THE FATES

12.讃歌(1)

 目覚めても、羅依はすぐに起きあがることができなかった。首のうしろからつま先まで、体中が熟れた果実のようにじっとりとしている。痛いのでも重いのでもない。波打ち際へ寝そべる人魚のように物憂い心地がした。しあわせだった。
 窓の向こうに広がる景色は、夜明けと比べて色に欠ける。光が足りない。見慣れた景色のはずが、ひとつの時代が終わってしまったような喪失感に包まれる。
 羅依は部屋のなかに瞬の姿をさがした。しかしいたのは真小太だけだった。寝台へ腰かけて呼びかけると、真小太はすり寄ってきて膝の上へ顎をのせた。
「心配かけてごめん」
 抱きしめて耳を撫でる。真小太は控えめに吠えた。
「瞬は」
 問いに真小太は答えない。やがて腕からすり抜けて足元へ寝そべってしまった。羅依はそばにあった瞬のシャツに袖をとおす。甘い、彼のにおいがした。
 居間に人の気配がある。真小太を跳び越えて部屋から出た。
「瞬……!」
「は?」
 壁の操作盤に向かって立っていたのは紅だった。
「なあ、瞬は」
「知らねえよ。つーか、なんて格好してんだよ」
 紅は一度振り返ったものの、目のやり場に困って操作盤へ向き直った。長椅子の背もたれに浅く腰かけて、深いため息をつく。
「いや、俺には関係ないことだしいいんだけど。どうせこういうことになるだろうとは思ってたけど。はあーあ。でも実際そういうことになるとキツいなあ」
 派手な橙色の髪を荒々しく掻いて、紅は体を丸めた。羅依はシャツの裾を握りしめて、紅の背中を見つめる。返す言葉がなく、息が詰まりそうだった。
 紅はため息を声にしながら煙草に火をつけ、振り返らないまま言った。
「で、いつ起きたわけ」
「たぶん昨日の、暗くなってから」
「あ、そう。連絡しろよ」
「ごめん。瞬がしたと思ってた」
「するかよ、あいつが。あと、体は大丈夫なのか」
「えっと」
 羅依は胸元をかきあわせてうつむいた。体が熱い。頬が火照った。目を閉じると瞬の指や唇や、間近で覗いた深緑の瞳が、想念ではなくそこにあるものとして思い出された。
 いつまでも返事がないので、痺れをきらして紅が振り返る。
「どっか悪いのか。傷口は消えてるはずだけど、痛みが残ったりしてないか」
「だ、大丈夫。たぶんどこも悪くない」
 気だるさはあるが、痛みはない。ただ足元がおぼつかない。瞬がいないだけで、からだの半分をどこかへ置き忘れたようだった。からだが引き裂かれ続けている。はやく瞬に会いたい。瞬に触れたい。触れられたい。彼を、抱きしめてあげたかった。
「羅依、ごめんな」
「え」
 突然の謝罪に、羅依は顔をあげた。煙草をくわえた紅の横顔には、父の面影が微塵もない。浮世を眺めるような揺らぎがなく、視線はしっかりと現実へ据えられている。紅は自嘲するように口元を歪めて笑った。
「二手にわかれるなんて、しなきゃよかった」
「ちがう。紅が謝ることじゃない。だってあたしがそうしようって言ったんだから」
「それでも。それでもふたりで桟楽へ行けばよかったんだ。その判断をできなかった俺にも非はあんだろ」
 しばらく見ないあいだに、紅はずいぶん大人びた顔をするようになった。なにが紅をそうさせたのかと考えて、羅依は短くなった髪へ手を伸ばした。
「あたしのほうこそ、無茶してごめん」
「おまえのことがあってから、なんていうか、おかしな感じがする。由稀も久暉も青竜も、みんな目の前にいるのに遠くにいるみたいな。そんな瞬間が気のせいじゃなくたしかにあって、日に日に増えてる。別に羅依のせいじゃない。だけど、あの日から変わってしまった気がする」
「そう、か」
「特にあいつは」
 紅は椅子の背を殴った。くわえた煙草から灰が落ちる。やがて震えていた拳がほどける。紅は大きく肩を落として天井を見あげた。
「あいつ、なんか言ってたか」
「なんかって」
「十日前のこと、おまえに話したか」
「いや、なにも」
「そっか。くそっ、むかつくな」
 卓上の灰皿へ煙草を押しつけて、紅は顔を歪めた。
「なにかあったのか、紅。そうだ、あの追手はどうなったんだ」
 問いかけても、紅は眉を寄せるだけで答えようとしない。
「教えろよ。なにがあった」
 ひとつの予感が胸の奥でみるみる膨らんでいく。それを紛らわしたくて羅依は紅の腕を揺らした。
 紅は顔をそらし、絞りだすように言った。
「あいつが、殺した」
 陽にかざした葉のように澄んだ、緑の眼差しがかげる。羅依はさらに強く紅の腕を掴んだ。
「うそだ、そんなの。だって殺してしまったら、それじゃまるで鬼使だ。そんなはずない。あたしのそばにいてくれた瞬は鬼使なんかじゃなかった。だって、だってすごく優しくてあたたかくて。あんなにきれいな人、他に知らない。なのに殺したなんて、そんなの嘘だ」
 記憶や体に刻み込まれた瞬の手触りを、なぞるように思い返す。温もりもやわらかさも優しさも、痛みも切なさも重みも、なにもかもすべてが美しく、いとしい。まさかあの唇が怯懦をさそい、あの指が血にまみれ、あの眼差しが弱さをさげすみ、彼の存在そのものが彼女らの命をおびやかし、野辺の花を摘み取るように未来を奪ったとは思えなかった。
 どうか嘘だと言ってほしい。その一心で羅依は紅に詰め寄った。だが紅は端整な顔をこわばらせたまま首を振った。
「嘘じゃない」
 声は掠れていたが、言葉に迷いはなかった。
 羅依は顔を伏せて震える唇を噛んだ。掴んでいた手に、紅の手が重ねられる。
「あいつは茜と約束してた。もう、殺さないって」
 茜の名を口にするときだけ、紅はかすかに声を詰まらせた。
「羅依、あいつはおまえを選んだんだ。だからおまえを傷つけた奴らを生かしておけなかった。そういうことだと俺は思う」
「あたしを」
「ああ。鬼使じゃない。あいつは正気のまま、手を下した」
 それは彼が鬼使の意識に支配されるより、ずっと恐ろしいことに思えた。
 ふたりで眺めた早朝の絶景が脳裏をよぎる。あのとき瞬は何を思っていたのだろう。どんな気持ちで肌を重ねたのだろう。なにか確信にも近い予感を彼は抱いていたのではないか。いまここに彼の姿がないことがその答えではないのか。
 羅依は扉へ向かって走り出した。だが十日間の空白は羅依の体を確実に衰えさせていた。体が思うように動かず、泥濘を走るようだった。
「あっ」
 足がもつれて前へつんのめったところを、うしろから抱きとめられる。振り返ると、紅が羅依を見おろしていた。
「どこ行くんだよ」
 強く腕を掴まれ、羅依は動けなくなった。背格好に差がなくとも、本気を出されれば力では敵わない。女の羅依にはどうしても越えられない壁があった。骨が軋んで、心が痛い。
「羅依、おまえはなんにもわかってない。こんなに弱りきった体で、冷静になれない頭で、いったいなにができる」
「瞬をさがしに行く。離せ、紅」
「心当たりなんてないだろ」
 あまりにそのとおりで、羅依は紅を睨みつけたまま黙り込んだ。何も知らなかった羅依に、瞬が向かうあてなどわかるはずもない。
「城付きの術者が治療したとはいえ、おまえは万全じゃない」
「あたしは動ける。戦える」
「バカか、そうやって大怪我したんだぞ!」
 怒鳴られてようやく、どれだけ心配をかけていたのか思い知る。羅依は返す言葉なくうなだれた。
 紅は壁の操作盤をさした。
「ここの回路、おかしいんだ。城の中央管理室にも行ってみたけど、市街の回路は全部正常に稼動してる。おかしいのはここだけ。まあ、そもそもここは城の管轄外なんだけど」
「回路?」
「すべての権限が放棄されて、俺が管理者になってる」
「そんなの、あたしに言われても……」
「つまりあいつは、俺の許可なしにこの部屋へ入ることもできない」
 難しいことはわからなかったが、瞬はここへ戻ってこないかもしれない、そのことだけは羅依にもわかった。
「これはあいつの覚悟だ、羅依。そう簡単に見つけられるような場所には、たぶん、いない」
「だったら、どうすればいいんだよ!」
「がむしゃらに捜すんじゃなく、考えるんだ。そのための知恵が足りないなら、梅詩亭へ戻ってみんなの意見を聞けばいい。一人より二人、二人より大勢だろ」
 だがそうしているあいだにも、愛してくれた瞬がいなくなってしまいそうだった。羅依は小さい子どもがいやいやをするように首を振った。
「羅依、頼むから」
 そこまで言って紅は突然黙り込んだ。
「紅?」
 声を奪われたように言葉に詰まり、紅は苦しげに胸元を押さえた。顔を覗きこむと肌は青く、額には玉のような汗が浮いていた。
「どうした、紅、紅!」
 体を揺さぶると紅は羅依へもたれかかってきた。支えきれず、ともに床へ倒れこむ。紅の体はひどく熱かった。熱がある。羅依は体を起こした。
「紅、返事しろよ!」
「くそ、鏡だ」
「え」
「鏡を呼んでる、あいつが」
 荒い呼吸を繰り返し、紅は舌打ちをした。
 羅依は真小太を呼び、紅を長椅子まで運んだ。途中からは自分の足で歩いて、崩れるように長椅子へ横たわった。
「元の持ち主のところへ帰ろうとしてる。たぶん、何か力を使ってるんだ」「そういえば前にもこんなことがあったな」
 天水に雨が降った日のことを思い出していた。あのときよりもずっと紅は苦しげだった。どうすればいいかわからず、羅依は長椅子のそばに膝をついて紅の手を両手で握った。
 乾いた声で紅は笑う。
「なんだ俺、死にそうじゃね?」
「ばかなこと言うな。鏡はおまえを生かすためのものなんだろ、絶対に紅を傷つけたりしないだろ」
「あー、うん。そうだな」
 包みこんだ手のなかで、紅の指が微笑みのかわりに小さく動いた。
「あたしに手伝えることはないか」
「そう、だなあ。じゃあ羅依、俺のかわりにそれ動かして」
 紅の視線を追って顔をあげると、そこには水面のように青く光る操作盤があった。
「え……」
「いまのうちに調べておきたいことがある」
 はたして紅の力になれるのか。不安はあったが力いっぱいうなずく。
「わかった。何をすればいい」
「あいつを、瞬を神の座から引きずりおろしてやる。そのためにも時間操作について知らなきゃならない。さざなみの空のこともあるし、アミティスとの道のこともあるだろ」
 苦しげに眉を歪め、紅は囁いた。
「カミサマ廃業してもらおうぜ」