前は利口だな」
 しゃがみこんで、真小太の鼻先へ手を差し出した。真小太はさらに強く手のひらをかぎ、最後になまあたたかい舌で舐めた。それで満足したように、瞬をすり抜けて部屋の奥へと入っていく。
「羅依を頼む」
 小さく告げて、瞬は部屋をあとにした。

 世界の時をとめて、よかったと思うことがある。
 いまにも朽ち果ててしまいそうな故郷の街も、いびつな時間のもとではいつまでもあり続けることができる。
 同時に、時などとめなければよかったと思うことがある。
 それは壊れてしまった故郷をいつまでも野晒しにするしかない、心苦しさだった。
 街の真ん中にひときわ大きな廃墟がある。繋紲の塔、その成れの果てだ。瞬は手前で立ちどまり、瓦礫をひとつ靴の先で蹴った。
 目を閉じて空を仰げば、瞼の裏には凍りつきそうなほど冴えた夜空と塔がよみがえる。手を伸ばせば触れられそうなほどはっきりと思い出せた。ここは龍羅飛にとって信仰の対象だった。子どものころは理解できなかった信仰という柱も、いまなら体感できる。だがもう瞬が求める神はいない。
 煙草に火をつけ、火付け具を見おろす。
「奏奴……」
 銀色の表面は細かな傷でつやを失い、覗きこんでももう何も映さない。ただ空だけを、空と同じ鈍い色だけを湛えていた。奏奴から譲り受けたとき、ここには疎み続けた深緑の瞳が映っていた。
『お前の美しさは武器だ。その呪われた瞳も隠さずに晒すべきだ』
 変なことを言う男だと思った。龍羅飛の瞳を見れば、あるものは悲鳴をあげて逃げ出し、あるものは抉り取ろうとした。それを奏奴はただ見つめて、ただ美しいと言った。
 彼は強かった。しなやかな暴力と、さわやかな残酷と、気ままな優しさを持ちあわせていた。それはきっと彼の弱さのすべてだった。
 神域の狭間。奏奴が夢見た世界は、たしかにあった。だがそれははたして奏奴が求めていたものだったのだろうか。奏奴はそこに何を見ていたのだろうか。どんなに思いを馳せてみても、何も映さなくなった火付け具のように、瞬にはもうわかることはなかった。
 本当は奏奴の墓へ行きたかった。そこで神域の狭間と呼ばれたものについて話したかった。だが奏奴を殺した瞬には許されない。
 せめて神域の狭間にもっとも近いところへ。
 瞬は持っていた火付け具を瓦礫の上へ置いた。

 龍羅飛跡のなかでも、中心部から離れるとそれほどひどい損傷もない。家屋は家屋としてのかたちをある程度たもっている。
 瞬は一軒の家の前で足をとめた。くわえていた煙草を捨てて、扉のなくなった玄関へ進む。白と青の水差しが、割れたときのまま部屋の真ん中に在った。
 居間を抜けて、奥の扉へ手をかける。かつて倉庫として使われていた扉は鉄扉で、重く冷たい。
 開けると、神経を逆なでするような音が響いた。薄暗い牢獄のような場所でなにかが蠢いている。瞬は手のひらを下へ向け、星のようにまたたく砂を足元に散りばめた。部屋のなかが、ぼんやりと浮かび上がる。
 そこには女がひとり倒れていた。目はうつろに辺りをさまよい、口元は弛緩して涎を垂れ流し、体は小さく痙攣を起こしていた。女はすぐそばに瞬が立つことも、輝く砂にも気づかない。起きてはいるが、まともな意識がある状態とは言えなかった。
 瞬は靴先で女の顎を持ち上げた。赤いかたまりの混じる涎が、口からこぼれる。二人の視線が掠めるように重なって、女は目に光を取り戻した。
「鬼使……!」
 舌を噛んで死なせないよう、瞬は女の口の中へ靴先を突っ込んだ。首をのけぞらせて逃れようとするので、奥のほうまで先を押し込む。
「さすが殊来鬼だ。俺の幻術をくらいながら正気とは」
 女は羅依を襲った殊来鬼のひとりだった。瞬が路地へついたときには、両腕の腱を斬られていた。手指のたこから、剣士だったのだろう。二度と剣を握れないことに呆然としていた。
 瞬は女の両腕を切り落としてここへ運んだ。また拘束するかわりに足をつぶし、膝を砕いておいた。逃げられないための処置だ。傷口は最低限ふさぎ、死なれないようにした。
 何もない暗い部屋でただ待たせるのも悪いので、暇つぶしになるよう幻術をしかけておいた。瞬には彼女がどんな幻を見ていたかはわからない。だが人ではなくなっているだろうと思っていた。
「龍羅飛も、お前たちくらい逞しければよかったな」
 口をふさがれた女は、くぐもった声をあげた。彼女の精一杯だろうが、ひどく弱々しい。瞬は口から靴を引き抜いた。おそらく女には舌を噛み切る力すらもうない。
 女は唇を震わせた。
「私を餌にして結蘭さまを誘いだすつもりだろうが、その企みは徒労だ、鬼使」
 どうやら笑ったようだった。
「結蘭さまは王にも等しいかただ。あのかたに、貴様のような男が敵うはずもない。貴様はあのかたの手で無残に殺されるがいい」
 瞬は女の腹を蹴りつける。女は体をふたつに折って、はげしく噎せた。
「われら殊来鬼は、いまや天水王家と肩を並べる存在なのだ。たとえ鬼使とはいえ、龍羅飛ひとりになにができる」
 残された力のすべてをふりしぼり、女は続けた。
「貴様ら龍羅飛は時間操作の禁を犯して討たれた。そして貴様はいままた同じ愚を犯している。おろかな一族だ、龍羅飛よ。忌み嫌われ、貶められ、自ら滅びの歴史を歩んだ。不遇は貴様ら自身が招――」
 そこまで女が口にしたとき、女の口が耳まで裂けた。顎がはずれ、上唇と下唇は噛みあわない。
「言いたいことはそんなものか」
 瞬は女の髪をつかみ、引きずって歩きはじめた。背後から不格好な悲鳴が聞こえる。瞬は倉庫を出て、移動法で街から離れた。

 足元に砂の感触をとらえる。吹きすさぶ砂まじりの風に、瞬は目を細めた。砂丘の頂に立てば、果てまで世界を見渡せる。かつてここには川が流れていた。瞬が生まれるよりも前の話、龍羅飛の子どもらの遊び場だったという。
 瞬は乱暴に女を放した。女は涙を流しながら鋭く瞬を睨む。
「企みは徒労、か」
 女の言葉を瞬は繰りかえした。
「それはお前の望みが混じるから、そう思うんだ」
 結蘭が一族の女ひとりを守るため動くとは思えなかった。報復も今のところはない。
 だが彼女は自尊心を傷つけられることをひどく嫌う。染芙や梅煉や凍馬の口ぶりから、そう察していた。だとすれば、一族の女をこのまま放ってはおかないだろう。必ず、始末しに来るはずだった。
 瞬は女の背中を踏みつけた。ひきずられて擦りきれた服から、白い肌が覗いている。
「まだ死ぬなよ」
 瞬は目には見えない刃でゆっくりと白い肌に傷をつけていく。女は川岸へ打ち上げられた魚のように全身を大きく跳ねさせた。その拍子に女は砂丘の坂を転がりだした。瞬は仕方なく、女を追ってくだりはじめる。
 だが坂のなかほどまで来たところで、女の体が真っ二つに裂けた。血しぶきが瞬の足元まで及ぶ。
「弱さは罪ね」
 背後から、女の声がした。じっとりと耳を舐めまわすような声だった。
「ずっとあなたに会いたかったわ、瞬」
「拒んだ覚えはないが」
 振り返ると、頂に女が立っていた。上着の片袖が風になびいている。瞬は女の顔を見て、あっと声をもらした。
「そうか、お前だったのか」
「思い出してくれたのね、うれしい」
 女は上着を脱ぎ捨て、今はない片腕を撫でた。
「お前が結蘭だな」
「ええ」
「ひとつ確認する。俺を付け狙っていたのは何のためだ。その腕のためか」
「さあ、どうかしら」
 釘のように太い棘をいくつも取り出し、結蘭はその先端を舐めた。人を傷つけるためのものではない。結界のための道具だ。
「どっちでもいいじゃない。私、あなたが欲しいの」
 この場所には瞬の結界が及んでいない。殊来鬼から離れているため、結蘭の結界も存在していない。まずは自分の領域を確立せねばならない。
 瞬は胸元へ手をやって気づく。龍仰鏡はここにはない。小さく舌打ちをもらし、結蘭を見あげた。
「だったら俺を、組み伏せてみろよ」
「そうね。そうする」
 なめらかに微笑んで、結蘭は砂を蹴って飛びだした。腕を払って棘を投げる。すぐ脇を通り過ぎていこうとした棘を、瞬は手のひらで受けとめた。
 突き立った棘を引き抜き、唇を引きつらせて笑う。
「おまえは、ころす」

11章:狂気・終