THE FATES

12.讃歌(4)

 結蘭は優雅に手を差し出して、《気波動》の円盤を浮かび上がらせた。そっと水へ浮かべるように手を離すと、円盤は弾かれたように瞬へ向かった。矢のように直線的ではない、ぶれながら迫ってくる円盤は軌道が読みづらい。
 瞬は目の高さまで腕をあげ、人差し指でそっと線をひいた。
「ひとつ、天高くそびえる壁となる。光も闇も寄せつけぬ、神の城壁」
 白い光が瞬を取り巻いた。結蘭の《気波動》とぶつかりあい、互いに消滅していく。
「ふたつ、報復の雨が降り大地は赤にぬかるむ。それは命の証しと死の呼び声。風を貫く銀の雨、天をここに定める」
 瞬は腕をあげたまま指を鳴らした。雨粒大のつぶてがあらわれ、結蘭へ向かって降り注ぐ。結蘭はよけきれず後方へ大きく吹き飛ばされた。さらに追い討ちをかけるように、倍のつぶてを浴びせる。
「咲き誇れ、気高き混沌。黒い花を伝う蜜は生命の彩り」
 結蘭の障壁とぶつかり、半数が消し去られた。それでも残り半分は壁を貫いて、激しく爆発した。砂塵のかげ、ゆるやかな起伏の向こうに女の手が見える。瞬はそちらへ足を向けた。腹這いになった結蘭は体をひねってどうにか棘を投げた。
「そろそろ諦めたらどうだ」
 棘は瞬まで届かず、ふたりのあいだに落ちた。結蘭は咳込んで血を吐く。腰帯にさしていた鞘が音もなく砂に転がった。
「せっかくの服が台無しだわ」
 結蘭はじっと地面を見つめている。その先には龍眼の首飾りが落ちていた。手を伸ばしても届かない。
「瞬、あなたは何のために戦っているの。何のために傷ついているの。何のために生きて、何のために死んでいくの」
 時間を巻き戻すように、ゆっくりと結蘭の傷が癒されていく。
「私には理解できない。何度躓いても転んでも傷つけられても、あなたは馬鹿みたいに生きる。もういいでしょうに、生き続ける。それを美しいという人もいる。でもあなたは何も持たない子どもと同じよ。無知で貧しく愚かなだけ」
「よく喋る女だな」
 あふれかえる音や言葉に顔をしかめる。瞬は発しようとした術を直前で飲みこんだ。神の眼差しがいっそうはたらいて、とても最後まで唱えきれそうになかった。術式を唱え損ねることは術者の危険を招いた。特に瞬の操る術は発動のための定型をもたない。思い描いた術のために最適な言葉を選び出さねばならず、一瞬でも他のことに気を取られれば暴発しかねない。
 そのことを知ってか、結蘭は落ち着き払って治療を続けた。
「とっくの昔に、あなたは失っているのに。その手には屍しか残っていないというのに」
 空っぽの鞘を掴み、支えにしてゆらりと体を起こす。だが血が足りないのか、すぐに砂へ突っ伏した。
「いまさら小娘の愛に縋って何が変わるというの」
 縋るという一言に、瞬は妙に納得した。幼い子どもが母親から離れないように、飢えたものが施しを待つように、病人が医者を求めるように、瞬は羅依を抱きしめた。何も与えず、与えられるままに貪ったのだ。
 瞬は膝をついて首飾りを拾いあげた。龍眼に映りこむ姿だけはいつも、瞬自身の瞳の色を忘れさせてくれた。
「俺はもう誰の未来も、罪も、憎しみも背負わない。世界なんて、欲しいやつにくれてやる」
「あの子のために?」
「羅依は関係ない。俺のためだ」
「それが回りまわって娘のためにもなるって言うんでしょう。くだらない」
 血で染まった金髪を耳にかけ、結蘭は妙にやわらかく微笑んだ。背筋が凍るようだった。ふと、結蘭の剣はどこに行ったのか気になった。神の眼差しがここにいてはいけないと叫んでいる。しかし絶えず通りすぎていく光や音や命に飲まれて、警告はかき消されていく。
「本当にくだらないわ、鬼使・瞬」
 星が流れるほどの短い時間だった。目の前にいるはずの結蘭の眼差しを背後から感じた。
「結界……!」
 同時に腹に衝撃を受ける。結界の範囲から出ようとするも、身動きがとれなかった。見おろすと、砂から突き出た剣が腹に刺さっていた。貫通してはいないが、剣先は背骨に達している。へたに動けば、出血がひどくなる。瞬は体を起こした。柄が地面からあらわれて、かぶっていた砂がさらさらとこぼれ落ちる。それだけで背骨がくすぐられるようだった。
 結界を打ち破ろうとして指を鳴らすが、一切の手応えがない。瞬は横目に結界を見あげ、小さく息を吸った。
「探査、結界」
 かつて龍羅飛の動きを封じ、いまもなお桟楽を覆っているのと同じ結界だった。結界内のすべてを探り監視するだけでなく、他者の術式を無効化する。桟楽の地下水路でしたように手を押しつけてみるが、手のひらが爛れただけで穴を開けることはできなかった。
「無駄よ、桟楽のとは別物だから」
 結界のきわが等間隔に光っている。それらはすべて瞬が薙ぎ払った棘だ。
「しつこかったわけだ」
「重要なのは形ではなく性質と聖性」
 結蘭の頬にはまだ傷が残り、虫が葉を食むように蠢いている。整えられたはずの微笑みは崩れていた。
「やっと捕まえた。逃がさないから」
 さらに結界が強度を増した。だが瞬には阻むすべもない。
 つま先の細い靴で、背後の結界へと肩を押しつけられる。服は一瞬で灰になり、肩は深く抉られた。腕を伝っていく体液がまた身を焼いた。
 指先にひっかかっていた龍眼を無抵抗のまま取りあげられる。首にかけて、結蘭は愛しげに目を細めた。
「もうどこにも行かせない」
「そういうときは、行かないでってお願いするものだろ」
 息を吸うと、胸の奥で雑音がした。内側に血が溜まり続けている。いま剣を抜かれれば、止血が追いつかなくなる。しかしそれも無事に結界を抜け出られたらの話だ。このままでは術が使えず、死は免れない。
「お願い? 違うわ。確定的な未来の話よ」
 残っていた傷はすっかり消えて、結蘭はあらためて微笑んだ。
 そのときになって瞬は、周囲がひどく静かなことに気づいた。
 静かなのは思考だった。結界により神の眼差しが遮断されているのだ。ただひとつ瞬の頭に響くのは、結界の外に残してきた龍仰鏡の鼓動だけだった。
 届くかもしれない。
 肩を押さえつけられたまま、髪をつかまれ顔を持ち上げられる。
「よく見せて。もう最後になるんだから」
「最後?」
「そう。どんな宝石だって、原石の時代があるから美しいのよ。切り出されて加工されて、人の手で作り上げられるから輝くの」
 結蘭の手が髪から離れて額をなぞり、瞼を撫でた。
「やめろ……」
「いやよ。どこにも行かせないって言ったでしょう」
 うすい瞼越しに指を感じる。顔をそらしても、そのたびに殴られ髪を引っ張られた。
「また俺から奪うのか」
 肩を押さえつけていた結蘭の足が、刺さったままの剣の柄に乗せられる。強く踏まれると、直接腕を突っ込まれて腹のなかをまさぐられているようだった。
 どんなに睨みつけても、結蘭は悦びに頬をゆるませる。もっと憎め、もっと恨めとでも言うように誘う。それが美しい龍眼を作るのだと。
 視界の端に赤い花びらが舞う。それは結蘭の指先だ。胸元の首飾りが揺れて、硬質な音を立てる。龍眼に映る自分と目が合う。その奥に、一族の眼差しがあった。
 裏切り者、そう言われた気がした。
 結蘭の指は瞬の左目へと突き刺さった。痛みを通り越した衝撃が全身をつき抜ける。
 瞬は顔を押さえてうずくまった。
「くそ……っ」
 指のあいだから血がこぼれ、砂の上に点々と染みを作る。だが押さえているはずの手が見えない。
 左目を奪われた。
 頭が割れそうに痛かった。瞼や目の周りの感覚はもはやない。ひどい吐き気がした。震えが、とまらなかった。
「やった! やっと手に入れたわ!」
 結蘭は嬌声のような笑い声をあげた。ふらふらと歩き、窪みに足をとられて砂に倒れこんだ。それでも彼女は体を丸めて笑い続けていた。産んだ子を慈しむような目をして、まだやわらかさの残る龍眼を見つめる。
 瞬は彼女に戦慄した。
「まさか、そうなのか」
 ずっと復讐だと、瞬が奪われたように、結蘭もまた奪われたからだと思っていた。いつまでも執拗に追いかけてくるのは、結蘭の怒りや悲しみのためだと。
 それは違っていた。表層にすぎなかった。結蘭はただ龍眼だけを求めていた。
「どうして、そんな」
 ぽつぽつと、涙のように血が落ちた。
 失いの過去が色褪せていく。凍りついた感情が砕けて、砂のように虚しくなる。
 龍眼など、いくらでもくれてやったというのに!
 そのために茜を、染芙を、凍馬を喪い、羅依を危険に晒したと思うと、瞬は叫ぶことも泣くことも憤ることもできなかった。
 何度顔を拭っても血はとまらなかった。片目では遠近感がなく、自分の手との距離さえはかりかねた。結蘭はまだ砂に寝転がって龍眼を眺めていた。幸せそうに目を細めている。
 残る龍眼を奪われても惜しくない。絶望に襲われることはない。だが結蘭の願いを叶えてやるつもりは微塵もなかった。そのために邪魔なものはすべて切り捨てる。結蘭の結界はもちろん、神の眼差しでさえ。
 天水の均衡を犠牲にしてでも、完璧な自分になる。一度そう決めてしまうと不思議と心は揺らがず、むしろひどく穏やかな心地がした。どんな不安より恐怖より、結蘭への静かな殺意がまさっていた。
 シャツの釦をひとつ外して、空を見あげる。灰色の空は瞬の思惑を見抜いたように、じっと息をひそめていた。地平線からは黒い雲が次々とうまれ、下では激しい雨が降る。
 砂嵐が近づいていた。
「俺はずっと憎かった」
 口に入った砂を吐き捨てる。
「龍羅飛を滅ぼした天水王家、それに手を貸した殊来鬼、そして龍羅飛を笑い、龍羅飛に怯えていたやつら。誰もみな憎かった」
「そう」
「だが俺が本当に憎かったのはきっと、龍羅飛だ。なぜ滅びるような愚かな真似をしたのか。約束を反故にされ襲撃されたのも、龍羅飛に隙があったからだ」
 砂に滲んでいたかすかな影が、みるみる消えていく。上空には砂嵐の雲が伸びていた。かげっていく。
「そのとおりよ。龍羅飛が滅んだのは龍羅飛の愚かさゆえ。それなのにあなたはずっと、龍羅飛という旗を掲げて生きてきた。疎みながら、愛してきた」
 結蘭は指に残った血を舐めとった。
「愚かなおとこ。うつくしく罪深い、しなやかな獣のようね」
 まっすぐ瞬を見る。それは愛の眼差しにも似ていた。
「獣か」
 瞬は乾いた笑いをもらした。獣なら獣らしく、自分の心に正直に生きたい。