THE FATES

12.讃歌(2)

 大地が震えていた。
 馬の世話をしていた琉霞は、手をとめて外を見やった。
 厩から見える地平線に、普段と変わったところはない。起伏のない、静かな世界が広がっている。だがあまりにも静かすぎた。乾いた土にまばらに生えた草木と、耳をそばだてながら伏し目がちになる馬と、手首に巻いた白い綾紐がおびえていた。
 撫でていた馬の背をかるく叩いて落ち着かせ、琉霞は厩から出る。片目を覆う包帯を取りさって、ふたつの眼で世界を見渡した。
 束になって吹く風はほどけてばらばらになり、空は沸き立つ湯のようにぐらぐらと波打つ。風音には雑音がまじり、掬いあげた砂は内から熱を放っていた。遠く、血の気配があった。
 瞬と結蘭だ。ふたりの《気波動》は他に類を見ない、強大で荒々しい力のかたまりだ。間違えようがない。
 手首の綾紐が風に揺らいで震えていた。
「凍馬くん」
 結び目を手に包み込んで、抱き寄せる。
 凍馬はもう、人格をもたない。思考も感情もない。琉霞と語り合うこともできない。かろうじて綾紐へ残った凍馬を、もはやいのちと呼ぶことはできなかった。
 それでも凍馬は瞬のもとへ行くことを願っていた。残された存在のすべてをかけて、ただそれだけを求めていた。
 はたして瞬のために何ができるのか、琉霞は問わない。なんのためでもない、ただ行きたいという気持ちに殉じることは、それだけで意味があるように思えた。
 抱き寄せていた結び目を額にあてる。ほのかなぬくもりは、自らのものだ。わかっていながら琉霞は凍馬の呼吸を感じた。
 たったふたりきりの家族だった。死んだ母に代わって琉霞が育てた、大切な弟だった。禁を破ってまで存在を繋いだ。たとえ身を削られようとも悔いなどあるはずがない。むしろ、いっそう強く結ばれた絆が嬉しかった。
 だがもう、この手は離さねばならない。
 かたい結び目は片手ではほどけなかった。口を使い、千切れてしまわないようにゆっくりと弛めていく。涙が落ちた。術返しで濁って見えなくなった眼からも絶えずあふれてくる。指先が、綾紐が濡れていく。重くなっていく綾紐を感じて、琉霞は泣くことをやめた。
 笑っていよう。そう思った。
 ほどいた綾紐の端を指先でつまみ、高く腕をあげる。向かい風だ。
「いってらっしゃい、凍馬くん」
 指を離すと、綾紐は弾かれたように空高く舞いあがっていった。灰色の空にまじって、見えなくなる。
 琉霞は地平線へ向かって、そっと微笑んだ。

 どちらが先にこの空間を支配するか。
 瞬は結蘭の結界を阻止しながら、ずっとそのことばかりを考えていた。
 この場所は誰の力も及んでいない、まっさらな空間だ。優位に事を運ぶには結界を張り、この場を自分の支配下に置く必要があった。無二の結界師である結蘭なら、なおのことだった。
 互いの術がぶつかりあっては霧散した。力は拮抗していた。だがそれだけのことだ。かわしきれなかった剣の切っ先が肉を切り裂いていく。払いきれなかった棘が腕や脚に突き刺さる。そのつど術で止血したが、治療までしている暇はない。傷口は乱雑に繋ぎ合わされた溶接部分のように引き攣れて、赤く滲んでいる。しかし痛みはそれほど感じられなかった。
 世界の時間をとめて、瞬は神の眼差しを手に入れた。たった一枚の落葉、路地裏の憎悪、喪われる命、紡がれる歌声、哀しい涙、ありとあらゆる世界の変化が意識の網に引っかかる。それは人には過ぎた力だった。すぐにも瞬の正気は失われた。
 発狂しないためには景色を不鮮明にしなければならなかった。目に映る景色、肌を掠めていくもの、耳を犯し続ける音を、いくつもの壁越しに感じとる。痛みは遠雷のように鈍い。鬼使と名付けられた狂気と哀切を道連れにして、世界は遠ざかった。凍馬が施した封印はそのためのものだった。
 風の唸りに瞬の思案は途切れる。気づいたときには棘が束になって眼前へ迫っていた。とっさに《気波動》を放って払いのけるも、腕にいくらか突き立った。弾け飛んだ棘は空中で溶けて液体になり、雫の形をしたまま砂の上で冷え固まる。海原に散る銀色の飛沫のようだった。
 太く長い棘は骨を砕いて貫通していた。痛みには及ばない疼きが腕を痺れさせる。抜こうとすると自分自身も引きずり出されそうだった。隙間から伝う血で指がすべる。瞬は思わず、失笑とも苦笑ともつかない笑いをこぼした。
 かつて鬼使と呼ばれて恐れられたことが懐かしい。それほど自分は弱くなった。そのことに心のどこかで安堵していた。
「考えごとをする余裕がまだあるみたいね」
「そっちこそ本気じゃないくせに」
 瞬は抜いた棘を投げ捨てる。結蘭は肩をすくめて、血のついた棘を横目に見る。だが拾うことはしない。かつて彼女は殊来鬼の泉が乱れることをひどく気にしていた。血で穢れた棘は結界の支柱としてもう使えないのだろう。
「あなた、どうやって私に勝つ気でいるの」
「話す義理はない」
「鏡もなく、封印までされた身で、私と対等に渡り合えるとでも。なめられたものだわ」
 揺さぶりだ。結界がないままでは結蘭も勝算が立たない。隙を待つのではなく、作ろうとしている。
「封印といえば」
 結蘭は風に乱れる金髪をたったひとつの手でおさえ、赤い唇を笑みに歪めた。
「蓮利朱の術者はどうしているかしら」
 瞬はこたえなかった。
「ほら、仲のよかった姉弟がいたでしょう。一族に比べるものがいないほど力を持った、ふたりきりの姉弟よ。金持ちがいくら金を積んでも相手しないで、貧しいものばかりを癒し続けた偽善者」
「凍馬と琉霞のことか」
「ええ、そうよ。ねえ、彼女はどうしてる」
「気になるなら自分で調べろ。俺はあいつらの監視まではしていない」
「あら。あなた知らないのね」
 結蘭はかるく目を瞠って、声を立てて笑った。
「なんの話だ。あいつらが他の蓮利朱と離れて暮らしていることか。それなら」
「違うわよ」
 結蘭は妙に生真面目な顔をして続ける。
「弟のほう、しばらく見ていないでしょう」
「あ、ああ」
 すこし前から姿を見なかったが、必要なときになれば凍馬はどこからともなく駆けつけてくれると無条件に信じていた。だからこそ、羅依が襲われたときにもその場を離れることができた。だが結局、凍馬が来ることはなかった。
 いまも、まだ。
「ねえ、どうして見かけないと思う」
 結蘭は懐へ手をいれ、何かを握りこんだ状態で前へ差し出した。ゆっくりと指をほどいていく。
「私、彼を殺したわ」
 ひらかれた手のひらから、布の切れ端が花びらのように舞い落ちた。白い布切れは砂の上を這うように転がり、瞬の足元まで届く。元の姿が垣間見えて、背中が粟立った。
 それは凍馬の綾紐、その欠片だった。
 切れ端は瞬の声を聞き届けたというように去っていく。瞬は綾紐の行く先を見届けることなく、砂を蹴って結蘭へと向かっていた。
 塞がりかけていた傷口に指を突き立て、皮膚を破る。風紋が刻まれた地面へ血を散らして、風で消えてしまう前に指をはじく。地中から砂が吹き上げられ、あたりは霧に包まれた。《気波動》を拡散させたもので、瞬の視界を阻むことはない。
 無防備な結蘭へ腕を伸ばし、髪をつかむ。走ってきた勢いをあわせて地面へ叩きつけた。砂が舞い上がり、喉がざらつく。術の文言を舌にころがし指をはじこうとしたとき、視界の隅で剣が閃いた。とっさに上体をそらしてよける。その間隙をついて結蘭は瞬の手から逃れていく。指には結蘭の髪が残った。
 続けて繰り出される剣戟を、軌跡をなぞるようにしてかわす。同時に視界へ入った蹴りを腕で受けとめる。砕けていた骨がさらに粉々になる感覚があった。瞬は押し返すことはせず、むしろ引いて胸をひらいた。結蘭の膝が曲がり、勢いを殺せないまま体がねじられていく。
「螺旋の蝶を絡めとり、しなる若木は枝葉に枷。死の淵へ」
 白くなめらかな結蘭の脚へ、血でしるしをつける。
「注がれし毒にあらがうすべなし」
 肩越しに振り返った結蘭と目があう。術に気づいてしるしを消そうとするが、それより早く瞬の指が鳴らされた。空を切っていく結蘭の脚が、糸が切られたように真下へ落ちた。つられて結蘭自身も砂の上に這いつくばる。瞬はすかさず背中へのしかかり、奪った剣を砂に突きたてた。
 この剣が凍馬を殺したのだろうか。考えると腕が震えた。
「なぜだ……、なぜ」
 吐息の熱さに驚きながら結蘭を睨みつける。
「なぜ凍馬を殺した。あいつがおまえに何をした!」
「彼は私の邪魔をしたわ。生意気だった」
「凍馬ひとりくらい、どうということないくせに」
 奥歯に砂を噛む。嫌な音がした。心の軋みのようだった。
 凍馬の顔を思い出そうとするが、記憶は不鮮明で及ばない。扱う術の執拗さは肌で覚えていても、生きていたときの温もりや死んだときの冷たさは判然としない。泣いた顔も、怒りの拳も、笑い声も知っているはずなのに、水の中から空を見あげるように何もかもが曖昧でぼやけている。
 ただ、彼をふたたび死なせてしまったことだけが、厳然たる事実としてあった。悔いたところで凍馬は戻らず、恨み言を聞くこともできない。もし詫びることができたとしても、どっちつかずの微笑みではぐらかされるのだろう。
 凍馬のため、そして琉霞のために何ができるのか。結蘭を殺して自らも死ねば許されるのだろうか。死で贖えるものなのか。許すことで凍馬と琉霞は救われるだろうか。死んでしまえば、それらを確かめることはできない。逃げだすこととの差異が瞬にはわからなかった。
「大丈夫だよ、瞬」
 懊悩へ応えるように、聞こえるはずない凍馬の声がした。瞬は息を詰めてあたりの気配を探る。
 あの布片は紛れもなく凍馬の綾紐だったが、それが即座に凍馬の死を意味するとは限らない。結蘭が嘘をついている可能性だってあるのだ。
 疑う間もなくすぐ近くから凍馬の囁く声がする。静かに名を呼ばれる。それだけで喉の奥からこみあげるものがあった。
「俺のことは心配しないで。おまえのためだったら、俺はどうなったって平気だよ」
 控えめに、ふっと凍馬が笑った気がした。
 視線をあげると剣に映りこむ自分と目があった。深緑の眼は水面に映る木立のように揺れていた。