THE FATES

12.讃歌(3)

 もし凍馬が生きているのだとして、なぜ結蘭は殺したなどと嘘を言ったのか。この場に凍馬が現れればすぐに瓦解するような脆い嘘だ。つくなら凍馬の身を確保しておくべきで、結蘭がぬかるとは思えなかった。
 ならばこれは誰なのか。
 腕に指が触れた。
「怪我してる。でも安心して。俺はいつだっておまえの傷を癒してあげる。なかったことにしてやるよ」
「え」
 凍馬が完璧に傷を治したことはない。止血して痛みは取り除いても、傷口は縫い合わせた状態で放置した。すっかり元に戻して自分の苦労を忘れられては困るからと、笑いながらいつも話していた。
 これは凍馬ではない。偽者だ。
 剣に映る自分を睨みつける。その眼差しはもう揺らいではいなかった。
「世界中がおまえを嫌っても、俺だけはおまえの味方だから」
 それは結蘭の声だった。瞬は剣を握る手に力をこめた。結蘭の赤く彩られた唇がひらく。
「だからもう戦わないでよ。傷つかないで。俺のお願いきいてくれるよね、瞬」
「悪いが、そんな頼みは聞けないな」
 砂から剣を引き抜いて、大きく振り上げた。結蘭の横顔が一瞬こわばり、瞬は勝利を確信する。しかし直後、握っていたはずの剣がぼろぼろと崩れた。腕を振り仰いで、言葉を失う。瞬が剣だと思っていたのは、砂になる一歩手前の棒切れだった。
「これもか」
 もしやと膝の下を見てみれば、そこはわずかに盛り上がった砂地に過ぎなかった。結蘭の姿はどこにもない。
 背中に悪寒を感じて、瞬はその場から大きく離れた。追いかけるように棘が迫ってくる。すべて《気波動》で溶かして逃れた。
「幻術の味はいかがかしら」
 砂煙の向こうに結蘭の輪郭が浮かぶ。彼女は悠然と歩いていた。瞬が施した拘束術は無効化されている。もしくははじめから結蘭は無傷だったのかもしれない。
「瞬、あなたの術は相手の精神へ直接はたらきかけるものでしょう。私の術は相手の感覚へ作用するもの。この状況ではあなたの幻術はほとんど役に立たないでしょうね。だって私は恐怖を知らない。喪失も敗北も、すべて私の原動力になるだけ。どんな悪夢にも耐えられる。いいえ、そもそも悪夢なんて無縁だわ」
「化け物だな」
 悪夢を知らないなど、人ではない。鬼や悪魔ですら悪い予感に震える夜はあるだろうに。
「いっそ神か」
 瞬は思わず笑みをもらした。それはこれまで散々向けられてきた言葉だった。
 神はなにものも救わない。絶対的な力を持ちながら善も悪も置き去りにして、気まぐれに世界へ干渉する。抗うことすら許されない、運命という名の理不尽を振り撒くのだった。
 そうやって龍羅飛は滅んだ。瞬は生きるために自身を切り売りして心を死なせた。師を殺し、愛を奪われ、夢を見ることも叶わず、ただひとりの友を喪った。
 凍馬を生き人の世界から断ち切ったのは瞬だ。負い目も、後悔も、懺悔も、すべて抱えることを許された唯一の存在だ。その侵しがたい領域へ結蘭は土足で踏み入った。凍馬の尊厳を、ふたりの歩みを、彼女は冒涜したのだ。
 湧きあがるものがあった。怒りと呼ぶには静かで、哀しみと名付けるには狂気が過ぎていた。剥きだしのまま脈打つ心臓のようだった。ひとつ鼓動を鳴らすごとに境界を乗り越え増幅していく。制御することなどできない、なにものにも邪魔されない瞬の自我だ。
 喜怒哀楽、生きるという意志、そのことに理由を求めない従順さ、どこまでも命を優先する貪欲さ。それらを人は本能と呼び、瞬は鬼使と呼ばれた。
 禁じられた檻へ、瞬は手を伸ばす。格子の向こうには一頭の獣の姿があった。いまここで解き放ったなら獣は二度と檻へ戻らない。猛獣使いはもう存在しないのだ。指先がためらった。
 暗がりでにやりと笑う獣が見える。赤い舌をちらつかせ、鋭い牙をのぞかせている。
 ――さあ、俺を解放しろ。たかが女ひとりくらい、俺が咬み殺してやる。
 鬼使の容姿は人と獣のあいだを行き来した。やがて映し鏡のように瞬と同じ姿になって檻に張りつく。
 ――あいつは憎い仇だ。みんなあいつに殺された。俺だって一矢報いたい。
 いくつもの手が差し出される。それらはすべて、これまで結蘭に奪われた人たちのものだった。嘆きが胸を衝く。
 もし鬼使を解放すれば結蘭の幻術などすぐに見破ることができるだろう。だが封印は凍馬が存在した証しだ。失いたくなかった。
 鬼使の手が触れようとしたそのとき、瞬はまどろみから覚めるように現実へ立ち返った。
 気がつくと眼球のすぐそばまで、赤く彩られた結蘭の指先が迫っていた。とっさに目を伏せて顔をそらす。風にまぎれて、かすかに剣を抜く音がした。瞬は体をひねって砂丘の谷底へ自ら転がり落ちた。
 砂に膝をつく。瞼がうすく切れて、目に血が入った。息がひどくあがっていた。鼓動をいやに大きく感じる。腰から脚にかけてが濡れているので見おろすと、左の脇腹が大きくひらいていた。思い出したようにじんわりと痛んだ。
 体を起こそうとしても半身が痺れて動かない。傷口は喘ぐように脈打って、そのたびに血を吐き出した。術式での止血も追いつかない。鬼使がここから出せと反抗しているのだ。不死に近い一族とはいえ、大量に出血すれば命にかかわる。
 視界が歪み、意識が朦朧とした。鼓動が反響して何重にも聞こえた。痛みが研ぎ澄まされていくほどに感覚はなくなり、思考は無駄が削ぎ落とされ純化していった。
 不意に、懐かしい草のにおいがした。青く、苦く、あたたかなにおいだ。凍馬とふたりで駆けた草原の情景が脳裏によみがえる。薬草を摘みに行っては、日が沈むまで走り回った。かけっこは瞬が速かった。だが鬼あそびはいつも凍馬の圧勝だった。腹が減ったときには野兎を捕まえて食べたが、捕まらないときには幻術で気を紛らわせた。
『俺の術は人を助けもするし、傷つけもする。瞬の幻術だってそうだろう』
 どろどろに服を汚して、くたくたになるまで遊んで、毎日琉霞に怒られては抱きしめられた。三人でご飯を食べて、幻術で満たされなかった飢えを癒した。
『どんな術だって使いようなんだよ、瞬』
 術式の話になると凍馬は得意げだった。鏡を操れず術式が不得手だった瞬は、そんな凍馬が疎ましくも誇らしくもあった。その気持ちが瞬を強くした。そして強さは鬼使を生みだした。鬼使は足枷ではない。本能、戦うための感性、どこまでも瞬を守り生かす、瞬の盾と矛だ。
「瞬」
 友の声がした。幻術ではない。
「いつか鬼使と溶けあえる日がくることを、俺は夢見ているんだよ」
 それはいつかの凍馬の言葉だった。
 砂丘の窪みで布の切れ端が震えている。鼓舞されているように思えた。大丈夫、おまえならできるよと凍馬が言っている。
 鬼使を解き放つことへの不安は消えない。寂しさもある。同じ自分でいられる自信もない。だがどうせ破滅の道ならば、歩かされるより自ら進みたかった。
 繋ぎきれなかった自分へ、観念のなかでもう一度手を伸ばす。いのちの奥深いところで、ひとりの男がにやついていた。
 錆びついた檻に外れかかった錠前がかかっている。手にとると砂になって指のあいだからこぼれていった。中からは鮮やかな色をした綾紐があらわれる。綾紐は蛇のように腕へ絡みつき、きつく締め上げてきた。皮膚が裂け、血が滲む。
 凍馬を殺したときの感触が指先によみがえる。ともに生きたいと囁いた凍馬の声が胸に響く。瞬はようやく、凍馬が抱えていた感情に気がついた。
 せめてもう一度殺してやれたなら、彼は報われただろうか。
 血と綾紐で真っ赤になった手を握りしめ、瞬は凍馬を想う。いっそ清々しく一発殴ってやりたかった。
 やがて綾紐は焼ききれて足元へ落ちる。枷はなくなった。
 ――やっと生きる気になったか、この死の淵で。
 男は深緑の瞳を細めて、積み木を蹴散らすように檻から這い出た。
 全身が大きく脈打つ。瞬は現実へ立ち返った。綾紐が巻きついた腕には、螺旋状に傷が残っていた。
 記憶や経験、感覚や感情、肉体や精神、瞬の意識が鎧を捨ててあらわになっていく。それにあわせてあらゆる情報が、堤防が決壊したように流れ込んできた。拒絶するすべはなく、自我は翻弄された。意識が散り散りになっていく。いっそ天水の時間操作を解いて、神の眼差しなど投げ捨ててしまいたい衝動に襲われる。
 鬼使の解放は瞬自身の問題だ。だが天水の時間操作は違う。歯車がずれてしまった天水を救ってくれと、かつて天水王に頼まれて施した術式だ。いまは同じ時間を繰り返すことで何事もないよう見えているにすぎない。なおも根本的な歪みを抱えたままの世界だ。術を解除すれば、瞬を襲う奔流は消える。しかし天水は再びひずんで、おそらく一月ともたず崩壊する。
 神域のはざま、そしてアミティスとの繋がりを取り戻せば歪みは正されるだろうが、その具体的な方法を瞬は知らない。知っていても間に合わない。
 瞬は舌打ちをもらした。時間操作を提案した天水王を、無気力なまま神という言葉に憧れた過去の自分をいまさら恨んだ。
 砂丘の頂上に人影が進み出る。
「友人の死を悼む顔じゃないわね、鬼使」
 結蘭は首飾りに連ねられた龍眼を手の中でもてあそんでいた。遠目に見て、どれも最上の龍眼だった。全部で八つある。四人の眼差しが冷たく世界を見据えていた。
「お前が俺と凍馬のことを知らないだけだ」
「知ってるわ。彼はあなたのことをあい――」
「だからそれを知らないと言った」
 瞬は強い口調で遮り、続けた。
「貴様に俺たちのことがわかるはずもない。わからせてたまるか」
 腕へ触れても綾紐の気配はもう感じられない。だが瞬から凍馬のいのちが消えることはない。瞬のいのちが続いているかぎり凍馬は生きる。いくつもの消えない傷とともに。
「私ばかりがあなたから奪ったみたいに言わないで。あなただって奪っているのよ。私から片腕を、妹を、天水王家の信頼を」
 横から吹く風が結蘭の髪を揺らし、顔を隠す。真っ赤に彩られた唇だけが隠されずに笑っていた。
「あなたを苦しめるに足る理由でしょう」